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『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2003/7/26  <メディア循環>は起こっているのか?

 ティム・オライリーの云ってることはソフトウェアがこれからどうなるかという分析としては判らんでもないけど、それでオープンソースコミュニティーはどうすべきであると云ってるのかは判然としない。
 あたしなりに解釈してみると、アップルが始めた音楽配信システムのようなことをこさえて個人でも簡単に作品を発表して対価を得られるように運用しろと云ってるように聞こえる。絶望書店日記でくどくどと吹いてることに引き附けた曲解に過ぎんか。まあ、オライリーと同じ意見である必要はないからいいけど。

 べつにアップルがあのシステムを使って個人も音楽配信をできるようにしてもいいし、米アマゾンなんかはすでに個人出版の電子本なんかを販売していたような気がする。しかし、やはりこれらの企業のやってることは既存のレコード会社や出版社の延命にしかならない。もっと明確に既存のレコード会社や映画会社や出版社の囲い込みに対抗する流通チャンネルがあってもよいのではないのか。
 5月31日 間抜けなレッシグを黙らせろ!に記したように現在の最大の問題は<スーツ権>の拡張であって、スーツと創作者を分断させることで大概の問題は解決する。『コモンズ』の問題提起からして急務なのは既存の企業に支配されずに個人でも自由に利用できる流通チャンネルを確保することであるはずなのだが、何故いきなり著作権をあんまり五月蠅く主張しないことを宣言しましょうなんてな話になるのかあたしにはまったく理解できない。
 レッシグは日本に来たときコミケに多大なる興味を示したそうだが、それはまんがやアニメのキャラ使用を既存の企業が默認しているという著作権の自由の観点からで、もっと重要であるはずの既存のものとは違う誰でも利用できる流通チャンネルが確立していることへの言及がないのはいったい何故なのか?誰もその点にツッコミを入れないのは何故なのか?
 レッシグはまたディズニーは既存の作品を利用してきたことばかりを強調するが、既存の映画会社のスーツ連中にしてやられた創作者であるディズニーが自ら会社を起こして自分の想い通りにできる流通チャンネルを確保したことへは注意を払っていない。ディズニーはやがて創作者たちを入れ替えの効く道具としてこき使うという最強のスーツへと変貌する。最適の仕組みなどは存在せず、このようなメディアの循環が重要なのだが、レッシグの世界観は時間軸のない固定的なもののようにあたしは見える。
 現在は既存の作品を利用云々より、このような循環がうまくいかずに新たなる流通チャンネルが立ち上がっていないことが問題なのである。その流通チャンネルがいままでのより優れているかどうかはあまり関係がなく、たえず新しいものと入れ替わる循環が<スーツ権>の肥大を招かないためにも大切なのである。

 もっとも、レッシグは法律家だからあくまで法律の範囲内である著作権にこだわって新たな流通チャンネルなどは己の管轄外と規定しているかも知れんが、あまりに皆がその言説に引きずられてやしまいか。
 クリエリティブ・コモンズに準拠した個人の無料音楽配信システムなんてのはあるみたいだが、レッシグ自ら商業がすべてを決定するなんてなことを云ってるくらいで、既存の企業に支配されない自由な商用の流通チャンネルを確保して、そこにプロの創り手をできるだけ数多く解き放つことによってこそ著作権の自由もインターネットの自由も世界の自由も確保できると想うのだが。
 スーツと関係のない処でいろいろやるより、スーツに明確に対抗しなければならない。ディズニーを批判するより、ディズニーの支配下に甘んじている創作者たちがスーツ抜きで対価を得ることのできるチャンネルを別に確立しなければならない。スーツとして正しい行動を取っているに過ぎないレコード会社や映画会社を非難するのなら、これがスジというものだ。
 イノベーションとはこういうことを指す言葉だと想うのだが。もちろん、創り手のなかにもスーツ以上に五月蠅い輩はいるから、著作権の話などはそのあとにゆっくりやればよい。
 オライリーの云ってるように世の中が動くなら、なおさらのこと。

 なお、あたしはオープンソースだとかレッシグの活動だとかどういうことになっているのか全然まったく識らないで適当に吹いているので、これは純然たる疑問である。
 すでにこんなことをやってるグループがあるのやらないのやら、アップルの音楽配信システムなんかが技術的運用的にどの程度難しいものなのかなど、お判りの方は懇々と教えていただければ。偉い人の言葉に対して詰まらん感想文みたいなのを綴っているよりは知識のない者のこういう疑問にお答えいただいたほうが幾分かは生産的なような。少なくともあたくしにとっては。

 ところで、ブーロドバンドのコンテンツ確保が大変なんてなことをよく聞きますが、ヤフーBBみたいに自らなんにも持ってない処は苦労してありものを買ってくるよりアマチュア集めて昔のイカ天みたいなことでもしたほうが安いし権利関係も簡単だし観る人も多いような気がするんですが。企画もスタッフもタレントも素人をオーディションで選んで、その選考過程もすべて見せるとか。つーか、こんな誰でも考え出しそうな安易な企画はすでに出ているだろうになんでやらないんですかね。はたまた、なんでこんなカラクリを誰も解説してはくれんのですかね。
 あたしが識らんだけか。有識者のみなさん教えてくださいよ。


2003/7/14  ブースカは帰ってくるか?

 このあいだまで日本映画専門チャンネルで『快獣ブースカ』をやっていて、何十年ぶりかに観た。
 白黒番組のためほとんど再放送されておらず、最後に観たのはいつなのかも忘れているくらいで見事に頭からすべて消え去っていたが、とにかくあの最終回にぼろぼろ泣いたことだけははっきりと覚えている。世界三大涙の最終回は『ジャイアント・ロボ』『ハクション大魔王』『快獣ブースカ』でありサリーちゃんやらなんちゃらの犬やらは含まれないことに議論の余地はないが、そのなかでも特にブースカは悲しかったという記憶がある。
 たぶん小学校低学年以来に最終回をきちんと観て、じつはあまりぴんとこなかった。それからビデオで3回くらい観返していてこれは想ったより深い構造であることがようよう知れた。

 ブースカと弟のチャメゴンは10光年離れた星に光速ロケットで探検に出掛ける。2匹の快獣や見送る子供たちは20日で帰ってくると想っているが、相対性理論の浦島効果により帰ってくるのはじつは20年後であることに主人公でブースカの生みの親である大作少年だけが気付いてしまう。
 『ハクション大魔王』の最終回も魔王やアクビとの別れが悲しかったわけだが、別れの悲しさは主人公のカンちゃんだけではなく魔王もまわりの子供たちも共有している。同じ別れでも『ブースカ』最終回の悲しさは大作少年だけが真実を識っていることにあるのだと想っていたのだが、どうもちょっと違ったようだ。
 ストーリーを覚えていないのにこんな風に考えていたのは、1967年の最終回から20年を経ていよいよブースカが帰ってくるぞといった特集が16年前からいろいろあって最終回のダイジェスト版をテレビで観たりしていたからだが、今回よくよく観てみるとそうではない。

 そもそも、由利徹博士が開発した光速ロケットにブースカが乗る理由がかなり稀薄なんであった。
 人口爆発によって地球がパンクするので別の惑星に移住するための植民地を築かねばならず、人間が光速ロケットに耐えられるように訓練するには3年も掛かるからという一応の話はあるのだが、明日すぐに地球が破滅するというわけでもないし、どうしてもブースカでなければならないという決定的な外的要因がない。由利徹博士はかなり嫌らしい大人の論理で大作少年を説得しているが、ブースカに一言真実を告げればロケットなんかに乗らないだろうから最終決定はあくまで大作少年の意志に任されている。
 みんなが20日だと想っていてじつは20年掛かるという浦島効果の話としてはかなり無理のある逆転の説明(子供のときはもちろん判ってなかっただろうし、今回も一度観ただけではおかしさに気付かなかったくらい大胆にうまく処理している)は、大作少年だけが悲しい真実を識るためではなく、彼自身にブースカと別れるという決断をさせるためにあったのだ!

