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『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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Archive for カテゴリー'三島由紀夫'

2007/3/20  私の大義を否定してッ!!

YouTubeに「三島 vs 東大全共闘」の映像なんてアップされてたんですな。しらんかった。
ずいぶん前に活字で読んでいたけど、映像を観るのは初めてのような気もする。


若き日に天皇に拝謁して立派だと感じてしまったことが出発点になっているというのは判りやすい話で、人間の思想というものはなにかしらこういう個人的な単純な体験が核にないとやはりいけないはずで、こういうのがないとただの観念的な流行りみたいなもんだけでころころそのつど着替えたりと、信用できないというかわざわざ相手をするだけ無駄などうでもいい人間になってしまう。
しかし、天皇より恩賜の銀時計を拝受したすぐのちに、三島由紀夫の場合は徴兵検査で結核と誤診されて不合格になって兵隊にならずに済んだと喜び勇んで走って帰ってきたという体験もあったわけで、大義による死という話とどういう具合に結びついているのかもひとつ判らんところもあったりする。


こっちの映像を観たのはつい数年前で、いつもの調子で「葉隠」の例を出して、武士道なんてものはほんとの武士の思想ではなく闘いのなくなった平和な時代のバーチャルな裏返しの思想で、三島の求めているのは逆説的ななにものかであるということを相変わらず表明しておるなと想っていたら、そのあとに「私」は死のために大義が欲しいではなく、「人間」はと普遍化して語っているので、あれっ?と首を傾げた。
三島がどういう思想を持とうと自由だが、すべての人がそうだというのはどういうことか。
たとえば、特攻出撃した戦艦大和の艦内で、死を前にした学徒出陣の幹部候補生が現実にこういうことを云ったのを三島が知らんわけはあるまい。

吉田満「戦艦大和ノ最期」より引用何の故の死か 何をあがない、如何に報いらるべき死か
兵学校出身の中、少尉、口をそろえて言う
「国のため、君のために死ぬ それでいいじゃないか それ以上なにが必要なのだ もって瞑すべきじゃないか」
学徒出身士官、色をなして反問す
「君国のために散る それは分かる だが一体それは、どういうこととつながっているのだ 俺の死、俺の生命、また日本全体の敗北、それを更に一般的な、普遍的な、何か価値というようなものに結び付けたいのだ これらいっさいのことは、一体何のためにあるのだ」
「それは理屈だ 無用な、むしろ有害な屁理屈だ 貴様は特攻隊の菊水のマークを胸につけて、天皇陛下万歳と死ねて、それで嬉しくはないのか」
「それだけじゃ嫌だ もっと、何かが必要なのだ」
ついには鉄拳の雨、乱闘の修羅場となる

さても、自分の命というのは全地球よりも全宇宙よりも重い。いよいよ死を目前にすると単なる華々しい死なんてことだけでは我慢できなくなる。大義もどんどんエスカレートする。国家や天皇なんてもんでは物足りなくなる。

三島は二・二六事件にやたらと入れ込んでいたみたいだけれども、どうも失敗したからこそいいと考えているらしい。
しかし、青年将校たちは成功するつもり満々だった。あれだけずさんな計画というか、その後の計画なんてなんもなくてもうまくいくと想っていた。君側の奸さえ取り除けば、あとは自分たちと志を同じくするはずの天皇が万事よろしくやってくれるはずだった。
ところが天皇に逆賊と云われて何もかもが無駄に帰してしまう。クーデターが失敗しただけではなくて、大義までもが否定されてしまう。
青年将校たちは自分たちの大義に毛ほどの疑いも持っていなかった。だからこそ陛下の軍隊を勝手に動かして、陛下の輔弼の臣を殺して、そのことで陛下に褒めてもらえると想っていた。
あにはからんや、烈火の如く怒られてしまったので、勝手に自分たちの味方だと想ったのに、天皇は裏切り者だと怨んで、かなりみっともない最後になる。とても大義に殉じて死んでいったという感じではない。大義などというどうとでも取れるような抽象的概念がこれだけはっきりと間違っていたと示されて死ぬということはなかなかあるまい。
三島はやっぱり逆説的に、失敗したからこそ、天皇だとか国家だとかを超越した、純粋な大義そのものがそこに顕れると想っていたふしがある。大義を疑いもしないことよりも、そこに亀裂が入って衝撃受けたほうが実感のある何物かが掴めると考えていた。青年将校たちにとっては勝手な話だし、三島がはっきりそう云っていたかどうかよく識りませんが。

