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『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
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2008/12/31  『盟三五大切』の謎が完璧に解けた!

 鶴屋南北の『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)では、最後に薩摩源五兵衛が「こりやかうなうては叶ふまい」というよく判らないセリフを吐く。
 これまでいろんな人がこのセリフについての解釈をしているが、私にはどうにもピンとこないでいた。それが、管賀江留郎氏の江戸時代のモテない男の無差別殺人事件を読んで、そこに記されたひとつのキーワードから初めてこの芝居の構造が判り、このセリフの意味がはっきりした。いや、思わず知らず「こりゃこうのうてはかなうまい」と呻くこととなった。
 初演から180年間、これまで誰ひとりとして読み解くことができなかったこの芝居の意味を知るや、諸氏も思わず知らず「こりゃこうのうてはかなうまい」という言葉が口から漏れるに相違ない。また、南北の恐るべき忠臣蔵の読み取りも判明して驚愕することとなろう。
 順を追って説明してみる。

 この芝居は、文政7年(1824)7月28日、江戸深川の妓楼で松平因幡守辻番の足軽、野村三次郎が5人を殺害した実際の事件を元にしている。
 加藤曳尾庵『我衣』(『日本庶民生活史料集成 第15巻』収録)によると、馴染みの遊女哥咲に怨みを抱いて殺そうと夜中に押し入ったが従業員の男に留められ斬り殺して逃走、明け方にもう一度押し入り遊女4人を斬り殺し、先の殺した男の死骸を運び出すために来ていた人足ひとりを重体、料理人を軽傷とする執念深さだった。
 後日の改めて情報を集めた記述では遊女3人は重傷を負わしただけで死んでないようにも読み取れるが、いずれにしても肝心の怨んでいた哥咲が逃げて無事だったことには変わりない。哥咲が標的になっているらしいことを知った妓楼側が、最初の襲撃のあとに彼女を待避させていたのである。
 足軽三次郎は逃亡し、あるいは逃した遊女の行方を追っていたのかも知れないが、恨みを晴らせないままに8月1日に銀座で逮捕された。
 怨んでいた理由は判らないが、とくに漏れ伝わらなかったということは、ごく普通に惚れていたけど振られたということだろう。少なくとも、南北を含めて当時の人々はそう受け留めていたはずだ。
 9月に天然痘が蔓延し、医者だった加藤曳尾庵は多忙を極めたため日記の更新はなくなる。そのまま年末に、これまで役にも立たないことばかり二千枚以上も書いてきた我が罪が恐ろしく「もはや一筆も起すまじと心にかたくちかいける」とブログ終結宣言を出した。くだらないことばかり書く罪も一向に自覚せず未練がましく一年ぶりに書いたりするどこやらの痴れ者とは違ってほんとに一筆も起さなかったので、この足軽がその後どうなったのかは定かではないが、間もない頃に死罪となったのは間違いないと思われる。

 『盟三五大切』は翌年9月25日の初演だが、並木五瓶の『五大力恋緘』(ごたいりきこいのふうじめ)の<世界>なのに、五人斬りの場面で惚れた芸者の小万に逃げられてしまうのはこの事件を踏まえているからだ。
 それからしばらくのちに小万の殺し場があるのは、振られた怨みある女を討ち漏らしたまま死刑となったモテない足軽の無念を、忠臣蔵と同じく一年後に晴らすという、<非モテ忠臣蔵>としてこの芝居を創作したということで間違いないだろう。
 小万の首を斬り落として愛染院へ持って帰るのは、忠臣蔵で<義士>たちが高師直(吉良上野介)の首を主君の墓がある光明寺(泉岳寺)に持ち帰ったのに対応する<非モテ義士>の武勲を示す壮挙となる。
 ところが、薩摩源五兵衛(不破数右衛門)は首と差し向かいでご飯を食べたあとに怒って首にお茶をぶっかけ、事の顛末にまだ満足していない。恋敵の三五郎を討っていないからだ。
 そうなるとこの場面にある四斗樽のなかに隠れている三五郎は、炭小屋に隠れている高師直(吉良上野介)となり、その死は仇討ち成就ということになる。
 また、己には小舅となる小万の兄を殺した罪で切腹する三五郎は、主のために騙し取った金が、じつはその主のものだったという「いすかの嘴の食い違い」から、早野勘平でもあることが容易に判る。宿敵・高師直であり、早野勘平でもある三五郎が、さらには180年間誰も気づかなかったもうひとりの化身であることを知るや、「こりゃこうのうてはかなうまい」と唸ることになるのである。