 『ジャイアント・ロボ』の最終回ではギロチン帝王の躯が水爆何百個分の核エネルギーの固まりであるため地球が吹き飛んでしまうという絶体絶命のピンチに追いつめられる。そのとき、大作少年の命令に絶対逆らうことのなかったロボが命令を無視してギロチン帝王を抱えたまま飛び立って隕石へ体当たりをしてもろとも爆発する。
 これもぼろぼろ泣ける悲しい別れの最終回だったが、それは主人公の意志を無視する形の別れだったのだ。同じ大作という名前を持ちながら、なんたる対称性かっ!
 仮にこの大作少年が決定を下していたとしても、なんせ地球がいますぐ爆発するのだからロボを犠牲にするしかほかに選択肢がない。彼が命令したとしてもそれは形式上のことで彼の決断とは云えない。自らブースカとの別れを選び取ったもうひとりの大作少年とは根本的に違うし、それは別れのあとの少年の内面をも規定するはずである。

 また、刹那の出来事であるロボとの別れとは違って、ブースカとの別れは決断から丸1日もある漸進的な別れ、まさしく身を割くような別れでもある。
 『ハクション大魔王』も別れまでに時間はあったが、そのあいだカンちゃんは魔王となんとか別れないようにと一生懸命頑張る。大作少年はなんにも識らずにニコニコ笑っているブースカや子供たちと涙を隠して遊びながら、秘密をひとりで背負い込んでなんとか別れようと一生懸命頑張る。もう、泣ける泣ける。
 こんな試煉を少年に課して自らの意志で成長を選び取らせるなんてのは、最終回は市川森一との共作ながら上原正三のいかにもやりそうなことだ。金城くさいところもちょっとだけあるが。
 念のため市川森一のインタビューを読んでみたが、あくまで別れの物語として、少年自身の「意志」としては捉えてなかったし。もっとも、夢に拘る市川森一らしく登場人物同士の別れではなく「夢物語はいつかは醒めなくてはならない」というような表現ではあったけれど。合わせて考えてみると、エヴァ的ではある。

 20年という歳月は子供にとっては永遠に等しくだから悲しいんだと想っていたが、自ら選び取ったとなると20年という歳月はまさしく再会のための現実の積み重ねであり、大作少年の最後の言葉にはたんなる別れの挨拶以上の重みがある。
「行ってこいブースカ。おまえが今度帰る日はぼくたちも立派な大人だ。この地球でぼくたちは戦争をしない。誰とでも仲良くして助け合い、平和な素晴らしい星にするのだ」
「ブースカ、おまえの行く手には新しい時代が待っている。それはぼくたちの時代だ。先に行けブースカ!」

 このブースカの最終回に対する言論界の言説はどのようなことになっているのかあたしはまったく識らんのだけど、外的要因によってもたらされたたんなる悲しい別れの話ではなく、自ら選び取った「意志」の物語としてきちんと受け留められているのだろうか。
 いつまでたっても未来がやってこないなと想っていたが、<未来>というのが時間の経過のことではなく、人が意志を込めて創造する<物語>であるとするなら、あのころの子供たちがブースカの最終回をきちんと受け留めて自ら実現していないから未来に到達していないのではないか。未来に到達していないからこそ、未だにブースカは先に行ったまま地球に着地できないのではあるまいか。あれだけ泣いた子供のころには判っていたのに決断した意志を忘れてしまったのか。年月だけが過ぎ去って、我々はまだブースカに追いついていない。
 何年か前にBSでブースカとの感動の再会とかいう企画があったらしいが、大作少年役の子役の消息はつかめなかったそうだ。あのころの子供たちはほんとに立派な大人になったと云えるのか。ブースカに顔向けできないような気もするな。

 ところで、ひとの記憶力というのはじつにいいかげんなもんですね。ブースカというと毎回ラーメンを何十杯も食べてたというイメージがあったんだけど、じつは全47話中3回くらいしかラーメンは出てこないんですな。
 いや、5回くらいあったかな?このあいだ観たのにもう忘れてる。あたしの記憶がいいかげんなだけか。
 しかし、ブースカが帰ってくるのは30年後だと間違えて覚えている人がウェブ上だけでもたくさんいて、市川森一もインタビューで間違えてたし。じつはあたしもそう想ってたし。高尚な解釋以前の問題か。
 ブースカーっ!帰ってきてくれーっ!バラサバラサ!
 
 
   


2003/6/30  絶望の来し方行く末

 5月31日 間抜けなレッシグを黙らせろ!が判りにくいとの指摘を各方面からいただいたので、ちょっとだけ書き足してみた。もう一度、奉読するように。
 要約すると
1. 現在問題となっているのは<スーツ権>の拡張であって、スーツ連中は己の権益を守るために著作権という言葉を持ち出しているに過ぎない。その動きに反対する陣営や創作者までもがそれを「著作権問題」として捉えるのは、スーツの手先となっているに等しい莫迦げた話である。
2. より重要なのはメディアの革新である。歴史的に観て、スーツ連中の権益が増大して既成のメディアが硬直化するのはメディア革新を促す原動力となる。その点でもレッシグなんかがやってることは邪魔になる可能性がある。
 もっとも難しい物理的基盤はすでに整っているのだから細かいことをごちょごちょ云う前に革新を起こしてしまえばよいのである。
3. そのメディアの革新を起こすために、おまえら<絶望石>を買え!
 てなことである。

 <絶望石>をはじめたときにあたしは鬱蒼と聳え立つ絶望館の中庭にあたしの背丈と同じ深さの穴を掘った。<絶望石>が売れるたびに同じ大きさの石をこの穴に落とし、穴が完全に埋まったときこそ完全なるメディア循環が完了し、あたしも使命を果たして絶望郷に帰ることができるとの誓いを立てたのであった。
 なんかなかなか穴が埋まらずご近所にゴミを捨てられたりと重宝に使われるようになっていたので先月調べてみたら、この2年間で売れた<絶望石>はじつに4個であった。もうちょっと売れてるような気がしていたのだが。そのうちおひとりが2個ご購入なので3人しか買っておらんということか。うぬぬ。
 先月はあれだけ云ったのだから新たに5個5000円分は売れるであろうという目算を立てていた。而してひと月経ってみれば売れたのはたったの1個だけであった。だが、この方は2万円分をご購入いただいたので目標は達成できた。ディスクスペースも拡張でき、新たなる展開もできることになる。
 諸氏らの性根は重々判った。絶望書店はひとりでも新しい受け手がいる限り闘い続ける!剣の山を踏み越え血潮の海を渡る飢えた豺虎こそ我が友である!!峨峨たる巒壑に臆する輩に用はない!!
 先に<絶望石>が売れたのは1年以上前のことでもあるし、絶望書店主人は当面この4番目の絶望石購入者の為だけに絶望書店日記や今日の一冊を掲げることとする!絶望書店の貸し切り総揚げである!これほど無意味に贅澤極まることがほかにまたと存しよう哉!!!!!取り残されし諸氏は切歯扼腕しつつ眺めているがよい!!!!!

 <絶望石>の売れ行きなぞを調べつつあらためて絶望書店の来し方に想いを馳せていたのだが、絶望書店が表紙に「このサイトに著作権などという軟弱なる護符は一切存せぬ!当方が徴せしあらゆる文章、画像の無断転載、盗用、すべからく無制限に自由である!!但し!これだけの出鱈目を支え切れる絶望を裡に宿せぬ諸氏は、迂闊に真似るやたちどころに心身に崩落をきたす!!ご自愛召されよ!!!」なる言葉を掲げるようになったのは1999年の4月であった。
 「すべからく」を全ての意味で使うのが間違いなんてことを吹聴する言葉とは何であるかも判らない莫迦者がいることは識ってたが、オープンソース運動だとかその手のことは識らなかったと想う。まあ、フリーソフトの存在はもちろん識ってたけど。
 開店当初からこういう考えは明確に抱いていたのだが、わざわざ明示することでもないと考えていた。しかし、あちこちから取材や執筆依頼なんかがあるたびに「絶望書店以上のメディアがこの地上に存するとはとても想えませんもので」という理由ですべて断った上で著作権なんか放棄しているので勝手にお好きなようにしていいと附け足していたのだが、どうも面倒になってきたし却ってこっちのほうが嫌らしい気もしてきたので、開店1年半にしてこのような文言を掲げるように至ったわけではある。
 これはもちろん盗用などされても構わないということもあるが、いろいろ検討してみても絶望書店をマネるのは無理ではないかと結論附けたからでもある。吹いてる内容も表現もそのまま遣いこなせる輩がこの世にいるとは到底想えなかったし、もしできるのならそれは絶望書店になるということであって、つまり盗用されるのではなく反対に絶望書店がそのサイトを乗っ取る形になるはずだ。
 さても、開店から1年くらいの絶望書店は訳の判らん本と訳の判らん文言が惜しみなくどかどか投下されて、あたしも毎日腹を抱えて笑い転げていた。よそから持ってきた本とよそから持ってきた云い廻しがほとんどであるにも関わらず、なんぴとにも盗用することさえ適わぬという絶対孤立を誇っていた。盗用を嫌がる精神というのがあたしにはもうひとつよく理解できんのではあるが、そうであるなら盗用できぬ文章を書くべきではないかという想いがあった。そもそも、ひとが使い廻しできるような文章をわざわざ読んでおもしろいのであろうか?
 これがぐらついてきたのが絶望書店日記をはじめてからのことで、絶望書店日記がどうにも面白くないことと通底しているらしい。絶望書店日記は盗用しようとすればできる。そのわりにしてくれる方もいないが。
 最近は人の日記をそのままパクるなんてのが流行っているらしい。そうじゃなくともほとんど同じ内容の日記ばかりがあふれている。絶望書店日記は少年犯罪データベースや投げ込み寺の過去帳のようにぜひやってくれとこっちから頼んでいるようなことでさえ誰もやってくれない。これは如何なることであろうか?あれほど勝手に使って良いと云ってるのに、絶望書店の文章を絶望書店主人の名前ごと勝手に雑誌に掲載したりするほどの度胸のある編集者もひとりもいないし。
 まったく面白くない話である。

 ところであたしがいま面白いものはひとつもないと云うたびにスタージョンの法則を持ち出す人が必ず顕れるのはなんでなんですかね。あたしはゼロだと云っているんですが。
 あたしはずっとスタージョンの法則てのは「99%はクズ」だと勘違いしていて、全盛期のSFは1%もクズじゃないものがあったんだよなあ。夢みたいだなあ。なんてな風に考えてたんですが、よくよく調べてみると「90%はクズ」なんだそうで。
 10%もクズじゃないのがあったなんてあたしの想像を絶する世界で、もうほんとにSFだ。ほんまかいな。うーん、そうだったような気もする。
 いま現在10%もクズじゃないのがあると想ってる方は200%現状に満足しているわけで、そりゃ根本的イノベーションなんかは必要ない。羨ましい限りではあるが、そんな輩がなにゆえメディアだとか著作権だとかに興味を持つのであろうか。あなた方にはそんな詰まらん議論は必要ないはずなんだが。やっぱり現状維持のためなんだろうか。
 いま現在ゼロだと想ってる者にとってはせめてスタージョンの法則の1/10000くらいまで飛躍的に引き上げるために多少の流血を伴っても革命的変化を起こすしかほかにない。現状に満足している輩は邪魔にしかならないし、明らかに敵だ。
 とりあえずあなた方は絶望書店なぞに来る必要がない。絶望書店は眞に渇いた絶望者のための書店であるのだから。店名からして明確なはずだ。去れ。


2003/5/31  間抜けなレッシグを黙らせろ!