よくよく考えてみれば、「葉隠」も大義だとかいちいち考えないでさっさと死ぬのが一番いいと書かれている。「図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武道なるべし」と、これはつまり犬死が一番偉いということで、藩のためとか主君のためとかどうでもいいと云っているに等しい。
逆説の逆説で、平和の時代の純粋思想になってしまっている。藩とか主君とかを超越した、自分のためだけの極めて個人的な私的な武士道になってしまっている。

そうして考えてみればあの大和艦内の対話は、海軍兵学校出身の職業軍人のほうが、「大義なんてそんなものどうでもいいじゃないか」と云っているようにも読み取れてくる。それはつまり国だとか天皇だとかそんなものどうでもいいじゃないかと云っているようにもあたしには読み取れてくる。
山本七平なんかは、戦場の将兵の会話なんてすべて「死にたくない」ということが云えないから別の言葉を駆使して「死にたくない」と云っているので、そのまま表面の字面だけを読み取ってはいけないと記していて、たしかに大和艦内の対話もそういう面もあるだろうが、しかし、それだけでもあるまい。
山本七平のように南方のジャングルで何ヶ月もかかってじわじわ嬲り殺されていくのでは「死にたくない」ばっかりになるだろうが、これから特攻に出撃する若い将兵には華々しい死を迎える高揚感も当然あるだろう。
やはり、ここでは「死にたくない」ではなくて、もっと積極的に死と大義について語っているとあたしには想える。たとえ、あとづけの意味を求めているだけだったにしても。

自分の存在とはなんだろうかという哲学的な根本問題を考える時に、たいていは生と死ということから読み解こうとするのだろうが、人間だけの生と死の付属品であろう<大義>なんて処から考えてみるのも一興。
それも、その大義が破綻してこそ、純粋な私的な自分の存在が浮かび上がってくるということもある。三島が嫌いだと云っている安心している人のその安心を破ることによって何かが視えてくるということでもあろうか。
現在の天皇が自分の考える天皇でないことを前提に、天皇と云って死んでいった三島の逆説は存外に簡単ではない。そこまで幾重にも裏返さないと己の存在に実感が持てない哀しき人種がいるということでもあるが。
天皇よりも国家よりも、そして大義よりも、裏返していくという行為そのものが実感へと近づこうとする思想そのものだったりもする。

三島由紀夫関連の絶望書店日記
三島由紀夫の到達点
伝統の不可能性に対する単純な事実を示す人
中村歌右衛門とヲタク魂
分解されざる桜姫

三島監督、脚色、主演の2.26事件映画『憂國』のDVDが全集版と単体版の二種類出ていたのですな。
どっち買えばいいんだ。


2004/7/31  分解されざる桜姫

 玉三郎が19年ぶりの桜姫を歌舞伎座で演った。
 これだけ待たしたあげくの史上最高傑作の再演なんだから、当然ゴールデンカップル仁左衛門との共演だと誰もが露ほども疑っていなかったのに、看板が病気で抜けた猿之助一座の助っ人として『桜姫東文章』を引っ提げて参加するという暴挙に。