 ウェブ上ではもっとも頼りになる歌舞伎評論を展開している歌舞伎素人講釈でさえもそうで、『盟三五大切』の最後が討ち入りになるのは忠臣蔵が<デウス・エクス・マキーナ>として働いていると云う人が多いのだが、明確な間違いだ。源五兵衛の側も三五郎小万の側も、忠臣蔵と関係していることは最初から強調されて、そのためにすべての事件が起きるのであって、最後に唐突に忠臣蔵なり義士なりが出てくるわけではない。
 しかし、源五兵衛は討ち入りには参加したくないという立場で関わっており、最初は女に入れあげたため、最後はその女も含めて大勢の人を殺してしまったためとなっている。それが、どうして急に<義士>に参加することになるのか。
 森山重雄『鶴屋南北 綯交ぜの世界』にあるように、これは<やつし>なのだから、源五兵衛が不破数右衛門に戻ったところで別人物になって罪が消えてしまうからだというのは明らかに正しくない。彼は不破数右衛門として罪があるから討ち入りに参加したくないと云っている。

 民谷伊右衛門と小万の兄の弥助のふたりが塩冶家の金を盗んだために、その日の金蔵の当番だった不破数右衛門は主君・塩冶判官の勘気に触れて浪人となり、薩摩源五兵衛と偽名を使うようになった。判官の松の廊下での刃傷と切腹時は、塩冶家とは関係のない部外者だったのだ。
 史実の不破数右衛門も家来を斬り殺し、主君・浅野内匠頭の勘気に触れて江戸で浪人中に旧主切腹があり、肝心なときに赤穂藩と関係のない部外者だったため、討ち入りのメンバーに入ることがなかなか赦されなかった。芝居で不破数右衛門を主人公にして、家来を犠牲にするのは、これらの事実も踏まえているのだろう。
 『盟三五大切』に於いて主人公が討ち入りに終始乗り気でないのは、判官切腹が己と直接関係ないことが影響していると思われる。それが、三五郎切腹とともに一変するのだ。

 そもそも、塩冶判官切腹とはなんなのか。『仮名手本忠臣蔵』では、高師直が塩冶判官の奥方・顔世御前に惚れて迫ったが振られたところから事件がはじまっている。
 非モテである高師直が、惚れた女の亭主でリア充の塩冶判官を切腹に追い込み、振った顔世御前も破滅させるという、非モテにとっては痛快この上ない復讐劇となっている。なんと!『仮名手本忠臣蔵』の前半は、<非モテ忠臣蔵>だったのだよ!!!!!
 鶴屋南北は『東海道四谷怪談』と『仮名手本忠臣蔵』を交互に上演して<忠臣蔵>と<不忠臣蔵>の対比を見せた翌月に、『盟三五大切』に於いて単純に<忠臣蔵>を<非モテ忠臣蔵>にひねっただけではなく、『仮名手本忠臣蔵』の前半を忠実に再現することにより『仮名手本忠臣蔵』とは<非モテ忠臣蔵>と通常の<忠臣蔵>を二重に重ねた『東海道四谷怪談』とよく似た構成の狂言だったことを看破して示したのである。
 つまり、最後に切腹した三五郎は、早野勘平であり、主敵・高師直(吉良上野介)であり、さらには驚くべきことに主君・塩冶判官(浅野内匠頭)でさえもあったのだ。

 塩冶判官切腹に立ち会って初めて、不破数右衛門は討ち入りに行くことができる。また、忠臣蔵という芝居は<世界>は、判官切腹があって初めて成り立つのである。「こりゃこうのうてはかなうまい」というセリフが出てくる所以ではある。
 家来の死に当たって妙に客観的な他人事のような云い廻しで、そのあとのセリフともつながずにひとつだけ宙に浮いたような文句で、意味の解釈以前に言葉遣いとして私にはどうにも気色の悪い違和感があったのだが、これは一番肝心なものを抜いた味気ない贋物の忠臣蔵を観せられてしまうところを最後の最後に、源五兵衛と三五郎の父親の了心のふたりが互いに切腹を競い合うという役違いのじらしまでされたあとに、ようやく判官切腹に巡り逢ってほっとした、観客が役者が作者が思わず知らず口から出る言葉だったのだ。
 思い浮かべてみるがよろしい。諸氏らが『忠臣蔵』を観に行って、判官切腹がないままに終演の刻が近づいたとしたら、「おいおい、まさかこのまま終るんじゃなかろうな」と不安感、焦燥感に苛まれることだろう。そのあげく、ようやく幕引き間際になって、思わぬ展開から判官切腹が観れたとしたら、「そりゃ、こうじゃなくちゃいかんわな」と大きな安堵の言葉を漏らし、人心地つくに違いない。
 そのあとの討ち入りなどなくとも、諸氏はこれだけで大満足して家路につけるはずである。なにより重要な<世界>成立を見届けることができたのであるから。それも、危うく成立し損なう瀬戸際まで追い詰められてのぎりぎりの達成である。
 毎日、舞台に立っている役者たちも、今日こそは判官切腹が無いまま幕引きとなるのではないかというところまで追い詰められ、最後の最後に判官切腹に辿り着いてホッとし、思わず知らず素に戻り「そりゃ、こうじゃなくちゃいかんわな」という心中から湧き出るナマの言葉を漏らすことになるのである。作者の南北だって、毎日ハラハラしながら舞台を観て、最後の最後に「そりゃ、こうじゃなくちゃいかんわな」と唸っていたに違いないのだ。
 『盟三五大切』とは、このぎりぎりの<世界>成立に向けて収斂していくためだけの、ただそのカタルシスを得るためだけの狂言なのだ。
 2年後に南北は『独道中五十三駅』に於いて十以上もの<世界>を綯い交ぜとする、<世界>そのものが主題である狂言を創作しているが、じつはその前に、『盟三五大切』に於いて<世界>が成立するか否かということ自体を主題としていたのである。<世界>成立そのものが主題となっている、おそらくは唯一の歌舞伎狂言であろう。
 そのぎりぎりの<世界>成立を告げる宣言が、「こりゃこうのうてはかなうまい」というセリフであったのだ。