 ローレンス・レッシグ『コモンズ』がようやく図書館でつかまったので読む。杉並図書館は数年前に予算を極端に削って新刊の入荷が眼に見えて悪くなり順番待ちの輩はいや増して、予約から何ヶ月も待たされた。これもコモンズの縮小の一端なのか、共有地の悲劇なのか。もとより買う金は持っとらんし、天下の廻りものが廻ってこない個人的な悲劇か。
 この書はwad’sも云ってるように、己の思想を正当化するために創作だのイノベーションだの持ち出してきているような気があたしもするし、メディアの進化一般の見地から批判するのは見当外れなような気がするが、どうも著作権の問題を妙な具合に歪めているような気もするので、時季外れにネタにマジレスしてみたい。

著作権はふたつに頒けろ
 日本には版権と著作権というふたつの言葉がある。版権というのは福沢諭吉によるコピーライトの訳語らしいが、もともとは板権から来ているのであろう。板権というのは活字ではなくページを彫り込んだ板木での出版を行っていた江戸時代のその板木に伴う出版社の権利のことである。板木を持っていない者は同じ内容を出版する「重板」も似たような内容を出版する「類板」も禁じられて、やるとしたら板木を買い取るしかない。板権はまさしく英語のコピーライトと重なる概念である。(江戸時代は「板株」という言葉が一般的。ひょっとすると「板権」というのは明治にできた言葉かも知れんが、概念は一緒で流れは板株→板権→版権で同じ)。
 この板権はなかなか強力なもので、『徒然草』だとか『伊勢物語』とかの古典でも最初に出版して板木を持っている出版社以外は本にすることができず、注釈書なども類板として取り締まられるので、江戸初期は無数にあった注釈書が法律と出版社組合が確立した元禄以降はほとんどなくなってしまう。また、同じ筆者が同じようなテーマの本を他社から出そうとする場合、必ずしもまったく同じ内容ではなくとも類板として差し止められるというようなことがあった。
 一方で弱いながらも著作者の権利はあり、江戸時代の日本には版権は著作権と対立する概念として明確にあった。明治時代に福沢諭吉が欧米の法律を持ち込んでから、ふたつの概念は曖昧になってしまったが。

 英語ではひとつの言葉しかないからなのか、著作者の人格と不可分と考える大陸法とは違って版木のように売買できる財産権である英米法のためなのか、ほんとうの自由な創作活動やほんとうの革命的イノベーションなど求めているわけではなく己の思想の方便として云っているだけだからなのか、『コモンズ』では版権と著作権を明確には区別していない。たぶん最後の理由が一番ありそうだが、これが一番肝心な問題を判りにくくしてしまう。
 著作権の話の本質は、創作に関わってないスーツ連中があたかも創り手のためであるのかの如くに主張しながら金とコントロール権を握っている点に尽きる。これは企業が芸術家を搾取しているなんて単純な図式ではなく、創作活動の本質に関わるなかなか厄介な問題ではある。
 スーツ連中が大金を取るために創り手の取り分が少なくなるという問題もあるし、無駄に多いスーツ連中を喰わせるためにより多くの部数を掃かなくてはならなくなり、そのためには最大公約数的な無難な内容に中身を薄めないといけないという問題もある。もともと、本などというのは1000部も売れれば採算が取れるはずなのだが無理を強いられることになるし、またいろいろ口出しをされることになる。<他者>の恐るべき脅威
である。
 版権と著作権は基本的に敵対関係にある概念として確立させるべきである。いま問題となっているのはこの版権(現在の著作権の一部と著作隣接権を含むスーツ権)であり、スーツ権は著作権を抑圧するものとしてきちんと捉えるべきである。このスーツ権問題を著作権問題として捉えているレッシグは、問題を隠蔽しようとするスーツの手先となっているに等しい。
 この点を明確にしてから次の段階に移らなければならない。

既存の創り手などいらない
 より大きい問題は創り手の側がこのような体制に依存していることである。いまや物理的な流通基盤はいくつもあり、『コモンズ』で強調されているような妨害活動などないにも関わらず、旧体制のほうを選び取る創り手がほとんどなのである。レッシグが理想とするような自由な流通チャンネルやイノベーションだのをほんとうの意味で求めている創り手などいないのである。
 現在の日本の出版界はブックオフやマンガ喫茶という物理的なインフラがすでに整備されている。ブックオフやマンガ喫茶はいろんな批判に晒されているため、多少の金銭的損失があったとしても既成の本とは別ルートの新しい形態の新刊を扱ったり自ら出版を手がけたりする潜在的動機付けがされている。ここに附け込んで、出版社も取り次ぎも取っ払って自分の本を売り込もうとする書き手がひとりもいないことが、最大の問題なのである。創作者の権利を護りたいなら余計なスーツを排除して創作者の取り分を増やそうとするのが当然であるのに。
 こういうことも想い付かない輩の書いている文章が面白いはずがないし、読む価値などまったくない。貸本屋や古本屋が発達すると自ら出版をはじめるという歴史的事実や力学的必然について考えたこともないのであろう。
 反対にブックオフやマンガ喫茶を批判して旧来の流通チャンネルの独占を強化しようとする書き手がいたりもする。こういう輩は編集者の存在を何故か過大評価しウェブはチェックが働かないのでいいかげんなどと本気で考えていたりする。いまはまともに仕事をしている編集者などいない。数人はいるかも知れんがそれは編集というシステムとはまったく関係なくたまたま偶然そこにいるだけで、多少は働いているように見える連中もただ旧来の枠組みに当て嵌める機械作業をしているに過ぎない。編集者とは本来新しいメディア自体を創造する創り手のことを云うのだが。
 枠組みに疑問を抱かない者を創り手とは呼べない。<他者>のひとりである。創り手がスーツになってしまっているのだ。
 自ら束縛を求めている家畜でもある。家畜の書くものなど読んでも仕方がない。この連中の拠り所は自らが既成の枠に嵌っているということだけである。肩書きだけの編集者にチェックしてもらうことで責任を回避し安堵する甘えた無能者である。
 日本の著作権の源流である大陸法では著作権とは創作者が出版社から独立して対抗するために闘い取られたものであるのだが、それをいままた出版社の支配強化のために使わるとは皮肉な話ではある。ちなみに宮澤溥明『著作権の誕生 フランス著作権史』は有名な作家たちがいかにして出版社や劇場(現在の放送局や映画配給会社に相当する)と闘ってきたかがよく判り読み物として面白い。ジャスラックの理事がこういう本を書くこともまた、この問題の捻れ具合を表していると云えようか。
 過去の優れた創り手は枠組みそのものを変革してきている。眞の創り手はコンテンツではなくメディアを創造するのである。既存の枠組みに満足している者にものを創る資格などない。
 現在読む価値がある唯一の存在である絶望書店がメディアであるのは偶然ではない。メディアがメッセージとはよく云ったもんだ。

 おまえら!この妄想を買え2のリンク集なんかにあるような本の流通について記してきたのは、既存の本を流すためではなくまったく新しい本を生み出すために枠組みを変革しようとする試みで『コモンズ』の考えと多少似たところもあったが、とりあえず既成の書き手に関してはそんなものは欲してないし、新しいものを生み出す能力もないとの確信を数年間を経て持つに至った。
 もっとも、それは判っていたことで、あたしはいまある既成の本も映像も音楽もまったく面白くなくて心底困っている。それこそ根本的イノベーションが起こってもらわないと愉しみがなんにもない。そのためにこの『コモンズ』とかいう本はなんの役にも立たない。『だれが「本」を殺すのか』が出版界守旧派の意向を受けて問題を隠蔽するために書かれたように、むしろ問題から眼を逸らす役割を担っているように想える。
 レッシグも既成の書き手のひとりであるし、ディズニーだのなんだのを自由に使えるようにしろと云ってるくらいだから既成のものについて満足しているのであろう。それなら彼の云う「イノベーション」とはいったいなんなのであろうか。もうひとりのディズニーを生むだけのことなら「イノベーション」だのとご大層なことを云うほどのことなのか。
 少なくともあたしはそんなものでは困るし、せっかくメディアの転換期に立ち逢った甲斐がない。
 新しいメディアに流してもらいたくないと云ってる旧メディアの連中のものをわざわざ流してやる必要などない。向こうから頼んできても断るべきである。