 猿之助が出られない猿之助一座というのはほんとに危機的状況で、玉三郎の男気は痛いほど判るものの、なにもよりにもよって幻の桜姫をと、ファンも泣いた、あたしも泣いた。

 詳しくない方のために一応云っておくと、猿之助一座というのはスーパー歌舞伎とかいうのをやっていて、歌舞伎好きには評判がよろしくないというか別物と見られてる。たんに今風の演出とかだけではなく、古典をやっても大将の猿之助からしてヘタクソというか歌舞伎らしくない。ベテランの宗十郎や段四郎がいたころはまだしもなんとかなってたが、大将もいなくなって若手ばかりを相手に桜姫ってどーすんのとみんな困惑した。
 もっとも、こと桜姫に関しては仁左衛門(つーか孝夫)以外は誰とやっても一緒なので、半端な座組よりはこれはこれでありというか、みんなやけくそでなんとなく容認された。さすがにこんなので最後ということはなく、いつの日かきっと孝玉コンビの復活が拝めると堅く信じていることもあるけど。
 以前に記したように、あたしにとって孝玉の桜姫を観たことは人生に於いてもっとも大きい驚天動地と云っていいくらいのもので、再演には1ヶ月間ご飯を一食にして生まれて初めて1等席を取ろうと悲愴な決意を固めていたのだけど、この発表には悄然としてよっぽどスルーしようかと煩悶しつつ、とにかく幕見で観るだけ観ることにした。『桜姫東文章』が観れるかどうかはともかく、玉三郎の桜姫が19年ぶりに拝めることだけは確かなことであろうから。

 昼夜通しでやったため一番心配していたカットもなく脚本的には完璧と云ってよい。とくに清玄と桜姫が非人に仕置きされて自らも非人に墮とされる稲瀬川の場がきっちりあったのが偉い。最近、幸四郎のやった桜姫は2度ともこの場がカットされ、郡司正勝自身がいろいろ難しい問題があるとか確かどこかで云ってたので、もう出せないのかと想っていたのだが、こういう点は採算度外視で伝統を護らねばならないはずの国立劇場より歌舞伎座のほうがしっかりしている。
 お姫様が最低の処まで墮ちてまたお姫様に戻るという上下清濁の振幅が最大の眼目の芝居で、この場はカナメであるのだからあるのと無いのとでは大違い。しかし、ストーリー的には完璧なのに、19年前に口が利けなくなるほどあたくしを震撼せしめた衝撃が今回は微塵も存しなかった。

 清玄と権助を演った段治郎は、歌舞伎の家の生まれではなく、まだ若く、今回歌舞伎の主役に初めて大抜擢された無名の役者であることなどもろもろの言い訳をあえて付けなくとも非常によくやっていた。猿之助一門が大嫌いな2ちゃんの伝統芸能板でも絶賛されている。ほかの若手も悪くない。つまり、問題は誰あろう、玉三郎其の人の桜姫の裡に発したのだ。
 渡辺保は「桜姫の二重の肚(内面的な心理)が観客に手にとるようにわかるようになった彫りの深さは19年前とは比較にならない芸の円熟」と今回の玉三郎の在り方を称揚している。いかにも近代的自我とやらを追い求める保っちゃんらしい。
 保っちゃんと貌はそっくりの三島由紀夫は戦後初めて『桜姫東文章』を歌右衞門で復活させたがカットが多くてうまく効果を上げられず、10年後に今回と同じ台本の決定版を郡司正勝が舞台に載せたときにこんなことを云っている。
 


『決定版 三島由紀夫全集〈34〉評論(9)』より引用

 女主人公の桜姫は、なんといふ自由な人間であらう。彼女は一見受身の運命の変転に委ねられるが、そこには古い貴種流離譚のセンチメンタリズムなんかはみごとに蹴飛ばされ、最低の猥雑さの中に、最高の優雅が自若として住んでゐる。彼女は恋したり、なんの躊躇もなく殺人を犯したりする。南北は、コントラストの効果のためなら、何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやり結びつけて、恐ろしい笑ひを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれこはれてゐる。といふのは、一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐないことから起る。劇が一旦進行しはじめると、彼はあわてて、それらの手足をくつつけて舞台に出してやるから、善玉に悪の右足がくつついてしまつたり、悪玉に善の左手がくつついてしまつたりする。
 こんなに悪と自由とが野放しにされてゐる世界にわれわれは生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ。ものうい春のたそがれの庵室には、南北の信じた、すべてが效果的な、破壊の王国が実現されるのである。

 