 『盟三五大切』は忠臣蔵だけではなく、並木五瓶の『五大力恋緘』と、並木五瓶自身が書き換えた『略三五大切』(かきなおしさんごたいせつ)の<世界>を踏まえている。
 これについては、下田晴美氏という広島大学の博士課程の方が、鶴屋南北作『盟三五大切』の構造 : 五瓶の五大力物を視座としてという論文で非常に手際よくコンパクトにまとめておられる。pdfだが、初演の絵本番付画像があるのでなかなか貴重だ。
 女の首の前で茶漬けを食う場面が源五兵衛と三五郎にどう振り分けられてるかなんて細かい話は読む必要はないが、ともかく漠然と設定をいただいているだけではなく、極めて細かく緻密に計算されて取り入れていることだけは知っておいたほうがよい。忠臣蔵や四谷怪談も漠然と<世界>を取り入れているだけではなく、これほど緻密な計算があると裏付けできるからである。

 さらには、初演は一番目が明智光秀物の『時桔梗小田豊作』(ときもききょうおだのできあき)、二番目が『盟三五大切』という構成で、「盟」というタイトルは「明血」を掛けているんだろうから、明智光秀の<世界>も取り入れていると考えるのが自然だろう。
 そうなると、主殺しの主題が隠されていると見るべきで、討ち入りに参加するために、あるいはそもそもの『忠臣蔵』の<世界>を成立させるために主である塩冶判官(浅野内匠頭)を無理やり切腹に追い込むという、まさしく『金枝篇』に於ける<世界>回復のための<王殺し>の如き話と捉えるしかない。
 三五郎切腹は単なる<見立て>ではなく、判官切腹そのものなのである。最初から明らかにされている忠臣蔵や義士が<デウス・エクス・マキーナ>なのではなく、なんの前触れもなくまったくの唐突に最後の最後に顕われて<世界>を忽然と開闢する塩冶判官その人が、<デウス・エクス・マキーナ>だったのだ。

 さはさりながら、180年間誰ひとりとしてここに塩冶判官が顕われたことに気づかなかったのは無理もない。早野勘平や高師直をそこに視る眼力鋭い見巧者はいても、塩冶判官を見透かすことができるほど明確には浮き出ていない。私は<非モテ忠臣蔵>という構造から逆算して、ここまでようやく辿り着いた。
 南北は前月の四谷怪談に於いて一枚の戸板の目まぐるしい裏表の交差を成功させた巧みな組み立てに自信を持ち過ぎ、明確に示さずにぎりぎりの処を狙い過ぎたのではあるまいか。次月の『盟三五大切』に於いて、まったく違うと思われたふたつの筋がひとつに交わるY字型の狂言構成のカナメを明確にせずとも受け取れられると観客を己を過信したのだ。
 だからこそ、初演は不入りで早々に打ち切られ、永らく上演は途絶えた。のちの青年座による新劇とそれを元にしたATG映画『修羅』では三五郎のセリフに塩冶判官が云うはずもない言葉がいろいろ付け加えられ、さらには今年の歌舞伎座の仁左衛門はとうとう「こりゃこうのうてはかなうまい」というセリフを削ってしまった。
 江戸歌舞伎と南北に最も通暁していたはずの郡司正勝さんにさえ、<世界>成立の秘鑰が見抜けず受け継げなかったのだろう。
 ここはどうあっても、切腹する三五郎を、明確に塩冶判官と示して演出すべきだ。さすれば、まさしく<機械仕掛けの神>としてここで芝居が、<世界>が、丸ごとガンドウ返しを見せる快感で小屋が打ち震え、「こりゃこうのうてはかなうまい」と一斉に大向こうから声が掛かることとなるのは絶対である。