新しい創り手は顕れていない
 ディズニーにしろレコード会社にしろ既存の大手が自分たちの財産をウェブに無制限に流れるのを抑えようとするのは、メディアの進化にとってまことに結構なことである。ウェブ上ではそれらの既存の勢力とまともに競合せずに新興勢力が地歩を築けるからだ。
 問題はいまに至ってウェブ独自の映像や音楽などが生まれていないことのほうなのである。それをディズニーが著作権に煩さ過ぎるせいだと云うのは無理がある。
 新しいメディアにはそれに合った表現がそのたびに生み出されてきた。あたしは音楽には疎いのでよくは識らんのだけど、たとえば着メロのようなこれまでの音楽とはまったく違う概念のウェブ独自の音楽なんてのはあるのだろうか。ウェブで音楽を聴くとうざくてすぐに消してしまうが、うざくない新しい音楽の試みなんかを真面目にやってる者はいるのだろうか。
 あたしの識ってる範囲ではインパク音頭くらいしか想い付かん。インパクみたいなものを嗤うなんていう己が低脳であることを喧伝するようなことをやってる輩は一杯いたけど、インターネットの有り様を餘すことなく歌い上げたこんな素晴らしい歌はあんまり広がらなかったな。
 まあ、ほんとにこれがウェブ独自の音楽であるかは疑問のあるところで、フラッシュなんかも面白いものはあるもののほんとにウェブ独自の映像と云えるかは疑問ではあるが。
 せっかくの空白地帯になっている処でまったく新しい表現が生まれ、ディズニーや既存のレコード会社を衰退に追い込めば、レッシグなどに詰まらない理論を振りまわされてでかい顔をされなくとも済む。本やCDの売上げが落ちていることはコピーの問題だけではないだろうし、潜在的にそのような流れは望まれているはずで状況は有利なはずなのだが。
 やっているのは既存の表現の縮小再生産でしかない。自由は無限にあるのに。
 テレビやラジオや雑誌で流れてるようなものをウェブで流しても仕方がない。そもそも既成のものが「良い」という感性自体が劣っているので致し方ないが。とくにあたしが不思議なのは雑誌などといういまどきまったく売れていないもののデザインが「良い」ものとして、それをそのまま持ち込んだような醜悪なウェブページが多いことである。新しい創造などという遥か以前の状態ではある。
 『コモンズ』で謳い上げられているように自由な空間がイノベーションを生むというのはかなり怪しい話ではある。歴史を見るとメディアの転換期には新旧の苛烈な激突があり、そこからまったく新しい表現が生み出されている。旧体制があまりに強力なために擦り抜けるためにそうせざる得なかったという面もある。
 メディア進化の歴史についてはもう一度よく見ておく必要があるのではないか。一番美味しいところをわざわざ切り捨てるということにもなりかねん。

新しい受け手はいるのか?
 この書には何十年も前の本を舞台化しようとしたが著作権に阻まれてできないとかいう話が大問題として出てくる。しかし、例えば絶望書店は昔の本を使ってまったく新しい形の演劇をウェブを舞台に展開しているとも云える。
 この書では「イノベーション」とかいう言葉がやたらと出てくるが、こういうまったく新しい動きが視えないのなら「イノベーション」など意味はない。
 古本屋からも著作権者に対して金を払わそうという動きがあったりしてレッシグの心配する新たな規制ができるかも知れんが、そうなったらまたべつの面白い方法を編み出すだろうし、いざとなったら刑務所に入ったり破産すれば済む話である。
 そんなことよりも、まったく新しい表現を受け入れるだけの能力を持った受け手がいるのかどうかが大問題ではある。
 絶望書店のなかで唯一旧来のメディアの延長である絶望書店日記だけを読んでいる輩が大勢いて、せっかくの絶望書店の革新性を読み取っていない。
 そもそも受け手はイノベーションなど望んでいるのかどうか。

メディアの歴史を本当に識っているのか?
 国家だの市場だのの大きい単位の平均的な話ならレッシグの云ってることはもっともな面もあるが、創作活動などという突出した分野のさらに新機軸なんていう突出した部分に於いて規制がどうだなどということはおよそ関係がない。『CODE』と違って『コモンズ』にあまり説得力がないのはこの点で、思想をもっともらしくするためのダシにしか見えない由縁である。
 新旧のメディアが激突する時期の鬩ぎ合いこそがメディアの本質であるとも云える。現代はそれが起こっていないことのほうが問題なのである。

 ほんとうの創り手はどんな妨害があろうとも己の創りたいものを創ってしまうものだ。いざとなれば刑務所に入ったり破産すれば済む話で、ほんとうのイノベーションを打ち立ててきた先人達は皆そうやってきている。
 新しい表現を生み出した創り手がいよいよ困っていたらそのとき初めてレッシグのような法律家が助けてやればよいのであって、法律家が先回りして予想できるはずもない新しい創造物についてあれこれ考えるのは莫迦げているし、ましてや法によってそれが生まれるなどと間抜けなことを云うもんではない。
 しかし、これはレッシグが悪いのではない。この期に及んで未だにまったく新しい創造を打ち出せないでいる創り手のせいで、頭の回転の速い者が辛抱たまらずつい先走りしてしまっただけのことだ。
 早いとこ旧メディアと激突せざる得ない新しいものを見せつけて、法律家本来の仕事をやらせてやれ!!

 ところで「コモンズ」なんていう聞き慣れない言葉よりも「楽市楽座」なんてな邦題にしておいたらITバブルの頃によくあったインターネット論と本質的に同じだと判ってよかったのではないのかね。楽市楽座も為政者の保護によって自由が護られてたんだろうから。こっちのほうがイノベーションはともかく発展とか繁栄とかのベクトルが明確に含まれた概念であるし。聞き慣れない横文字のほうが好きなITバブルのオヤジなら「コモンズ」なんてなほうが良いのだろうが。
 ITバブルの頃によくあった脳天気インターネット論を嗤う輩は多いが、あたしはそんなに間違ってなかったと想っている。実体は伴わなかったがそれは実体のほうが悪いのであって、絶望書店のような立派な成功例もあることだし。結局は演じ手の能力がすべてではある。

 コモンズというのは「入会地」という名で日本にも古くからある。裏山を村の共有地として薪などを取り過ぎて荒廃させないように共同管理したりする、主に現状維持のためのシステムである。
 ディズニーの作品がただで無制限に流れるようになると新しい勢力が入り込む隙がなくなり、それこそ現状維持が続くことにもなる。旧メディアの強力過ぎる保護は諸刃の剣で、旧メディアを衰微させ新メディアの勃興を促する原動力ともなる。囲い込みと隔離は表裏一体で、既成の体制に関係なく自由に暴れる新興勢力が顕れるといつでも逆転することになる。
 メディアの進化にはいつもあったこういう関係から見ても、レッシグのやってることはズレている。彼の思想にとって美しい体系であれば、メディアの進化が現実に起きるかどうかなどどうでもいいのであろう。本当のイノベーションなど望んでいないのである。

 平均値の話としてはアーキテクチャーが人の行動を左右するなんてこともあるのだろうが、創作活動やイノベーションなんて世界では莫迦や気狂いの突出した行動がアーキテクチャーのほうを規定するのである。
 早いとこあっと驚く新機軸を打ち出して、法律学者先生に世の中のダイナミズムというものを教えてやれ!
 江戸時代の出版界では小難しい「物の本」を出すご立派な出版社は上記のような自らの既得権益を護るための法律に雁字搦めになって衰退していった。一方で出版社組合にさえ属さない新興の出版社が非合法のゲリラ的手法でもってまったく新しい世界を切り開いていった。
 ほんとうのイノベーションとはこういう<メディア循環>によって起こるのである。もっとも難しい物理的基盤は必要ではあるが、ウェブだのなんだのですでに条件は整っている。

結論
 あたしは新しいメディアと云えた黒薔薇は時々読み返して自分でも笑ったりしているのだが、旧来のメディアである絶望書店日記はどうにも面白くなくて絶望書店主人がわざわざ書くほどのことはないと常々考えていて、この4月にはやめてしまうつもりであった。日記の代わりとなる今日の一冊の準備に手間取ったのと、旧メディアからの想わぬ接触に応対するため図らずも延命してしまった。
 どこも本の画像はおんなじのばかりで今日の一冊みたいなやり方があるんではないかと絶望書店開店当初から想っていたのだが、デジカメが手に入らないので6年も遅れてしまった。どこの家にも古いデジカメの一個や二個は転がっているだろうに何故ただで寄越さないのか。麗しい共有の精神を持ってはおらんのか。
 ディスクスペースがもっとあればさらに面白いことができるのだが、誰かコモンズとして絶望書店だけに解放せんか。レッシグの云うように物理的基盤はまことに重要である。

 てなことで、結論としてはおまえら<絶望石>を買え!
 根源的再編成が迫られているあらゆる分野のコンテンツ事業の将来は、まさしく絶望書店と<絶望石>の行方如何に掛かっておる。諸氏の心がレシイバアとすれば<絶望石>は萬人に向かって放送せらるゝ大マイクロホンである!メディアの未来を見たくはないのか!絶望書店に物理的基盤を与えてみよ。
 たとい諸氏らの想うようなものが出てこなかったとして、握り締めながら一心に祈れば向こう三軒両隣り孫子の代まで深い絶望を得ることができるのであるからして、論理的必然として絶対に損にはならぬこと科学的頭脳を備えし貴君には説明の要もない。買え!