 うーん、一言も付け加えることがない。あたしが19年前にくらくらと惑乱されたのはまさしくこの反対物の合一、それも単にふたつの両極があるのではなく、その極そのものが常に動的に変転して最大限に振幅するそのありように腦髓を掻き廻され宇宙が捩じ切れるが如き眩暈を覚えたのだった。
 今回の桜姫は保っちゃんも云ってるように、上下清濁正悪の振幅がじつに納得いくように昇華され統一的人格に取り込まれていて、両極の変転に無理がない。そう云えば段治郎もじつにうまく演っていたため、あの両極のややこしい二役に破綻がなかった。つまり、登場人物はそれぞれこはれてゐなかった!これではバラバラつぎはぎが肝の、桜姫にはならんのだよ!!前回の染五郎のほうが女に成り切れない女形という特異な壊れ方をしていた分、まだしも桜姫に相応しかった。19年間待って待って、やっと逢えた桜姫のなんたる正しき端正なるこのありさまかっ!!!!!
 もひとつ付け加えると、19年前には残月を左團次が演っていてこれがこの芝居の祕鑰だと想っていたのだが、あらためてそれが正しいことを再確認した。
 残月というのはじつに不思議な役処で、No.1の高僧である清玄が桜姫に通じたと誤解されて追放されると同時に、No.2の高僧である残月は桜姫の局である長浦に通じて追放される。桜姫に対してあくまで純愛を貫く清玄はそれゆえに桜姫を殺そうとして逆に殺されるが、残月はあくまで金のためにいやいや年増の長浦と引っ付いたのに追放されたのちも結構よろしく仲良くやっている。
 清玄の戯画のようでいて、もともと清玄が滑稽な役だからそうでもない。黙阿弥ならもっと幾何学的な対称性を持たせているところだろうが、南北は中途半端なまま放り出している。いなくても話は成立しそうなものなのに重要場面に顔を出し、しかし最後までいるわけでもないので狂言廻しといった風でもなく、なんだかよく判らない。強いて云えば、全体のバランスを崩すためにだけ存在する登場人物ではある。
 南北の魅力は全体のバランスがぶっ壊れているところにあるのではあるが、こんな全体のバランスを崩すためにだけ存在する登場人物はほかに想い付かない。今回の歌六は類似のよくある脇役としては及第点だが、残月としては全体のバランスを崩すほどの重しには到底達しておらずすこぶる物足りん。ここはやはり、左團次の如き滑稽なる小悪党でありながらも得体の知れない存在感を持った役者でないと勤まらん。
 最近は渋くてどっしりとしたカタキ役の人材不足で誰が考えても無理のある髭の意休なんかをやらされてるようだが、孝玉の歪んだ宇宙をさらに歪ませる重力場を帯びた左團次こそはまさしく稀代の残月役者であった。ここでも破壊の王国は屹立すること能わざらなかった!

