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『吉原大鑑』には引き取り人のない場合は、と書いてあるが、引き取り人はほとんどなかったのではないかと思われる。それはこれから述べるように、遊女の死者が想像以上に多く、かつそれが浄閑寺の過去帳に記載されている者が、その大部分であったのではないかと考えられるからである。『吉原大鑑』は、土手の道哲だけをあげているが、遊女が葬られたのは、道哲だけではなく、今戸にあった正憶院(現在足立区大谷田町三一四)と今も箕輪にある浄開寺に葬られた。中でも箕輪の浄閑寺が最も多かったと思われ、今もこの寺に伝存している江戸時代以来の過去帳には、吉原の遊女や深川麻布その他岡場所の売女たちが多数記録されており、細かく調べてみると、いろいろのことがわかるように思われる。以下この過去帳をもとにして、葬られた遊女たちのことを考察してみよう。 この過去帳は、一七四三年(寛保三年)以降、今日までのものが全部揃っていて、江戸時代のものは、表に記したように、六冊になっている。そのうち六冊目は慶応元年からはじまって明治に及んでいるので、その最初のところ三年分だけを江戸期のものとしで考察することにした。はじめのあたりは文化三年八月に、すべて写し改ためたもので、栄法山清浄閑寺礼誉上人の代理として仏日がこれを改め記した、という奥書きがある。だからそれまではすべて仏日の筆で、以後もしばらく同人の筆蹟が続いている。この過去帳には、勿論一般人も記録されているので、遊女と一般人との区別が明確につきにくい点もある。図版写真に見るように、吉原の町名や妓楼主の名まで明記してあるのは間題ないが、そうでないのは判定しかねるものが多い。ただ戒名のすぐ下に、俗名として、例へば「すみのヘ」・「若浪」・「花照」などとあるのは、おそらく遊女と考えて間違いないのであろうが、正確の読み取りをすることはむずかしい。 それで、今回はごく大ざっぱな見当だけをつけてみることになってしまったが、とりあえず数字の統計表を作ってみた。この表によると、寛保三年から幕末まで一二五年間に二一五六人の女と二一一三人の子供が記録されている。このうち約一割程度が一般人と考えられるので、この表から計算して出てくる遊女の人数は、一九四○人ということになる。 しかしこの浄閑寺にこの期間中に葬られた遊女は、外に安政二年の江戸大地震の時の死者三九一名が別帳に記されていて、その大部分が遊女であるから、それらを加えると、約二三○○人位と推定される。ただ、大地震の別帳に記されているのは、名前の判明したものだけで、実際にはもっともっと何倍もの死者であったらしいので、実際はずっと多くなるのではないかと思う。 さらに、この浄閑寺が最も多かったとはいえ、前にも述べたように、今戸の正憶院とか山谷日本提の道哲、すなわち西方寺とかにも葬られたのであるから、この期間に吉原の遊女で廓の中や出養生の寮で死んだものは、右の二三○○人をはるかにこえる数であったことはたしかである。
江戸時代のこの六冊の過去帳の中で、第一冊目の寛保三年から安永八年までの記録には、ところどころその死亡年齢が記されていて、それがはっきりわかる者だけを数えてみると六四名であるが、その平均は二二・七歳で最年少が一五歳、最高四○歳というのがある。これだけで推定することは危険だが、この年齢は興味深いのでその表をあげておこう。年季の最高年齢は大体二七歳とされていたが、前借がかさんで、いつまでも足を洗えないのがいたことは、この記録でも明瞭である。 前に遊女の年齢について述べた通り、就業遊女は二○歳までが最も多かったが、こういう若い人たちがバタバタと倒れて死んでいったという感じである。遊女としての就業者が、何れも若い女性たちばかりであったから、死者も若い女性か多かったことは当然であるが、その死亡率が余りに高いのにおどろかざるをえないのである。 一般社会では、ほとんど死ぬことのない年齢層の人たちであるのに、この世界にこれほどの若い女性の死者が出たことは、いかにこの世界が惨酷な社会であったかを裏書きしているといえるであろう。 |
| 死亡者数 | 1 | 2 | 1 | 1 | 2 | 2 | 2 | 2 | 4 | 7 | 8 | 6 | 2 | 2 | 7 | 6 | 5 | 3 | 1 |
| 年齡 | 40 | 39 | 31 | 30 | 29 | 28 | 27 | 26 | 25 | 24 | 23 | 22 | 21 | 20 | 19 | 18 | 17 | 16 | 15 |