絶望書店日記

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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2003/5/31  間抜けなレッシグを黙らせろ!

 ローレンス・レッシグ『コモンズ』がようやく図書館でつかまったので読む。杉並図書館は数年前に予算を極端に削って新刊の入荷が眼に見えて悪くなり順番待ちの輩はいや増して、予約から何ヶ月も待たされた。これもコモンズの縮小の一端なのか、共有地の悲劇なのか。もとより買う金は持っとらんし、天下の廻りものが廻ってこない個人的な悲劇か。
 この書はwad’sも云ってるように、己の思想を正当化するために創作だのイノベーションだの持ち出してきているような気があたしもするし、メディアの進化一般の見地から批判するのは見当外れなような気がするが、どうも著作権の問題を妙な具合に歪めているような気もするので、時季外れにネタにマジレスしてみたい。

著作権はふたつに頒けろ
 日本には版権と著作権というふたつの言葉がある。版権というのは福沢諭吉によるコピーライトの訳語らしいが、もともとは板権から来ているのであろう。板権というのは活字ではなくページを彫り込んだ板木での出版を行っていた江戸時代のその板木に伴う出版社の権利のことである。板木を持っていない者は同じ内容を出版する「重板」も似たような内容を出版する「類板」も禁じられて、やるとしたら板木を買い取るしかない。板権はまさしく英語のコピーライトと重なる概念である。(江戸時代は「板株」という言葉が一般的。ひょっとすると「板権」というのは明治にできた言葉かも知れんが、概念は一緒で流れは板株→板権→版権で同じ)。
 この板権はなかなか強力なもので、『徒然草』だとか『伊勢物語』とかの古典でも最初に出版して板木を持っている出版社以外は本にすることができず、注釈書なども類板として取り締まられるので、江戸初期は無数にあった注釈書が法律と出版社組合が確立した元禄以降はほとんどなくなってしまう。また、同じ筆者が同じようなテーマの本を他社から出そうとする場合、必ずしもまったく同じ内容ではなくとも類板として差し止められるというようなことがあった。
 一方で弱いながらも著作者の権利はあり、江戸時代の日本には版権は著作権と対立する概念として明確にあった。明治時代に福沢諭吉が欧米の法律を持ち込んでから、ふたつの概念は曖昧になってしまったが。

 英語ではひとつの言葉しかないからなのか、著作者の人格と不可分と考える大陸法とは違って版木のように売買できる財産権である英米法のためなのか、ほんとうの自由な創作活動やほんとうの革命的イノベーションなど求めているわけではなく己の思想の方便として云っているだけだからなのか、『コモンズ』では版権と著作権を明確には区別していない。たぶん最後の理由が一番ありそうだが、これが一番肝心な問題を判りにくくしてしまう。
 著作権の話の本質は、創作に関わってないスーツ連中があたかも創り手のためであるのかの如くに主張しながら金とコントロール権を握っている点に尽きる。これは企業が芸術家を搾取しているなんて単純な図式ではなく、創作活動の本質に関わるなかなか厄介な問題ではある。
 スーツ連中が大金を取るために創り手の取り分が少なくなるという問題もあるし、無駄に多いスーツ連中を喰わせるためにより多くの部数を掃かなくてはならなくなり、そのためには最大公約数的な無難な内容に中身を薄めないといけないという問題もある。もともと、本などというのは1000部も売れれば採算が取れるはずなのだが無理を強いられることになるし、またいろいろ口出しをされることになる。<他者>の恐るべき脅威
である。
 版権と著作権は基本的に敵対関係にある概念として確立させるべきである。いま問題となっているのはこの版権(現在の著作権の一部と著作隣接権を含むスーツ権)であり、スーツ権は著作権を抑圧するものとしてきちんと捉えるべきである。このスーツ権問題を著作権問題として捉えているレッシグは、問題を隠蔽しようとするスーツの手先となっているに等しい。
 この点を明確にしてから次の段階に移らなければならない。