 玉三郎は立っているだけで皆が口をぽかーんと開けてただただほへーっと溜め息付くしかない若き日の神祕的存在感役者から、たぶん歌右衛門亡きあと取って代わって指導的女形になろうとしたのか理屈っぽい演技派に変貌して、この2年くらいは昔の代表作を何十年ぶりに次々と再演してまた本来の理屈を超越した神祕的存在感を取り戻したと想っていたのだが、総纏めであるはずの桜姫でまたもや理屈っぽい演技派に墮してしまったようではある。
 しかし、今回は慣れない若手を引き連れての変則的なる指導的立場ではあった。段治郎がいくらよくやったとは云え、仁左衛門の代わりが勤まろうはずもなく、玉三郎ひとりだけで桜姫を成立させる演技プランを組み立てざるを得なかったのであろう。いや、そう信じたい。手慣れた相手の仁左衛門や団十郎と最近やった『曽我綉侠御所染』や『お染の七役』は往年の感情の昂りのいくばくかをきちんとあたしに齎してくれたではないか。
 理屈っぽい演技ではなく、あまりに桜姫と玉が一体化してしまったために異化効果さえ起こさずに上下清濁正悪の両極をするする行ったり来たりするようになっているのなら、これはなかなか厄介ではあるが。
 そんな桜姫も仁左衛門(孝夫)相手ならきっと・・・・いや、きっと・・・・
 なんか、転生前の白菊のことなんかまったく覚えてない桜姫に17年前の想いを一方的にぶつけて迫る清玄の如く、勝手なる19年前の想いを一方的にぶつけて迫ってるようでもあるが、恋というものはこういうものなので神ならぬ身では如何ともし難い。
 問題は往年の桜姫と同じものが現前に顕れたとして、あたしが19年前と同じ想いを抱けるかということのほうにあったりするのだが、こちらははなはだ心許なし。くだらない智識ばかりが引っ付いてしまって、まさにすでに識ってしまったことは何の役にも立たぬ。
 役者に理屈っぽいだの壊れてないなどと云っている場合ではない。こちらは果たしてバラバラの手足を自在にくっつけることができるのや否や。
 あたしは10年ほど歌舞伎から離れていて、玉三郎の復活とともにこの2年ばかりまた歌舞伎を観ていたが、またまた遠ざかりそうな気がする。
 これはとりもなおさず、孝玉コンビの桜姫の再演がいつになるのかに掛かっているのではあるが、できれば遠い先のほうがいいような気になっているのもまた事実だったりする。

 
 
     


2003/9/20  伝統の不可能性に対する単純な事実を示す人

 国立劇場で文楽『義経千本桜』の通しをやっていて、84歳の人形遣い吉田玉男の知盛に圧倒される。なんじゃ、こりゃ。あんまりびっくりしたので手を尽くしてチケットを手に入れて2度観たよ。
 正月の舞台では心許ない感じでさすがの玉男さんも老いたか無理もなしと想って、5月には復調してあの歳で元気だなあと笑って観てたのだが、今回はもうそういうレベルではなく完全復活しておる。
 歌舞伎なら座ったままでも勤まるが、人形遣いは重い人形を持って、高下駄履いて、複雑に動き廻らなければならんのだから誤魔化しが効かない。それも大立廻りの末に壮絶な最後を遂げる知盛をやろうというのだから尋常ではない。
 壇ノ浦で死んだはずの平知盛がじつは生きていて幽霊のふりをして義経に再度挑むのだが、なんかそんな姿が重なってくる。また、明治以降はいつ消滅してもおかしくなかったのに何故か復活して隆盛を極めている文楽の姿ともそのまま重なる。

 さぞや騒がれてると想いきや、ウェブ上ではあんまり評判がよろしくないな。
 たしかに玉男さんを初めとして長老連中は全盛期と比べると落ちてるのは間違いがない。とくに義太夫の人間国宝ふたりの凋落は著しい。だが、これだけの陣容での千本桜はもう最後で、これから20年や30年はないだろうし、そういう意味ではいまは文楽の黄金期でなんのかんの云うのは贅沢だ。
 若手にはいいのがいっぱいいるのであたしは文楽の未来を楽観視しているが、昭和8年に入門してほんとに文楽消滅の危機を何度も潛ってきた玉男さんがいなくなるとちょっと違ったものになるんではないかと満杯の客席で漠然と考える。
 さても、70年前の文楽を肌身で識ってる人間がいまも現役でいるというのは奇跡以外のなにものでもなく、もしも若い客が還ってくるようになる以前の20年前に玉男さんがいなくなっていたとしたら何かが一度途切れてしまって、ここまでの隆盛はなかったのではないかとも想う。