 複雑に筋が入り乱れる南北にしては『盟三五大切』は単純で判りやすいという人がいるのだが、じつはそれは南北が一番肝心な要を軸を判りにくくしたための錯覚で、そこを明確にすれば恐ろしく重層的で複雑な作劇であることが判明し、とうてい<やつし>などという簡単なもので読み解けるような代物でないことが知れるのだ。
 謎が完璧に解けたとは、その向こうにある『盟三五大切』の真の大きなほんとうの謎の存在が垣間見えたということにほかならぬ。
 一点だけ触れておくと、『仮名手本忠臣蔵』の前半が<非モテ忠臣蔵>で、『盟三五大切』も<非モテ忠臣蔵>であるなら、薩摩源五兵衛は不破数右衛門であるとともに高師直でもあって、最後は此方の高師直が彼方の高師直に討ち入りして倒すことによって、ふたつに裂けてしまった平行宇宙が融合し、<世界>の円環が緘ずることとなるのだ。ほかの作者ならこじつけとなるが、南北ならここまで計算してると断言できるのである。
 これを裏付けるように、前月の『忠臣蔵』では、源五兵衛の五代目幸四郎が師直役だったのだ。しかも、リンク先の論文や絵本番付にあるように、現在は台本が失われているが、『盟三五大切』には三幕目の討ち入り後の場面があった。そこでは、<非モテ忠臣蔵>の師直に重ねられた三五郎に扮していた七代目團十郎が大高源吾となって師直の首を抱えている。円環が何重にも絡み合って、とぐろを巻いているのである。

 どうも、こうして見ていくと、『盟三五大切』は『四谷怪談』の続編なぞではなさそうでもある。深川の五人殺しから一年後に『盟三五大切』を上演することが先に決まり、その<非モテ忠臣蔵>を成立させるための露払いとして『四谷怪談』が捻り出されたと見るのが妥当ではあるまいか。
 『四谷怪談』の主演だった三代目尾上菊五郎が太宰府参詣のため抜けてしまい、困って急遽『盟三五大切』を拵えたという逸話が伝わっているが、元々この話はおかしく、後付けと見る方がよいだろう。大人気だった『四谷怪談』を打切り、最初から予定していた『盟三五大切』に相応しい菊五郎抜きの座組をするために、なんらかの理由が必要だったとしたほうが筋が通っているのではないだろうか。
 <非モテ忠臣蔵>というキーワードから『盟三五大切』の謎が完璧に解けるだけではなく、『四谷怪談』の成立過程のみならず、これまでまったく見落とされていた『四谷怪談』の真の姿さえもが顕れ出でるのだ。

 さらにもう一歩遡り、『仮名手本忠臣蔵』に於ける<判官切腹>の存外に大きい意味をも、南北はここで再認識させようとしているのである。
 <判官切腹>の場面は、客席の出入りを禁止する<通さん場>となっていたのは何故なのか。<判官切腹>は神聖だからと云われることが多いが、それは必ずしも正しくはない。
 元々、『仮名手本忠臣蔵』は人形浄瑠璃(文楽)の作品である。つまり、大坂の町人が楽しむための芝居だった。
 大坂の町人は武士なんか小莫迦にしている。だからこそ、『仮名手本忠臣蔵』では武士は間抜けか卑怯者ばかりで、町人だけが「天河屋の義平は男でござるぞ」といった具合に義理に厚く勇気も持ち合わせた格好のいい役処で出てくることになる。武士の中では一番上等だと云われていた大星由良之助(大石内蔵助)以下の赤穂義士たちは畳に頭を擦りつけ、町人の義平に平伏するのである。
 ましてや、切腹なぞは間抜けな連中の奇怪なる風習でしかなく、大坂の町人は「オゥー!ハラキリ!クレージー!」と奇矯なる見せ物として愉しむだけだ。
 早野勘平切腹は、舅を殺してしまったと思い込んで必要のない死を自ら迎える、まさしくおっちょこちょいの間抜けさを笑う場面だろう。史実の萱野三平を早野勘平に改編して、作者はその名前の字面に「早合点の勘違い」という、いかにもの喜劇的意図をわざわざ出している。
 笑うだけではなくそこに人生の悲哀を感じることもあるだろうが、それはあくまでも武士という大坂の町人にとってなんとも珍妙なる連中の間抜けさがもたらすペーソスであって、荘厳なる悲劇ではない。
 さんざん阿呆をやって笑われてた藤山寛美が、最後にほろりと泣かせる松竹新喜劇みたいなもんだ。