既存の創り手などいらない
 より大きい問題は創り手の側がこのような体制に依存していることである。いまや物理的な流通基盤はいくつもあり、『コモンズ』で強調されているような妨害活動などないにも関わらず、旧体制のほうを選び取る創り手がほとんどなのである。レッシグが理想とするような自由な流通チャンネルやイノベーションだのをほんとうの意味で求めている創り手などいないのである。
 現在の日本の出版界はブックオフやマンガ喫茶という物理的なインフラがすでに整備されている。ブックオフやマンガ喫茶はいろんな批判に晒されているため、多少の金銭的損失があったとしても既成の本とは別ルートの新しい形態の新刊を扱ったり自ら出版を手がけたりする潜在的動機付けがされている。ここに附け込んで、出版社も取り次ぎも取っ払って自分の本を売り込もうとする書き手がひとりもいないことが、最大の問題なのである。創作者の権利を護りたいなら余計なスーツを排除して創作者の取り分を増やそうとするのが当然であるのに。
 こういうことも想い付かない輩の書いている文章が面白いはずがないし、読む価値などまったくない。貸本屋や古本屋が発達すると自ら出版をはじめるという歴史的事実や力学的必然について考えたこともないのであろう。
 反対にブックオフやマンガ喫茶を批判して旧来の流通チャンネルの独占を強化しようとする書き手がいたりもする。こういう輩は編集者の存在を何故か過大評価しウェブはチェックが働かないのでいいかげんなどと本気で考えていたりする。いまはまともに仕事をしている編集者などいない。数人はいるかも知れんがそれは編集というシステムとはまったく関係なくたまたま偶然そこにいるだけで、多少は働いているように見える連中もただ旧来の枠組みに当て嵌める機械作業をしているに過ぎない。編集者とは本来新しいメディア自体を創造する創り手のことを云うのだが。
 枠組みに疑問を抱かない者を創り手とは呼べない。<他者>のひとりである。創り手がスーツになってしまっているのだ。
 自ら束縛を求めている家畜でもある。家畜の書くものなど読んでも仕方がない。この連中の拠り所は自らが既成の枠に嵌っているということだけである。肩書きだけの編集者にチェックしてもらうことで責任を回避し安堵する甘えた無能者である。
 日本の著作権の源流である大陸法では著作権とは創作者が出版社から独立して対抗するために闘い取られたものであるのだが、それをいままた出版社の支配強化のために使わるとは皮肉な話ではある。ちなみに宮澤溥明『著作権の誕生 フランス著作権史』は有名な作家たちがいかにして出版社や劇場(現在の放送局や映画配給会社に相当する)と闘ってきたかがよく判り読み物として面白い。ジャスラックの理事がこういう本を書くこともまた、この問題の捻れ具合を表していると云えようか。
 過去の優れた創り手は枠組みそのものを変革してきている。眞の創り手はコンテンツではなくメディアを創造するのである。既存の枠組みに満足している者にものを創る資格などない。
 現在読む価値がある唯一の存在である絶望書店がメディアであるのは偶然ではない。メディアがメッセージとはよく云ったもんだ。

 おまえら!この妄想を買え2のリンク集なんかにあるような本の流通について記してきたのは、既存の本を流すためではなくまったく新しい本を生み出すために枠組みを変革しようとする試みで『コモンズ』の考えと多少似たところもあったが、とりあえず既成の書き手に関してはそんなものは欲してないし、新しいものを生み出す能力もないとの確信を数年間を経て持つに至った。
 もっとも、それは判っていたことで、あたしはいまある既成の本も映像も音楽もまったく面白くなくて心底困っている。それこそ根本的イノベーションが起こってもらわないと愉しみがなんにもない。そのためにこの『コモンズ』とかいう本はなんの役にも立たない。『だれが「本」を殺すのか』が出版界守旧派の意向を受けて問題を隠蔽するために書かれたように、むしろ問題から眼を逸らす役割を担っているように想える。
 レッシグも既成の書き手のひとりであるし、ディズニーだのなんだのを自由に使えるようにしろと云ってるくらいだから既成のものについて満足しているのであろう。それなら彼の云う「イノベーション」とはいったいなんなのであろうか。もうひとりのディズニーを生むだけのことなら「イノベーション」だのとご大層なことを云うほどのことなのか。
 少なくともあたしはそんなものでは困るし、せっかくメディアの転換期に立ち逢った甲斐がない。
 新しいメディアに流してもらいたくないと云ってる旧メディアの連中のものをわざわざ流してやる必要などない。向こうから頼んできても断るべきである。