 2003/1/5 三島由紀夫の到達点に於いて、歌舞伎をまったく識らない諸氏に説くにはあまりに話が入り組むのでわざと落としたのだが、三島の云う<伝統>とは明らかに神風連的なるもので、つまり「不可能だから尊い」という逆説的なものだ。すでに死んでいる崇徳院に対する「故忠への回帰」を目指しながらも盡く失敗する源為朝を描く必然がここにあるのだろう。
 三島にとって失敗はあらかじめ予定していたことで、扇をかざして電線の下をくぐり抜け、刀だけで新政府転覆を目指した神風連の如き雄壮なる失敗を披露することで、滅んだ時代の<伝統>を逆照射しようとしたのであろう。<伝統>は次代に伝わらないからこそ<伝統>なのだ。
 ところが、同志であるべき歌舞伎役者に嘲笑われ裏切られたことにより、その尊い<不可能性>を構築することさえ適わなかったわけだ。失敗を示すことさえ失敗した。この二重の不可能性によってあの三島の絶望は招来され、1年後にもっと世間に判りやすい「不可能だから尊い」あらかじめ失敗が予定された単純なひとり芝居を演じる羽目になる。
 吉田玉男の知盛を観ていてつくづく想うのは、ひとりの優れた人物が時代を超えて生き延びるということだけで<伝統>というのは繋がるのだなという単純な事実である。玉男さんより歳下の三島が今日まで生き延びていてこの舞台を観ていたらなんと云ったであろうか。女の子でありながら男として平清盛に天皇に仕立てられた云わば偽帝、しかもこれまた壇ノ浦で死んでるはずの幼き安徳帝の言葉によって源氏への復讐を諦め千尋の海底へと姿を消す知盛の壮絶なるその姿を。
 まったくもって、寿命も才能の裡ではある。

 この玉男さんの知盛を観たことは死ぬまで自慢できるな。
 これを観ていない者の芸術だのヲタク文化だのについての言説はすべて贋物であると絶望書店主人はここに認定しておく。

 てなことを書いてから調べてみると、来年の4月に大阪で文楽劇場二十周年記念に玉男さんはまた知盛をやる予定らしい。この歳で来年の予定が決まっているのも大したもんだが、さすがに東京では一世一代(つまり知盛はこれが最後)のつもりであったようだ。
 しかし、なんか90歳になってもまたあのしれっとした貌で演ってそうではあるのが恐ろしい。自慢するのはまだまだ早いか。

 
 
     


2003/1/5  三島由紀夫の到達点

 先月は三島由紀夫の『椿説弓張月』も楽日に観た。歌舞伎座に行くのはひさしぶりで、これも三島の『鰯売恋曳網』以来だったか。
 『椿説弓張月』は15年前に国立劇場の2回目の上演を観ている。三島自身が演出した初演とほとんど同じだったようだが、妙に間延びする場面が多かったので短くすればいい歌舞伎になるんではないかと想っていた。今回の3回目の上演は時間の都合もあって大幅にカットされ、じつにテンポがよくなっていて、脚本的にはよくできてる。しかし、前回のほうが圧倒的におもしろかった。
 カットすればいいと考えていたぐらいだから三島の『椿説弓張月』は脚本の構成的にも失敗作だと想っていたのだが、今回の舞台を観てあれはじつは立派な成功だったのだと初めて気がついた。うーん、三島の戯曲の構成力を侮っていたか。

 ケレンとスペクタクルが呼び物の芝居なのだが、そのなかでも最大の見処であろう何十メートルの巨大怪魚は時間と舞台の狭さの関係もあって、今回は出たーっ!というユニバーサルスタジオ的なおどかしだけになっていた。15年前も登場はもちろん同じく驚くのだが、そのあとそうとうしつこく広い舞台上をぐるぐる泳ぎ廻っていて、いつまでもこんなものを観ていていいのだろうかという不安感に苛まれる悪夢的な時間の裂け目を創り出していた。
 降りしきる雪のなかお姫様の弾く琴に合わせて腰元たちが裸の男に釘を一本づつ打ち込んで血を流す<琴責め>も、15年前はもっとじっくりねっとりと責めていて残虐や変態趣味を突き抜けてただただ呆れ果ててしまう時空の歪みを生み出していた。
 こういうケレンの時間の引き延ばしによる妙な効果は当時も判っていたのだが、ケレンとケレンを繋ぐお話の部分がどうにも冗長でもっと短くすべきだと想っていたわけだ。しかし、ここがこの芝居の肝だったのだな。