 さて、<判官切腹>にはそんなおかしみさえない。古来、この場面は人形もしどころがなく、文言も単調で、義太夫を語る太夫の側も詰まらない場だと認識していたようである。語るに力量のいる難曲だと云われるのはその裏返しである。中身がないのに盛り上げる名人の技量がないと、場が保たないのだ。
 大名人の豊竹山城少掾なぞは「バカな夫婦の軽率な行いから起きた自業自得に過ぎないのに、どうして客がこの四段目で泣くのか判らない」というようなことを云っている。
 『仮名手本忠臣蔵』はすぐに歌舞伎に取り入れられて、幕府のお膝元で武士だの切腹だのをありがたがる江戸でも盛んに上演されるようになったが、<通さん場>はそんな江戸の歌舞伎ではじまったものではなく、武士だの切腹だのを莫迦にする大坂の人形浄瑠璃のしきたりだったことは注目しておくべきポイントである。
 つまり、<通さん場>にして、客や売り子の出入りを禁じて無理やり静かに見物させたのは、そうしないと客がまともに観なかったからである。「<判官切腹>は神聖だから」などというのとは、まったく逆の理由から来たものなのだ。しかしまた、そうまでして、なにゆえこの場面を客に観せる必要があったのか。
 客側としても、その幕自体は詰まらなくとも、無いなら無いで前述のように気の抜けた贋物の『忠臣蔵』を観せられたような心持ちとなるのだ。
 この切腹がないと、芝居が、<世界>が成り立たないからだ。<判官切腹>が神聖なのではなく、<世界>を成り立たせる鍵そのものが神聖なのである。たとえ、チャリ場(笑わせる場)の莫迦莫迦しい段であっても、語る太夫は床本を掲げてその浄瑠璃の<世界>に敬意を示すが、同じく切腹その物は莫迦莫迦しくとも、<世界>成立の鍵には敬意を示すのである。

 翻って南北であるが、彼が生きた文化文政時代は幕藩体制も揺らいでいた退廃の世である。江戸の町民にとっても、もはや武士だの切腹だのは嘲笑の対象でしかない。『仮名手本忠臣蔵』や<判官切腹>もどこまで真面目に観られていたか、あやしいもんである。
 『四谷怪談』『盟三五大切』上演より30年ほど遡った寛政6年、江戸で忠臣蔵ブームが巻き起こったが、山東京伝の『忠臣蔵前世幕無』『忠臣蔵即席料理』(二作とも『山東京傳全集』第3巻収録)、東来三和の『忠臣蔵十一段続 大道具鯱幕無』だとかの、幕も無しに忠臣蔵を上演するために登場人物が入り乱れてドタバタになったり、フナ料理を貶された遺恨から討ち入りして無理やりご馳走を食べさせたりするパロディー黄表紙本の人気だった。「自腹を切って奢り、馳走をする」「これ自腹の切れる痛事なり」だとか、<判官切腹>もすでに茶化されている。
 そこからさらに世は爛熟、忠臣蔵パロディー本はますます数多く刊行され、エログロナンセンスに走った南北が人気を博する化政時代である。
 文化8年の式亭三馬『忠臣蔵偏痴気論』(『式亭三馬集』収録)では、<判官切腹>の評価がこんなことになっている。
「切腹の期に臨み、由良之助はまだかまだかと度々のよまいごと未練千万、灸すえながら乳母をたずぬる小児の心に等しく武士の恥ずべき所なり」
 <判官切腹>のそもそもの原因である松の廊下での刃傷に至っては、こうまで云われている。
「まことに酒狂か血迷うたるに相違はあるまじ」
 滑稽本のひねった文言ではあるが、当時の江戸町民の一般的見方もこんなものだっただろう。

 そうして、南北自身が文化5年(1808)に作劇した明智物の『時桔梗出世請状』(現行のタイトル『時今也桔梗旗揚』)では、忠臣蔵の<判官切腹>を明らかに摸して光秀が切腹せんとする場面がある。しかし、辞世の句で「時は今」と謀叛の意を示すや、介錯の上使を斬り殺し、主君信長を討つため立ち上がるのだ。早くもすでに、『四谷怪談』より17年前の<不忠臣蔵>である。<忠義>だけではなく、<判官切腹>も真っ向から否定し去っているのである。
 ここで三宝を踏み砕くのは、<忠義>とともに<判官切腹>の聖性をも踏みにじっているのだ。さらに云えば、『仮名手本忠臣蔵』九段目に於いて、加古川本蔵が三宝を踏み砕き、そののちに「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心」というセリフを吐くことにも呼応している。
 『盟三五大切』によって、『仮名手本忠臣蔵』とは<非モテ忠臣蔵>と通常の<忠臣蔵>を二重に重ねた『東海道四谷怪談』とよく似た構成の狂言だったことを看破して示した17年前、もっと直接的に『仮名手本忠臣蔵』とは通常の<忠臣蔵>と<不忠臣蔵>を二重に重ねた『東海道四谷怪談』とまったく同じ構成の狂言だったことを喝破して示していたのである。
 九段目の三宝は小浪が力弥に嫁入りするための目出度き引き出物であり、自死のための短刀を載せた光秀の三宝との対比が、結婚式と葬式を同じ舞台で展開させたりする南北らしい、いかにも皮肉に捻った趣向ではある。もっとも、姑のお石が要求した三宝に載せるべき引き出物とは本蔵の首であり、南北は忠臣蔵に学んだだけなのだろうが。
 ちなみに、この場面で本蔵は「かほどの家来を持ちながら、了見もあるべきに、浅きたくみの塩冶殿、口惜き振る舞いや」と浅野内匠頭の名を掛けながら塩冶判官の刃傷を浅はかなる行為だとなじっている。由良之助でさえ、この言葉に同調している。63年後の式亭三馬の滑稽本なぞ待つまでもない。
 忠義に殉ずる大星由良之助と、主君から去り、わたくし事で死すことによって忠義より大事なことがあることを顕わし三宝の如くに忠義を踏みにじる加古川本蔵との対比が、元々の『仮名手本忠臣蔵』の主題であったことを、南北は改めて示しただけだった。
 なお、『時桔梗出世請状』初演でも、17年後の『盟三五大切』の一番目として再演した『時桔梗小田豊作』でも、光秀として三宝を踏みつぶしたのは五代目幸四郎だった。幸四郎は前月の『四谷怪談』と交互に上演した『忠臣蔵』で、師直とともに本蔵にも扮して三宝を踏みつぶしているのである。