新しい創り手は顕れていない
 ディズニーにしろレコード会社にしろ既存の大手が自分たちの財産をウェブに無制限に流れるのを抑えようとするのは、メディアの進化にとってまことに結構なことである。ウェブ上ではそれらの既存の勢力とまともに競合せずに新興勢力が地歩を築けるからだ。
 問題はいまに至ってウェブ独自の映像や音楽などが生まれていないことのほうなのである。それをディズニーが著作権に煩さ過ぎるせいだと云うのは無理がある。
 新しいメディアにはそれに合った表現がそのたびに生み出されてきた。あたしは音楽には疎いのでよくは識らんのだけど、たとえば着メロのようなこれまでの音楽とはまったく違う概念のウェブ独自の音楽なんてのはあるのだろうか。ウェブで音楽を聴くとうざくてすぐに消してしまうが、うざくない新しい音楽の試みなんかを真面目にやってる者はいるのだろうか。
 あたしの識ってる範囲ではインパク音頭くらいしか想い付かん。インパクみたいなものを嗤うなんていう己が低脳であることを喧伝するようなことをやってる輩は一杯いたけど、インターネットの有り様を餘すことなく歌い上げたこんな素晴らしい歌はあんまり広がらなかったな。
 まあ、ほんとにこれがウェブ独自の音楽であるかは疑問のあるところで、フラッシュなんかも面白いものはあるもののほんとにウェブ独自の映像と云えるかは疑問ではあるが。
 せっかくの空白地帯になっている処でまったく新しい表現が生まれ、ディズニーや既存のレコード会社を衰退に追い込めば、レッシグなどに詰まらない理論を振りまわされてでかい顔をされなくとも済む。本やCDの売上げが落ちていることはコピーの問題だけではないだろうし、潜在的にそのような流れは望まれているはずで状況は有利なはずなのだが。
 やっているのは既存の表現の縮小再生産でしかない。自由は無限にあるのに。
 テレビやラジオや雑誌で流れてるようなものをウェブで流しても仕方がない。そもそも既成のものが「良い」という感性自体が劣っているので致し方ないが。とくにあたしが不思議なのは雑誌などといういまどきまったく売れていないもののデザインが「良い」ものとして、それをそのまま持ち込んだような醜悪なウェブページが多いことである。新しい創造などという遥か以前の状態ではある。
 『コモンズ』で謳い上げられているように自由な空間がイノベーションを生むというのはかなり怪しい話ではある。歴史を見るとメディアの転換期には新旧の苛烈な激突があり、そこからまったく新しい表現が生み出されている。旧体制があまりに強力なために擦り抜けるためにそうせざる得なかったという面もある。
 メディア進化の歴史についてはもう一度よく見ておく必要があるのではないか。一番美味しいところをわざわざ切り捨てるということにもなりかねん。

新しい受け手はいるのか?
 この書には何十年も前の本を舞台化しようとしたが著作権に阻まれてできないとかいう話が大問題として出てくる。しかし、例えば絶望書店は昔の本を使ってまったく新しい形の演劇をウェブを舞台に展開しているとも云える。
 この書では「イノベーション」とかいう言葉がやたらと出てくるが、こういうまったく新しい動きが視えないのなら「イノベーション」など意味はない。
 古本屋からも著作権者に対して金を払わそうという動きがあったりしてレッシグの心配する新たな規制ができるかも知れんが、そうなったらまたべつの面白い方法を編み出すだろうし、いざとなったら刑務所に入ったり破産すれば済む話である。
 そんなことよりも、まったく新しい表現を受け入れるだけの能力を持った受け手がいるのかどうかが大問題ではある。
 絶望書店のなかで唯一旧来のメディアの延長である絶望書店日記だけを読んでいる輩が大勢いて、せっかくの絶望書店の革新性を読み取っていない。
 そもそも受け手はイノベーションなど望んでいるのかどうか。

メディアの歴史を本当に識っているのか?
 国家だの市場だのの大きい単位の平均的な話ならレッシグの云ってることはもっともな面もあるが、創作活動などという突出した分野のさらに新機軸なんていう突出した部分に於いて規制がどうだなどということはおよそ関係がない。『CODE』と違って『コモンズ』にあまり説得力がないのはこの点で、思想をもっともらしくするためのダシにしか見えない由縁である。
 新旧のメディアが激突する時期の鬩ぎ合いこそがメディアの本質であるとも云える。現代はそれが起こっていないことのほうが問題なのである。

 ほんとうの創り手はどんな妨害があろうとも己の創りたいものを創ってしまうものだ。いざとなれば刑務所に入ったり破産すれば済む話で、ほんとうのイノベーションを打ち立ててきた先人達は皆そうやってきている。
 新しい表現を生み出した創り手がいよいよ困っていたらそのとき初めてレッシグのような法律家が助けてやればよいのであって、法律家が先回りして予想できるはずもない新しい創造物についてあれこれ考えるのは莫迦げているし、ましてや法によってそれが生まれるなどと間抜けなことを云うもんではない。
 しかし、これはレッシグが悪いのではない。この期に及んで未だにまったく新しい創造を打ち出せないでいる創り手のせいで、頭の回転の速い者が辛抱たまらずつい先走りしてしまっただけのことだ。
 早いとこ旧メディアと激突せざる得ない新しいものを見せつけて、法律家本来の仕事をやらせてやれ!!