 話は保元の乱に敗れた源為朝が流された大島からはじまっていて、再度平家と対決するため都に還ろうとするのだが、何度試みても失敗して辿り着けないという、闘いに敗れるのではなくその闘いの場に立つことさえ適わぬ悲劇の英雄の挫折を描きたいと三島は云っている。保元の乱も為朝が夜襲を進言したのに入れられず、ほとんどまともな戦闘もしないまま敗れて、しかも味方はみんな殺されたのに自分だけは死罪を免れて流されたわけで、つねに運命に見放され決戦の機を逸してしまう。
 あのとんでもないスペクタクルとスペクタクルを結ぶせっかくのスペクタクルを嘲笑うかのような空虚に退屈な時間は、この為朝の到達不可能性をじつによく顕していたわけだ。スペクタクルはその谷を、裂け目をより深くするためだけに屹立させていたわけか。
 そして、さらに三島自身の歌舞伎への挫折が加わる。これはかなり深刻な絶望だったようで、この芝居の失敗が一年後の自決に直結していると真剣に云っている人もあるくらいのもんだ。

 今回の上演の感想なんかをウェブ上で観て廻ると、この三島の挫折を己の台本や演出構想に対するものだと勘違いしている方が多いようだが、じつのところは歌舞伎役者たちが歌舞伎を識らず、そのために己の考えるほんとうの歌舞伎にならなかったというのが真相だったりする。
 己の台本や演出構想には疑問を抱いていなかった証拠に、なんと!三島自身がセリフを語るこの芝居のレコードを販売しているのですぞ!小説家が鶴澤燕三の三味線をバックに歌舞伎をやるだけでもそうとう無茶な話だが、これはたんなる素人の道楽である「寝床」ではなくて、プロの歌舞伎役者にほんとうの歌舞伎を教えてやるためなんだからもうイカレてるとしか云いようがない。
 CDになってるので物好きは聴いてみるといいが、これがまた今回の上演なんかよりも遥かによかったりするからよけいにカルト的と云おうか。出たがりの三島自身が出てくる作品のなかでは一番出来がいいと云ってもよいかも知れん。

 歌舞伎役者が歌舞伎を識らないとはどういうことかと云うと、歌舞伎素人講釈にあるように、三島は天明時代のほんものの歌舞伎をやろうとしているのに役者は幕末の黙阿弥のテクニックでやってるということ。実際には黙阿弥ですらなく、江戸時代とはまったく違う、つまり歌舞伎じゃないなにものかなんだが。
 さらにやっかいなことに、初演にも参加した猿之助が「三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当に御存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ」なんてかすかな微笑を浮かべつつ語ったと云われているように(蜷川幸雄「道化と王」、ユリイカ1986年5月号)、役者のほうはまったく自覚がなく反対にこんな三島を嗤っていたということだ。
 一応云っておくと、たんに三島が偏屈で素人で想い込みが激しかったということではなく、郡司正勝のようなもっとも江戸時代のほんものの歌舞伎を識っていたであろう人も三島の考えを共有していたんだが。
 すでに死んでいる崇徳院に対する「故忠への回帰」を目指す為朝と同じく三島はすでに失われた伝統に対する「故忠への回帰」を目指したわけだが、伝統の継承者で数少ない同志であるべき歌舞伎役者に嘲笑われてしまった。為朝は自決せんとしたとき顕れし崇徳院の亡霊に天盃を賜り行くべき道を指し示されるのに、三島は云わば伝統の亡霊たちに嘲り嗤われ道を塞がれたわけだ。その絶望たるやいかばかりか。