 こんな観方は深読みのこじつけに過ぎぬと嗤う諸氏もいることであろう。しかし、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』は寛延元年(1748)8月14日の初演であり、『時桔梗出世請状』は文化5年(1808)7月25日の初演だが、おそらく日付もまったく同じ日、つまりちょうど干支がひと廻りした60年後にぴったり合わせる狙いの出し物だったことに気付けたとしたら、その皮肉なる笑みも消えるのではあるまいか。
 なんとなれば、市村座では前月に幕を開けた南北作『彩入御伽艸』が7月5日に辻堂の場と皿屋敷の場を追加するとますますの評判となって大当たりだったが、水中の早変わりを見せた幽霊役の尾上榮三郎が水気に当たる急病のため22日に打切りとなり、急遽7月25日に『時桔梗出世請状』が上演されることになったからだ。当初は8月の幕開きを目指して準備していたこと、これ疑いの余地が微塵もないのである。
 初演から200年以上、これまで誰ひとりとして見抜いていなかったと思われるが、『時桔梗出世請状』は、明らかに『仮名手本忠臣蔵』からサイクルが一巡りした60周年を狙った、そのアンサー狂言だったのだ!!!!!
 歌舞伎初の近代的史劇、南北にも似ぬリアリズムなどというよくある評が、いかに賢しらで浅はかな観方であるか判ろうというものである。南北がそんな捻りのない詰まらぬ史実の写しを披露するわけがないことくらい、まともな眸のある観者なら疑問を挟む余地もなく知り抜いているはずではなかったか。
 南北らしい、凝らしまくった趣向をひとつも感じ取ることなく、形を借りただけの光秀史劇にしか眸が行かぬ輩は、歌舞伎を観ている見物衆とはとても云えまい。
 さらに驚くべきことに、尾上榮三郎とはじつは後に三代目を襲名することになる尾上菊五郎その人であり、つまり『時桔梗出世請状』も『盟三五大切』も、同じく幽霊役の三代目菊五郎が抜けたために急遽幕を開いたということになっているだ!!!!!! この符合はいったいなんだ!!!!!!
 大当たりの『四谷怪談』が、お岩さん役の三代目菊五郎の太宰府参詣のために打切りとなったのは、最初から仕組まれた趣向だったのではないかという当方の推測を裏付ける、これこそ決定的な証左である。
 そもそも、菊五郎は9月15日の『四谷怪談』打切りのすぐあと、太宰府に向かったわけではない。何故か9月19日より隣りの河原崎座で、菊五郎が工夫をしたという怪談、しかも南北作の『舞扇千代松稚』に出演する。そうして、9月25日に中村座で『盟三五大切』が開幕するというおかしなことになっているのである。
 南北の張り巡らされた巧妙なる仕掛けは、舞台上だけに留まらなかったのだ。17年前に廻すことに失敗したグランドサイクルを取り戻すため、深川の5人殺しを奇貨として、一年後の<非モテ討ち入り>のみならず、あらゆる趣向を縦横に駆使して、天界から与えられた干支などには頼らぬ力尽くのサイクル廻し、まさしく壮大なる<王殺し>の仕掛けで、己の手腕のみの<世界>大回転をやらかしたのである。
 急遽幕が開いた『時桔梗出世請状』『盟三五大切』ともに不入りで早々に打ち切られたことは、さすがに仕組んだわけではなかろうが、これも客を置いてけぼりにするほど凝った結果のひとつの趣向ではあった。
 なお、「盟」というタイトルは「明血」を掛けていると述べたが、さらに「三五」を「みつ」と読み、「大切」を縦に並べると「秀」に見えなくもないことを踏まえれば、『盟三五大切』とはそのまま「明智光秀」を表わしていることになる。
 これまでの符牒を前提にすると、これは賢しらなるこじつけだとばかりも云えぬのではあるまいか。