  2003/6/30 絶望の来し方行く末も参照のこと


2003/4/17  小谷野敦氏からの電話

 昨日の夜の11時過ぎに小谷野敦氏からお電話をいただき、1時間ほどお話をさせていただきました。
「絶望書店ですか」
「はい」
「おまえの名前は何だ?」
「は?どちら様でしょうか」
「小谷野だ。おまえの名前は何だ?」
 というような具合に何の前触れもなくいきなりまた名前の話がはじまりました。あれ以来、メールもなにもいただいてはいなかったのですが。
「ご用件はなんでしょうか」
「名前を名乗れ」
「お話があるのなら伺いますが」
「名前も名乗らないような奴と話をしたくない」
「それでしたら、お話などしないということで結構ですが」
「いや、そんなことはない。そんなことはない」
 とあたしにはなんだかよく判らん展開が続きましたが、記憶を頼りに内容をまとめてみたいと想います。
 なお、メールをいただければお返事差し上げると再三に渡って申し上げたのですが「おまえはまた勝手にメールを載せるだろう」「おまえのメールはふざけているから嫌だ」というような理由で拒否されてしまいました。電話での喋り方もふざけていると何度もお叱りを受けまして、それなら電話はやめてメールや手紙にいたしましょうとご提案したのですが、あたしにはなんかよく判らない理由をいろいろ云われましておりました。当方が勝手に電話の内容を発表すると当方の都合のいいように歪曲されてしまうやも知れずメールをそのまま掲載するほうが公正だとも申し上げたのですが、とにかくメールは駄目で電話がお気に入りのようです。

 あたくし自身がよく理解できなかったので、以下の内容はそれを前提にお読みください。括弧内は小谷野氏の口調をできるだけそのまま再現するように努めております。
 またもや「論文を書いて発表しろ」と繰り返し繰り返し仰っておられました。当方は学者の世界など興味がないと何度申し上げても頑として受け付けていただけず、「何故そうなんだ!」「シニカルなんだ!」「斜に構えるんだ!」「おまえは学問を何か憎んでいるんだな!」「世の中を変えようとは想わないのか!」とのお言葉を頂戴いたしました。
 2002/9/25 平均寿命23歳のページはあれからあちこちで評判になって実数で1万人以上の方に読まれたから当方としてはこちらのほうがよいと申し上げたのですが、インターネットなら1万人だろうと無価値とのことでした。「平均寿命23歳」なんて小学生でも判るような出鱈目を書いてもチェックできない編集者や学者ばかりの本や学問の世界に何故そこまで価値があるとお考えなのかお訊きしたのですが、要領を得ないお答えでありました。
 2ちゃんなどでは小谷野人気が爆発で3000部しか売れない本なんか出すよりこっちのほうがよろしいのではないでしょうかと申しますと「2ちゃんねるの奴らなんかバカだ!これは書いてもいいよ。2ちゃんねるの奴らは新聞も雑誌も本も読まないからバカだ!匿名だからバカだ!」ということでありました。しかし、「言説の権力について書いている奴がひとりいたな。あれはいい」ということで、小谷野スレは読まれてるようですよ住民のみなさん。
 インターネットはとにかくふざけているからいけないんだそうです。資料の出処さえ調べずに「平均寿命23歳」なんて出鱈目を書くのはふざけていないのでしょうかと申しますと、よく判らない反応でありました。
 ここで改めてあんな間違いを犯した自分自身をどのようにお考えなのかを問うてみましたら、「間違えたら訂正すればいいだけ」とのことでした。しかし、江戸時代に詳しいと想っていた自分が遊女はみんな23歳で死んでしまうなんて基本的なことさえじつは判っていなかったというのはいかがなお心持ちなんでしょうか。「俺は歴史学者じゃないし江戸時代のことなんか詳しくない」。え?でも「浄瑠璃や歌舞伎を知らない、馬琴や黙阿弥を読まない、落語を聴かない、そういう連中に先導されて賑わっているのが<江戸ブーム>なのだから、お寒い話である」と仰ってたんでは?「ああ、あれは落語を聴かないで江戸時代のことを云ってる奴らのことだけを云ったんだ」落語?落語は明治のものですから江戸時代のことは判らないのは?「ああ、たしかに落語では明治のことしか判らない」え?でも江戸文化のお話では?「ああ、落語でも幕末のことは少しは判るよ」と、あたくしにはよく判らなかったのですが、どうもご自身の文章もよくお読みにはなっておられないような印象を受けました。
 名前の話も結局はよく判りませんでした。「本名を名乗れ」。しかし、小谷野敦というのも本名なのかどうなのか当方には判りませんし。「本名だよ」。それなら絶望書店主人というのも本名かも知れませんし。「いや、そんなことはない。そんなことはない」というようなことを延々と仰っておられました。
 インターネットはまた、世の中を動かさないからいけないんだそうです。しかし、こうやって現にあなたが電話を掛けてきていることですし。「いやいや、俺程度の者を動かすくらいでは駄目だ駄目だ」とご謙遜なさっておられました。
 あたしが江戸より明治のほうが酷い時代ではないかと申しますと「廃娼運動があっただけでも明治はいい時代だ」。なんで現代でも廃娼運動をやらないのでしょうか?「まったくそうだ」。いやいや、あなたがやればよろしいのでは?「俺なんて組織力もないし・・・・しかし、石原都知事と太田府知事には手紙を出したぞ」とのことで、世の中を動かそうと果敢に行動されている小谷野氏でありました。
 また、江戸時代の性は聖なるものかなんてお話もいたしました。現代に於いてAV嬢や風俗嬢を心の片隅でも崇めている方というのはいて、それは明治以降のキリスト教の影響があるかも知れませんが彼らが想い描いているのは明らかに西洋風の女神ではなく中世以前の日本にあった菩薩や巫女の観念に近いもので、中世以前と現代にあるのに何故江戸時代だけそういう考え方がないと云えるのか、また遊女が汚らわしいと同時に神聖なのは現代に於いても矛盾無く共存する考えなのに江戸時代では汚らわしいだけで神聖でないと云えるのかという当方の疑問を問うてみましたら、いろいろなことを仰っておられましたがあたしはまったく説得されませんでした。話が通じず「まるで異文化接触のようだ」とか仰いますので、本を出すというのはそういうことではないでしょうか。判っている相手に読まれても意味はなく、当方のような者を説得していただかないと。また、莫迦にしているインターネットに書くというのもそういう意味があるのではないでしょうなどと僭越ながらも申し上げましたら、なにやら想うところもあったように感じました。
 そこで、2003/3/8 遊女を虐待する人々のことをぜひにも調べて論文を書いて発表して世の中を変えていただきたいと申し上げました。小谷野氏はこの文章を読んでおられないとのことでした。反論する場合は相手の文章をすべて読むと仰っておられたのでは?「あれは活字のことでインターネットなど読む価値はない」。それなら当方のことなど気になさらずに無視してくださいと申し上げましたら
 「おまえに興味がある」
と云われてしまいました。
 あたくしは生涯に於いてこんなお言葉を直接頂戴するのは初めてのことでありまして、絶望書店主人は受けキャラではないのでこのようなセリフはご勘弁願いたいものです。まことに健康によろしくない。うーん、これがひょっとして受けキャラというものなのか!?
 とにかく、当方にもいろいろ都合というものがございますのでお電話だけはご容赦くださいと何度も何度も懇願いたしましたが、きっぱりと拒否されてしまいました。「また、電話するからな。じゃあね」と切られてしまいました。

 どなたかデジタル録音できる電話機が余ってたらいただけないでしょうか。通話と録音だけできれば壊れていても結構です。どの機種が一番安いか情報お持ちの方もご教示いただければ。
 次回からは音声をそのままアップいたします。あたしくの頭ではまとめるのは到底困難な内容でありますので。
 絶望書店開闢以来6年目、知的な美女のアプローチはいまかいまかと心待ちにしていたのですが、ひとつもなく・・・・。




 


 てなことを書いていたお電話の1時間後に、小谷野敦氏よりじつに丁重なるメールをいただいた。ご許可をいただけたようなので、また当方の返信とともに交互に掲載する。
 なお、電話は16/23:20から17/00:20くらいではなかったかと想う。

 