 今回は猿之助演出ということでどうなるんだろと想っていたら、スペクタクルのケレンだけを残して谷間の部分は極力切り詰めて、いつもの猿之助歌舞伎に比べても遥かに全編ユニバーサルスタジオ的になっていた。とくに特徴的だったのは猿之助自身が演じた為朝がまったく明るく何度挫折しても困難に立ち向かう希望を失わない人物となっていたことだ。故忠の対象である崇徳院はすでに死んでいて、たとえ平家を倒したとしても成功はあらかじめ失われているはずなんだが、おかまいなしに脳天気なまでに希望を抱き続けている。
 三島は先代猿之助の心理描写を反歌舞伎的なものとして批判していて、いまの猿之助は先代ゆずりの登場人物の心情を繙く心理描写こそ歌舞伎の本質であると考えていて、いろんな意味で捻れた舞台ではあった。
 前回の幸四郎はこの役者の資質もあるし初演で先代幸四郎がやったのと同じ役を務めるという神妙さもあって、暗く陰鬱な為朝だった。同じく心理描写にこだわるふたりの役者の対称的な違いは、心理描写の力量の差もあるが猿之助が三島を莫迦にしているということが大きいのだろう。むしろ、初演の初稽古に自分でセリフを吹き込んだテープを持ち込んでこの通りにやってくれと云った三島に歌舞伎が莫迦にされたと感じ、己の信じる歌舞伎のために三十三年目にして復讐を遂げたと云ったほうが正解か。つねに上機嫌だったあの為朝は、信じるものへの忠をいままさしく果たしつつある歓びに満たされていたのだろうか。
 幸いと云うべきか、猿之助は己の歌舞伎を見せつけることで復讐するのではなく、ただ三島歌舞伎の破壊だけに徹していた。これはある意味ネガとして、三島の目指していたものを尖鋭的に炙り出したと云えるのかも知れぬ。
 谷間の部分がないだけではなく、スペクタクルと為朝の挫折が唯一交叉する真っ二つに折れて沈む船が出てこなかったのは舞台機構の都合なんだろうが、今回の上演には象徴的ではあった。あの船も莫迦みたいに巨大でゆっくり沈んでいったため、スペクタクルというより妙に紗幕が一枚挟まったような悪夢にうんうん魘される感じでなかなかよかったのだが。

 三島演出の失敗作と猿之助演出の歌舞伎でないものというあまりに懸け離れた両極を観て、あたしはその央に三島が夢見たであろうほんものの歌舞伎としての『椿説弓張月』をはっきりと視た。
 この芝居は自害した白縫姫の魂が寧王女に憑依して甦るという転生の物語でもあるのだが、すぐに憑り移るのではなくいったん巨大な黒アゲハと化して飛来しながらむしろこの姿のまま一番活躍する。あたしはふたつの舞台の間に黒蝶が舞うのをたしかに視た!それはふたつの舞台を結ぶのではなく垂直に飛来し、どこに留まることもなく蒼穹の彼方へと消えていった。実体を持たぬまま到達不可能性だけを伝えて、転生の蝶はたしかに舞った!受け留めるべき肉体がない現代ではどこにも着地しないまま飛翔させるために、どうしてもふたつの失敗作の反発し合う磁場が必要だったのだ!横尾忠則にポスターを発注する際、もっともこだわったという影の如くの黒い蝶は、初演より三十三年目にして初めて舞った!

 三島の歌舞伎に対する想いは、上記の歌舞伎素人講釈の「三島由紀夫の歌舞伎観」がよくまとまってる。補遺ノートを先に読んでから、その共感と嫌悪を読むのがよろしかろう。
 三島由紀夫はよく云われるように一に評論、二に戯曲、最後が小説(細かく云うと三に短編、四が長編)だとあたしも想うが、その評論のたとえば『小説家の休暇』『裸体と衣裳』なんてのは三島の歌舞伎に対する複雑な愛憎を判ってないと半分も理解できないようになっている。あるいは自決の意味も判らんと想う。
 三島由紀夫について語る者は、上記リンクの内容くらいは実感として判るように江戸を幻視しながら歌舞伎を観るように。

 
※三島自身が義太夫を語る『椿説弓張月』は「決定版 三島由紀夫全集〈41〉音声(CD) 」で聴けるようになりました。

   

 

 


2001/5/4  中村歌右衛門とヲタク魂

 三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
 それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
 とりあえず、半端な想いを綴っておく。

 八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
 戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
 そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
 結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
 戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという<やおい>的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
 歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の<形>をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
 しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
 歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。

 あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
 幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
 もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
 ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
 あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。

 昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
 女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
 ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。