 しかしながら、南北ほど冷徹な眼で『仮名手本忠臣蔵』を読み解く観巧者は存するはずもなく、江戸では単純に忠義の話として持て囃され、やがてパロディーのネタになるほど解体された。
 こんな時代の『仮名手本忠臣蔵』に対する観客の興味の持ちようも推して知るべし。<判官切腹>の受け取り方も想像できよう。それは<忠義>が廃れたからではなく、江戸ではあったであろう<判官切腹>の神聖さの崩壊、それに伴う『仮名手本忠臣蔵』<世界>の崩壊ゆえだ。

 そこであえて、<判官切腹>によって<世界>を成立させることにより、詰まらない<判官切腹>の場でさえ語りで客を感動させる名人と呼ばれる太夫の力量と同じく、作者の力量を示すために『盟三五大切』は創作されたと私は視ている。少なくとも、<判官切腹>が<世界>成立にどれほどの大きな力を及ぼしているかを、ぎりぎりの処を狙って逆照射することにより示そうとしたのは、これまで考察してきた如くに間違いがない。
 そのためにも、前月に改めて原点の『仮名手本忠臣蔵』を上演しておく必要があったのだ。しかし、いまさら『仮名手本忠臣蔵』をやっても真面目に観てくれる人もいないので、仕方なく当世風の<不忠臣蔵>を「書添」えることにしたのではあるまいか。<不忠臣蔵>を外部に添えたことによって、『仮名手本忠臣蔵』自体は観客の脳内で茶化されることもなく確実に<忠臣蔵>として真面目に観てもらえるのである。『四谷怪談』に、雑音を排して静粛に観させる、<通さん場>の効果を期待したわけだ。
 つまり、『盟三五大切』は『東海道四谷怪談』の続編であるどころか、まったく逆に『四谷怪談』こそが『盟三五大切』を成り立たせるための添え物の、そのまた添え物だったわけである。『四谷怪談』ではなく、『仮名手本忠臣蔵』が前月に必須だったのだ。
 ところがその添え物としてでっち上げて完成度も低い『四谷怪談』が大ヒットして二ヶ月のロングランとなってしまったために、『盟三五大切』の上演は9月末にずれ込んだ。『四谷怪談』を無理やり打ち切らなかったら、10月以降になっていただろう。ひょっとすると、足軽野村三次郎の処刑は9月で、その一周忌を当て込んで、どうしても9月中に初日を開けたかったのかも知れない。このあたりに、三代目尾上菊五郎退座の秘密を解く鍵があるだろう。