2003/4/18 絶望書店主人記す。     

2006/4/15 追記
 小谷野敦氏の許可をいただいて3年間メールを掲載していましたが、小谷野氏から削除依頼を受けましたので掲載を取りやめ、代わりに簡単な要約に差し替えました。当方のメールは引き続きそのまま掲載しています。
 一方の側が要約しているのですから、ひょっとすると当方の都合のいいようにねじ曲げて公正を欠くやも知れません。当方としてもこういうことはできればやりたくないのですが、これが小谷野氏の要望ですので致し方ございません。ご容赦ください。
 削除の経緯につきましては「2006/3/28 小谷野敦氏よりの削除依頼」をご覧下さい。
 「2002/9/25 平均寿命23歳」の小谷野氏のメールも先に削除しています。



 
小谷野敦氏より<1> 2003/4/17/01:21

絶望書店主人・要約
これまでとは一転して丁重なる表現のメールでありました。
絶望書店主人の2003/3/8 遊女を虐待する人々は正しいが、そうであっても『江戸幻想批判』の『遊女の文化史』批判は有効である。絶望書店主人は論文を書くべきといったような内容です。



 
絶望書店主人より返信<2> 2003/4/17/09:23

小谷野敦 様

 お世話になっています。絶望書店でございます。お忙しいところ、メールいただきありがとうございます。
 今回のメールも当方のページに掲載することをご許可いただけますでしょうか。小谷野様の株もますます上がることになるかと存じます。拒否されない場合はご許可いただいたと見なして掲載させていただきますのでご諒承ください。

 さて、当方の駄文をお読みいただいたのは嬉しいことではございますが、またもや裏も取らずに鵜呑みされているような危惧を抱きます。当方の述べておりますのは一次資料さえ参照していないかなり大ざっぱな推定に過ぎませんので、必ずや三カ所の投込寺の過去帳を精査されますように。
 浄閑寺の一般女性の数は一般男性を調べればかなり正確に判るのではないかと推測しております。1割というのは年にひとりくらいしか死なないということで、いくらなんでも少なすぎるのではと考えております。
 この三寺のほかに吉原関係の寺に春慶院というのがございます。手元に資料がないので名前は忘れましたがひとつの遊女屋が家族とともに抱えている遊女を葬っております。無縁仏ではなくきちんと弔っており、投込寺とは性格を異にするものです。北小路健『遊女 その歴史と哀歓』(昭和39 人物往来社)をご参照いただけましたらお判りになりますが、人数はかなり少数のようです。
 この四寺の過去帳を纏めると吉原関係の基礎資料がきちんと揃うことになります。それだけで遊女研究の第一人者になれるかと存じます。できますればすべての資料の画像をウェブ上に公開していただければ、研究は飛躍的に発展するでありましょう。資料を精査するためには手書きで写すよりデジカメに撮るほうが簡単ですから、ウェブ上にアップするのは手間は掛からないかと存じます。

 江戸時代の遊女は親の借金で売春させられるということだけで充分悲惨な話で、若くして大量に死ぬなどというでっち上げをする必要はなにもありません。しかし、それなら現代にも借金のために風俗で働いている女性はたくさんいるから現代と江戸時代はあんまり変わらないのではないかという当方の最初の疑問に戻ってしまいます。
 悲惨派が歴史を無理にでもねじ曲げるのは、このような粉飾をしないと江戸時代が暗黒にならないと判っているからなのでしょう。最初に江戸時代が暗黒という結論があって、それに合うように歴史を捏造しているのです。これは研究とは云えません。
 死亡率の話は折檻死や過労死などの苛酷な環境があったかどうかということがポイントです。死亡率が低いのなら現在の風俗と変わらない環境のはずで、現代と江戸時代はあんまり変わらないのではないかという当方の最初の疑問にお答えいただかないとなりません。
 江戸時代の遊女も悲惨でしょうが借金のために働いている現代の風俗嬢も同じくらい悲惨なはずで、はたまた過労死したり失業して自殺する現代のサラリーマンと江戸時代の人々がどの程度違いがあるのかなどの素朴な疑問に答えていただきませんと。
 また、吉原の研究がこのような捏造を元になされているのなら、吉原以外の遊女研究も当然捏造があるのではないかと疑ってもう一度再検証する必要があります。このポイントをお忘れにはなりませんように。
 まともなデータ無しで何百年前のことが正しく判るわけがありません。暗黒だの悲惨だの云っているからいけないと申し上げているのではなく、データのねじ曲げがいけないと云っているだけのことです。ねじ曲げを元にして江戸時代が素晴らしいなどと云っていれば、当然同じように問題であります。

 お電話の内容はできるだけ忠実に文章化したつもりでございますが、誤りなどございましたらご指摘ください。訂正させていただきます。
 なお、次回よりはお電話の内容は録音いたしまして音声をそのまますべてウェブ上に公開させていただきますので、あらかじめご諒承ください。
 できますればお電話はご容赦いただいて、メールにて済ませていただければ幸いです。
 よろしくお願いいたします。

絶望書店主人 



 
小谷野敦氏より<3> 2003/4/17/17:50

絶望書店主人・要約
絶望書店主人がやたらに一次資料と連呼していて、たしかにそれも大切だが、先行する研究は一応信用するもので、いちいち一次資料に当たっていては研究ができないというようなことを仰っておられます。
また、遊女研究の第一人者などよりも有名大学の教授になりたいということも述べておられました。

絶望書店主人・注釈
ふたつ目についてですが、公開されることが判っているメールでこのようなことを書くというのはそう誰にでもできるものではなく、世界中でも何人もいないと想います。これは一種の才能と云うべきもので、皮肉ではなく当方は非常に感心しました。



 
絶望書店主人より<4> 2003/4/18/05:32

小谷野敦 様

 お世話になっています。絶望書店でございます。

 当方も一次資料を見ているわけではなく、しかしごく常識的な思考能力があればあの程度の出鱈目は見抜くことができます。これは当方の能力が高いのではなく、遊女研究全般が信じられないくらいにレベルが低いということです。
 『源氏物語』の本文研究は遅れているそうですが、それでもそれなりに多くの方々たちが関わっていて一応の最低限の基礎はできています。遊女研究は第一級資料である投げ込み寺の過去帳さえまともに精査した者がひとりもいない有様で、ほかの研究と比べるレベルにありません。『源氏物語』の原典はウェブ上で画像が公開されていて読むことも可能ですし。

 『源氏物語総索引』をいちいちすべて疑う必要はありませんが、しかし例えば「インターネット」なんて言葉が載っていればすぐに間違いだと判るわけです。それを疑いもせず「光源氏はインターネットで女を口説いている。この厳然たる事実を前にして」なんてことを論じている者がいれば学者として失格と云うだけではなく、人として最低限の思考能力がない莫迦です。『源氏物語』を読んでいない小学生でも判ることです。「平均寿命23歳」なんてのはこのレベルの話で、とてもほかの研究上の失敗と並べて一般化できるような代物ではありません。
 このような失敗を犯す方は研究者に向いていないのであって、世のため本人のため転職すべきです。本人の資質の問題ですから訂正すれば済むことではありません。
 このような方が学者として敗者復活するには、よほど画期的な研究を為し遂げるしかほかに方法はないでしょう。その具体例として投げ込み寺の過去帳の調査分析をご提案させていただいている次第です。
 過去帳の出鱈目な解釋は遊女研究全般だけではなく江戸研究のかなりの部分の土台となっております。実証的なデータによる綿密な調査と分析によってこの根本的な定説を覆せば、シェイクスピアに関する最初の言及がどうしたなどというみみっちいレベルではありません。『遊女の文化史』だとか『江戸幻想批判』だとかの情緒的で内容のない感想文とは違う、データに裏打ちされた誰も反論できない画期的研究を世に問えば、小谷野様の望みである有名大学の教授の道も開けるのではないでしょうか。ほかに有名大学の教授への道筋をお持ちであるのなら無理にはお奨めいたしませんが。

 対象を遊女に限ることなく、研究者などというのはいかにして出鱈目なデータを簡単に信じるかを分析し、あるいは「言説の権力」問題に重点を置く論文にすれば、歴史学ではなくほかの分野の第一人者となれます。出鱈目なデータを元に適当なことを云っている学者達も一掃することが可能です。
 少年犯罪が増加して兇暴化しているという一般の認識が一次資料を見るといかに出鱈目かという、当方の駄文も参照いただければ幸いです。
少年犯罪データベース
2001/3/5 君よ!少年犯罪を識っているのか!?