 歌舞伎史の、あるいは南北創作史上の『東海道四谷怪談』の位置づけは再検討が必要だろう。最初から『盟三五大切』をメインとした三点セット、あるいは南北自身の『時桔梗出世請状』からサブストーリーを削って現行通りの台本に書き替えた『時桔梗小田豊作』を含めた四点セット作だったのだ。あくまでも中心は『盟三五大切』で、他の三作はそれを成り立たせるための露払いに過ぎない。
 どれほど莫迦らしいものであっても<判官切腹>がなければ『仮名手本忠臣蔵』は成り立たないことをまず示し、そこから『四谷怪談』と『時桔梗』で当世風に<忠臣蔵>を徹底的に茶番にしておいてから、その最も難しい処に再度あえて、まごうかたなき<忠臣蔵>を厳然と屹立させようというのである。
 『四谷怪談』で<忠臣蔵>を<不忠臣蔵>にひねったことが退廃の時代を描いた南北の奇想の手柄のように云われていたが、まったくそうではなく、すでに<忠臣蔵>なぞお笑い草で、<不忠臣蔵>が当たり前の世の中に、<判官切腹>の聖性を、鼻先を引きづり廻すかの如き強引なるまでの作劇手腕で取り戻し、<忠臣蔵>の<世界>を成り立たせてしまうという驚天動地の奇想こそが、現実歪曲空間の遣い手、鶴屋南北の面目躍如であったわけだ。
 それは趣向を凝らしただけの、いかにも南北らしい小手先のテクニックのようでいて、しかし、<忠臣蔵>の<世界>を成り立たせる<判官切腹>の失われた聖性を確かに舞台上に取り戻すのである。かつては<判官切腹>の聖性によって<世界>が屹立したのが、<判官切腹>によって無理やり<世界>を屹立させることによって、反対にそこに聖性を取り戻すという逆説手法だ。まさしく、『金枝篇』の如き<世界>回復である。
 その刹那に発せられる「こりゃこうのうてはかなうまい」という言葉は、単なる芝居の段取りを取り戻しただけのセリフのようでいて、やはりこの芝居の<聖性>、<忠臣蔵>の<聖性>、あるいは歌舞伎全体の<聖性>復活を宣言する言祝ぎでもあったのだ!
 この世のすべてを引っ繰り返して笑いのめす茶番に人生を賭けた南北の、しかし己がやるまでもなくすでに世の中すべてが茶番になってしまった時代に、さらに茶番を突き進めることにより、宇宙の根源的<絶対性>を取り戻してしまう、その勝利宣言であったのだ!
 バフチン云うところのカーニバルのさらに何層も上位の難関を、しかも観念ではなく現実に打ち立てようとしたのである。茶番がすべての世の中では、究極の<聖性>を取り戻すことこそが最大の茶番となるのだ!
 究極の茶番と究極の歌舞伎を一度に顕現させる。それは齢七十に達していた南北にとって、己の集大成である意識もあっただろう。そのための二ヶ月がかりで三作品もの先駆けを準備し、満を持して打ち出した『盟三五大切』である。「こりゃこうのうてはかなうまい」とは、人生を極めた刹那の絶頂感を表わす快美の吐息でもあったのだ。
 その裏返しのそのまた裏返しである捻れ具合そのものが、南北の神髄であった。ところが、当世風などと澄ましていた愚鈍な世間の見物衆は、せいぜい一重の裏返しである<不忠臣蔵>なぞで充足し、その皮を剥いだ裡側に、てらてら蠢く真に香しい贓物を垣間見ようともしなかった。
 歌舞伎その物を「これ切り」にするほどの究極の作劇でも、まともに読み取る観客がひとりもおらぬでは成り立たぬのだ。
 それが神ならぬ身、捻れた脳髄の南北ならぬ我が身の浅ましさでもあっただろうが、豈図らんや、なんたる恩寵か、はたまた阿鼻地獄へと誘う天魔の囁きか、ここに<非モテ忠臣蔵>なる言霊が忽然として降り来たることにより、なんびとにも視ること能わなかった補助線が一閃と引かれ、鶴屋南北の極北、歌舞伎その物の真の<聖性>を担う『盟三五大切』の真実の姿に180年目にして我々は否応なしに目醒めてしまうこととなったのだ。
 南北でさえ180年前に<聖性>復活に失敗したその秘鑰を、いま我々はこの手に握り、あとは扉に差し込み廻すだけなのである。南北の、歌舞伎の、最終到達点は、扉を開け放たれ、我々見物の眸が一斉に照射されることを、生娘の肌を護り抜いたまま、静かに待ち受けているのである。

 一番肝心な要をしっかりと据え、もう一度、忠臣蔵の取り込み方などを検討してから『盟三五大切』は味わうべきだ。そうして初めて、南北の<世界>の<綯い交ぜ>の真の恐ろしさ、まさしく反対物の合一、それも単にふたつの両極があるのではなく、その極そのものが常に動的に変転して最大限に振幅するそのありように腦髓を掻き廻され宇宙が捩じ切れるが如き眩暈を覚え、宇宙に罅が入る超越的快美感に身体を貫かれることになるのだ。




※前回の書き替え直後に、『仮名手本忠臣蔵』と『時桔梗出世請状』の初演年月日の還暦符合、『時桔梗出世請状』と『盟三五大切』の急なる幕開きに関する三代目菊五郎の符合、さらに『四谷怪談』を含めた四部作の配役の符合をそれぞれ発見、材料も揃えながら、雑事にかまけて放置していた。歌舞伎座での再演に向けてアクセス数が増えていたのを後押しに、2018/8/1にそれらを追記した。
鶴屋南北の恐るべき<世界>回復計画は、二百年目にして概ね解明できたのではないかと考えている。賢明なる諸姉諸兄の御批判を請い願う次第である。

※この考察を書いた直後からいろいろに想う処が積もり重なってきたので、2012/9/16に大幅に書き替えた。
 書き替えを終えようとした頃に、ウィキペディアの『時今也桔梗旗揚』の項目で、愛宕山の光秀切腹は
「『仮名手本忠臣蔵四段目』を下敷きとしている。大南北のすぐれた改作の手腕を見て取れる」
という記述を読んで、「なるほどねえ」と感心した。これはいままで私は気づいていなかった。そもそも、切腹しようとする場面があったことさえ忘れてた。
 気になって『時桔梗出世請状』関連の文献をいくつか読んでみたが、「忠四」と関係づける見解は見つけられなかった。ウィキペディアの項目を書いた方のオリジナルの読み解きですかね。原典があるなら、ご教示をいただけると幸い。
 ちなみに、最初は
「この場面は『仮名手本忠臣蔵・四段目』のパロデイとなっている。南北のすぐれたアレンジぶりがうかがわれる」
と記述されていたのが、編集されて現行の表現になっているようである。