 ちょっと調べれば判るような出鱈目に人は簡単に騙されてしまいます。こんな低レベルの誤りを正すには、常識的な思考と常識的な手続きを踏まえればいいだけのことです。
 小谷野様も莫迦な学者の例を出してきて己の失敗を正当化するなどということはなさらずに、きちんと反省して常識的な思考と常識的な手続きを元に莫迦な学者連中に鐵槌を下していただければ。このような活動こそ小谷野様の本領を発揮する場であり、ご自身の望み性情、能力が合致する方向性でありましょう。
 当方の提示したようなデータを元にする限り誰にも反論する余地はなく、小谷野様の潛在的能力を最大限に発動させることができるのではないかと愚考いたします。
 当方などはこのような低レベル相手の活動は面倒なだけで、適任の小谷野様にお任せいたします。また、できますれば絶望書店や当方の名前は出さないようにお願いいたします。

 なお、ご許可いただいたようですのでメールを当方のページに掲載させていただきました。ご諒承ください。

絶望書店主人 



 
小谷野敦氏より<5> 2003/4/22/17:36

絶望書店主人・要約
「遊女が聖なるものである」というテーゼについて、絶望書店主人も2ちゃんねらーも、山形浩生氏も、平均寿命が「反証」だと思っているということを述べておられます。
また、統計用語をいろいろ駆使されて西山松之助の平均寿命計算は出鱈目ではないと述べておられます。

絶望書店主人・注釈
ここで小谷野氏は遊女の平均寿命のことをまだ理解されていないことを顕しております。平均寿命が23歳だろうとなんだろうと遊女が悲惨かどうかとはまったく関係ないのですが。
たとえば、当方は「小学生の平均寿命は9歳」と記しておりますが、仮にこれが間違いで12歳だったり6歳だったりしても、現代の小学生が悲惨かどうかとはまったく関係ないのです。全員が死なない集団の平均寿命を出すこと自体に意味がないのです。
一応念のため細かく説明しますと、去年死んだ小学生が1人だったとしてその子が6歳だったら平均寿命は6歳になります。今年1万人死んでそれがたまたま1人だけ6歳で、残りが全員12歳だったら平均寿命はほぼ12歳になります。平均寿命が長いほうと短いほう、どちらが小学生は悲惨だと云えるでしょうか。
2003/3/8 遊女を虐待する人々の2の趣旨は、ただでさえ意味のない平均寿命が、さらに間違えているという、二重におかしなことであるよということなんですが。



 
絶望書店主人より<6> 2003/4/22/19:44

小谷野敦 様

 お世話になっています。絶望書店でございます。お忙しいところ、メールいただきありがとうございます。

 さて、当方は「遊女が聖なるものである」というテーゼと平均寿命の話を結びつけて考えたことはございません。そもそも、どうやってこのふたつが結びつくのでしょうか?
 2ちゃんねらーは遊女の聖性など興味がないでしょうからそのような書き込みはないと想いますが。おひとりだけ明治以降の遊女の聖性はピューリタンの影響ではないと書いている方がおりますが、小谷野様の仰っている文脈とは違いますし。
 山形浩生氏はどこかでそのような発言をされているのでしょうか。当方はよく存じませんが。なにゆえ、ここで山形氏の名前が出てくるのかもよく判りません。
 当方は中世以前も現代も「遊女が聖なるものである」という考え方があるのに、何故江戸時代だけ無いと云えるのかと素朴に考えているだけです。これは遊女礼賛派の学者先生とは関係なく当方が出してきた疑問ですので、当方にご教示いただければ幸いです。お電話の内容ではまったく納得がいきませんでした。

 過去帳の年齢記載の件ですが、サンプル数の少なさだけでも問題ですが岡場所の遊女や奴女郎が含まれているだろうから「吉原」の遊女の平均寿命としては出鱈目だと云っているだけです。
 年齢が高いほど死亡率が高いはずなのに死亡者数が正規分布するというのは意味がないのではと考えます。あえて分析すれば、24歳以上は10年の年季明けや身請けで全体の数が減っていくということでありましょうか。(絶望註・西山松之助博士『くるわ』の一番下の表を参照のこと)
 なお、一次資料を見ていない者どうしでこのような細かい議論をしても意味がありません。過去帳を見れば岡場所の遊女が含まれていないことが判明したり、無作為抽出と云っていいようなサンプル分布だったりするのやも知れません。それでも定年が守られていなかったことが他の資料から裏附けられない限りは、27歳以下しかいないのだから当然という最初の話に戻るだけのことではありますが。
 当方の述べているのはあくまで推測ですので、確定するために一次資料の調査分析をお願い申し上げている次第です。とくに死亡率のほうは当方も自分の推測をまったく信用しておりません。一次資料を見ないことには断定的なことは何も云えないと述べているはずですが。
 ちなみに明治以降はほとんどの遊女の死亡年齢や死因が記載されているようで、明治以降の遊女の悲惨さはデータで完全に解き明かすことができます。投げ込み寺の過去帳はまさしく宝の山で、いくらでも研究の種が眠っているはずです。
 当方の一番の興味は慶応期の死者が何故あんなに多いかということでして、駄文に記しましたように西山博士の間違いでないのなら、なにか画期的新発見があるのではと期待しております。
 研究成果を期待しております。 また、よろしくお願いいたします。

絶望書店主人 



 
小谷野敦氏より<7> 2003/4/30/00:28

絶望書店主人・要約
中世の遊女が聖なるものだったことはいろんな学者が論じている。現代においてもいろいろある。といったような内容だと想いますが、当方にはうまく読み取れませんので要約は難しいです。恐縮です。



 
絶望書店主人より<8> 2003/4/30/23:58

小谷野敦 様

 お世話になっています。絶望書店でございます。お忙しいところ、メールいただきありがとうございます。

 せっかくご教示いただいたのですが、やはりよく判りませんでした。そもそも、小谷野様は現代に於いて遊女の聖性など「ない」と仰っているか、西洋やアングラの影響で「ある」と仰っているかさえ当方には読み取れませんので。
 お訊きしておいてこんなことを云うのもなんですが、最初に申し上げたように当方は遊女の聖性などどっちでもいいことだと考えております。ましてや、アイドルを好きになることと「ヌミノース」なんてのを区別することにまったく意味を見出せません。
 当方の興味はただただ史実を識ることだけであります。「聖性」や「ヌミノース」なんてそれ自体は明らかに無意味な補助線を引いて別の角度から考察することによって史実が見えてくるということもございますが、投げ込み寺の過去帳なんて一級資料さえ分析しない段階では、それが「ない」と断定することを含めて言葉遊び以上の意味はないでしょう。
 当方はもともと遊女に対しては興味も知識もなくただ江戸時代全般を識りたいという想いから『江戸幻想批判』を拝読いたしまして、成り行きから遊女についても少々の愚考を重ねました。しかし、最初から一貫して述べておりますのは遊女などの個別の事例ではなく、物事は常識的な思考と常識的な手続きを元に考察してもらわんと困るという一般論です。小谷野様には当方の心意をどの程度ご理解いただけたのか心許ない処ではありますが、このやり取りを見守っている大勢のうちには届いた方もそれなりにいたのではと想っております。
 当方は少なくとも過去帳の分析データが出るまでは遊女や性などの個別の事例に対して発言するようなことはこれ以上なにもございませんので、ここで打ち切りとさせていただきます。

 この掲示板のNo.383のご本人の発言によりますと松沢呉一氏が近々、投げ込み寺の過去帳をからめて遊女の死亡率や寿命について論陣を張られるようです。
 今後は遊女や性などの個別の話は専門に研究されている松沢氏を相手にされるほうが相応しいでしょう。当方では知識も追いつかず歯ごたえが無さ過ぎるかと存じます。

 戦後の女形廃止論は武智鐵二の「女形不要論」以外にもいろいろあるようですが、渡辺保氏が中村歌右衛門特集などのテレビ番組でたびたび強調されている歌右衛門が女形廃止論と闘ったというのは具体的にどれを念頭に置いてのことなのかは当方はよく存じません。
 なお、当方は『江戸幻想批判』のあの話の流れでどうして戦後の女形廃止論に触れないのかと単純に不思議に感じただけで、間違っているとか識らなければいけないなどと申し上げているわけではございませんので、そこまでこだわる必要はないかと存じます。
 マイナーな話であることは確かで、歌舞伎の専門家でもない限り識っていても得になるようなことではございません。

 小谷野様もウェブ上をいろいろと見て廻っておられるようで。しかし、『江戸幻想批判』を読みもせずにあれこれ言う2ちゃんねらーなぞより、投げ込み寺の過去帳さえ調べないで適当なことを云っている学者のほうが明らかに罪は重いでしょうからそちらのほうから退治していただければ。
 多くの江戸学者が関わっている東京江戸博物館に「平均寿命23歳」なんて掲示されてから10年間も誰も指摘しないと云うことは、江戸研究はすべて出鱈目と考えてゼロから再構築する必要があると愚考いたします。とにかくいい加減な学者は一掃していただければ。有名大学の席も空くことになりますし。
 世の中には一生懸命考えてもなかなか答えの出てこない難事がいろいろありまして当方はそっちのほうで手一杯ですので、まともに考えてまともに調べれば判るようなことは学問の世界でさっさと済ましておいてもらわないと困ります。そういう雑事を処理するために学者なんていうのが大学で飼われているわけでしょうから。最低、その用に供する程度のレベルは維持していただかないと。
 このやり取りを見守っているなかにも有名大学の教授になりたいという方はいらっしゃるでしょうから、なにも小谷野様おひとりに任せることなく競い合って先陣争いをしていただければ。とにかく過去帳の調査分析なんてこんな簡単で学界全体に大きな影響を及ぼすことのできる研究はほかにはないでしょうから。

 なお、絶望書店などの名前を出してもらいたくないと申し上げているはこんな当たり前の研究に名前を出されることなど迷惑だということと、これは杞憂だとは想いますが万が一よく裏附けもせずに当方の推測をそのまま事実であるかのように発表されると数年間掛けて築き上げてきた絶望書店のノレンに傷が付くやも知れないということでありまして、その点をよくよくご忖度いただいてご配慮をよろしくお願いいたします。
 小谷野様はお電話で「平均寿命23歳」なんて『江戸幻想批判』の主要な論点でも何でもなく帯にその部分の文章を切り取って載せられたからあたかも最大の根拠のように受け取られているが、勝手にやった編集者の責任だと仰っておられましたな。当方も「平均寿命23歳」なんてのをチェックできない編集者は無能ですぐに転職すべきだと考えますが、しかし傷を受けるのは名前を出している当人でありまして匿名でない者は自分の手で自分の身を守らなければなりません。自分のコントロールの効かない処に名前を出されるという危険を当方は無駄に侵すわけにはまいませんので。2ちゃんねらーなぞとは違う名前を出している者の責任が当方にはあることをご理解いただければ幸いです。

 画期的な研究成果と、有名大学の教授へのご就任の日が来ることを心よりご祈願申し上げております。
 ありがとうございました。

絶望書店主人 


 


<あとがき>

 小谷野氏はあたしに電話すると同時にしにょ~る風俗学院の『江戸幻想批判』をトンデモあつかいした文章に対してもクレームメールを送っていたようで。
 「平均寿命二十三歳」の間違いを認めてご自身が遊女について根本的に何も判っていないということを自覚され、電話でほかの江戸文化については言及されずにことさら落語のことだけ強調されたのはご自身が江戸時代について根本的に何も判っていないということも多少は自覚されていたようであるのに、なんでわざわざ戦線を拡大されるのか、あたくしなどには計り知れないなにものかがそこにはあるのでしょう。電話でお訊きしたときは、前回のあたしの最後のメールを見てこんなふざけた奴と話しても無駄だと想って打ち切ったけど、4月になって暇になったので電話したというようなことを仰っておられましたが。なんにせよご苦労なことではありますが、しにょ~る氏の回答を読んでそのもの凄さに驚きました。
 あたしは風俗店にたどり着く電車賃さえ持っておらない貧乏人でありますからここの風俗記事には興味がなく、ただ風俗図書館だけは便利なので以前から時々読んでおりました。しかし、不明にもしにょ~る氏がここまでの見識をお持ちの方だとは想っておりませんでした 。
 とにかく長いし最初のほうはいささかだれるものの、皆様方にも最後まで読むことをお奨めいたします。しにょ~る氏にこれを書かせただけで、『江戸幻想批判』みたいな本もこの世に生を受けた意義はあったのではないでしょうか。
 てっきり「平均寿命二十三歳」についてはあたしの駄文を読まれたのだと想っておりましたが違っていたようで。あたしは必ずほかの誰も言及していないことを確かめてから駄文を綴るようにしておりますので、先にしにょ~る氏に書いてもらえていたらこんな面倒なことをすることもなかったのでありますが。まことに残念。
 あたしの遊女についての知識は付け焼き刃なので言及は常識の範囲に終始しましたが、どうも小谷野氏の知識は付け焼き刃のあたしよりも酷いような気もしましたのでときに一発遊女論などぶち挙げようかという場名もあり、危ういところで踏み留まったのは幸いでありました。想わぬ恥を掻くところで冷や汗ものです。

 平均余命の話は誤解を招くと想いますので一言。こちらのページなどを参照していただきたいですが、江戸時代でも大人になるまで生き延びた人は結構長生きしたのです。鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』に掲載されているP175のデータを見ると、30歳まで生きた女性の平均寿命は60歳以上だったことが判ります。70歳以上の人も珍しくはありません。
 前回のやり取りで小谷野氏は「どうせ(遊女の)平均寿命など調べなおしても数年あがるだけ」と仰っていて、電話でそのことを問い質したのですが、「江戸時代の女性の平均寿命は40歳程度だから、28歳で年季明けしても大して長生きできるわけではない」というような普通ならとても恥ずかしくて云えないような言い訳をされておりました。これは江戸時代の実体をまったく理解していないだけではなく、老人がたくさん出てくる江戸文学なども真面目に読んではいないということでありまして、小谷野氏の江戸文学についての言及もすべて出鱈目と考えておいたほうが無難であるかと想います。

 しにょ~る氏の売春に対する考え方に否定的な方が多いようですが、風俗図書館にあるような本を一通り読んでから判断されても遅くはないような気がします。人は「平均寿命二十三歳」みたいな話に何故簡単に騙されるのか、「言説の権力」とやらははたして誰が行使しているか、一度根本から考えてみるのもよろしいかと。あなたのその考えは正しい根拠のもとに、ほんとにあなたの頭で考え出されたものなのか。一連のやり取りの本質を読み取った方なら、たとえ結論は変わらなくとも再考には意味があることがお判りいただけるかと想います。
 あたしはしにょ~る氏の遊女や売春に対する見解に必ずしも賛同するわけではないのですが、しかし、真面目に物事に取り組もうという姿勢を一向に見せない小谷野氏とは違って、きちんと調べてきちんと考えようとしているしにょ~る氏の態度はまことに気持ちのいいものです。

 この文章を読んでいて、小谷野氏の電話で肝心なことを書き忘れていたことを想い出しました。
 江戸時代が良いとは云えない最大の理由は教育の問題なんだそうです。「俺が江戸時代に生まれたとしたら教育も受けられずにつまらない水呑み百姓かなんかで一生を終わっていただろう。こんな不幸なことはない。現代に生まれて教育を受けたのは本当に幸せだった」というようなことを力説されておりました。しかし、せっかく立派な教育を受けられても「平均寿命二十三歳」みたいな小学生でも判るようなことを間違えるのなら、小谷野様は充分に不幸なんではないでしょうかとあたくしが申し上げると黙ってしまわれました。
 こんな重要な話を落としてしまうとはあたしくはまったくうっかりで小谷野氏にお詫び申し上げます。まことに教育の問題は重要で、一連の話の根幹に関わっているのだとしにょ~る氏の文章で改めて気づかされました。

 長いやり取りで小谷野氏からは有用な知識はなにひとつ与えていただけなかったのですが、2ちゃんのスレにはなかなか有用な情報が載っておりました。
 アマゾンに小谷野氏は以下のような文章を掲載されたようです。
「修正 本文中および帯にも引用されている「吉原女郎の平均寿命は二十三歳」との記述は、西山松之助の計算によるものだが、これは「絶望書店主人」と名乗る人物によって、極めて杜撰な計算であることが明らかにされたため、この文言をこの場を借りて削除する。だが本書の主旨に変更の必要はない。」
 杞憂が早速に現実化しておる。2ちゃんねらーに教えてもらうまで識りませんでしたよ。
 あたくしこと絶望書店主人が明らかにしたのは小谷野敦という方が遊女についても江戸時代についても基本的な知識をまったくお持ちでないことと、小学生の算数レベルのことを考える思考能力もないということだけです。西山博士の計算が杜撰かどうかは一次資料を精査してみるまではまったく判りません。なんせ、あたしの手持ちの材料はその西山博士自身の記述しかないんですから当たり前ですな。
 教育を受けていない江戸時代の水呑み百姓でも判るであろうこんな簡単なことが、小谷野氏にはどうして理解していただけないのでありましょうか。これだけ何度も何度も噛んで含めるようにして説明しているのにも関わらず。そもそも、こんなことは学問のイロハに過ぎないことであたし風情がお教えするまでもないはずなのですが。
 平均寿命が23歳だから悲惨だなどと莫迦なことを云うことと、その23歳というデータそのものが正しいかどうかというのはまったく関係のない別の問題であるというこれまた小学生の算数レベルの区別もどうもついておられないようですし。教育の道はまこと険しく困難であります。これだけ文言を費やしてもなにも学んでいただけなかったとは。
 小谷野氏が学問のイロハも理解していないことをこうやってご自身の名前で世間に喧伝されるのはご自由でありますが、絶望書店の名前を出されるのはまことに迷惑極まりない。しかし、またいちからご説明申し上げて削除していただく気力もございませんので、皆様方には脳内であぼーんしていただくようにご協力よろしくお願いいたします。
 ちなみにたとえデータの解釋が間違っていたとしても西山博士の仕事は小谷野氏の如き世の中も対象も舐め切ったいい加減なものとは違う立派なものだとあたしは想っておりますので、その点も誤解なきように。

 なお、あたしが小谷野氏をいじって愉しんでいると云う方が多いのですが、これも誤解でありまして、あたしの目的はできるだけ早く打ち切りにすることだけでありました。
 最近の本や雑誌なんかに満足されている方にはこんなレベルのやり取りでも読む価値はあるんでしょうけど、あたしにはまったく面白くない。知識を得ることができるわけでもないし、人気は全部むこうに持ってかれるし、まともに物事を考えようとしない方のお相手をするのは不快なだけだし、いいことはなんにもない。せっかく最近の本や雑誌は一切読まずに低レベルのお話から免れて平穏なる日々を送っているのにこれではなんにもならない。
 投げ込み寺の過去帳の分析データを読むことができるのならようやくトントンと云えますから、ほんとにお願いしますよ。完璧な分析データを発表されるようなことがたとえあり得たとしても、あたくしとは二度と関わり合いにならないように切にしかあらんことを希う次第であります。
 

2003/5/17 絶望書店主人記す。     


 
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