 ところで「コモンズ」なんていう聞き慣れない言葉よりも「楽市楽座」なんてな邦題にしておいたらITバブルの頃によくあったインターネット論と本質的に同じだと判ってよかったのではないのかね。楽市楽座も為政者の保護によって自由が護られてたんだろうから。こっちのほうがイノベーションはともかく発展とか繁栄とかのベクトルが明確に含まれた概念であるし。聞き慣れない横文字のほうが好きなITバブルのオヤジなら「コモンズ」なんてなほうが良いのだろうが。
 ITバブルの頃によくあった脳天気インターネット論を嗤う輩は多いが、あたしはそんなに間違ってなかったと想っている。実体は伴わなかったがそれは実体のほうが悪いのであって、絶望書店のような立派な成功例もあることだし。結局は演じ手の能力がすべてではある。

 コモンズというのは「入会地」という名で日本にも古くからある。裏山を村の共有地として薪などを取り過ぎて荒廃させないように共同管理したりする、主に現状維持のためのシステムである。
 ディズニーの作品がただで無制限に流れるようになると新しい勢力が入り込む隙がなくなり、それこそ現状維持が続くことにもなる。旧メディアの強力過ぎる保護は諸刃の剣で、旧メディアを衰微させ新メディアの勃興を促する原動力ともなる。囲い込みと隔離は表裏一体で、既成の体制に関係なく自由に暴れる新興勢力が顕れるといつでも逆転することになる。
 メディアの進化にはいつもあったこういう関係から見ても、レッシグのやってることはズレている。彼の思想にとって美しい体系であれば、メディアの進化が現実に起きるかどうかなどどうでもいいのであろう。本当のイノベーションなど望んでいないのである。

 平均値の話としてはアーキテクチャーが人の行動を左右するなんてこともあるのだろうが、創作活動やイノベーションなんて世界では莫迦や気狂いの突出した行動がアーキテクチャーのほうを規定するのである。
 早いとこあっと驚く新機軸を打ち出して、法律学者先生に世の中のダイナミズムというものを教えてやれ!
 江戸時代の出版界では小難しい「物の本」を出すご立派な出版社は上記のような自らの既得権益を護るための法律に雁字搦めになって衰退していった。一方で出版社組合にさえ属さない新興の出版社が非合法のゲリラ的手法でもってまったく新しい世界を切り開いていった。
 ほんとうのイノベーションとはこういう<メディア循環>によって起こるのである。もっとも難しい物理的基盤は必要ではあるが、ウェブだのなんだのですでに条件は整っている。

結論
 あたしは新しいメディアと云えた黒薔薇は時々読み返して自分でも笑ったりしているのだが、旧来のメディアである絶望書店日記はどうにも面白くなくて絶望書店主人がわざわざ書くほどのことはないと常々考えていて、この4月にはやめてしまうつもりであった。日記の代わりとなる今日の一冊の準備に手間取ったのと、旧メディアからの想わぬ接触に応対するため図らずも延命してしまった。
 どこも本の画像はおんなじのばかりで今日の一冊みたいなやり方があるんではないかと絶望書店開店当初から想っていたのだが、デジカメが手に入らないので6年も遅れてしまった。どこの家にも古いデジカメの一個や二個は転がっているだろうに何故ただで寄越さないのか。麗しい共有の精神を持ってはおらんのか。
 ディスクスペースがもっとあればさらに面白いことができるのだが、誰かコモンズとして絶望書店だけに解放せんか。レッシグの云うように物理的基盤はまことに重要である。

 てなことで、結論としてはおまえら<絶望石>を買え!
 根源的再編成が迫られているあらゆる分野のコンテンツ事業の将来は、まさしく絶望書店と<絶望石>の行方如何に掛かっておる。諸氏の心がレシイバアとすれば<絶望石>は萬人に向かって放送せらるゝ大マイクロホンである!メディアの未来を見たくはないのか!絶望書店に物理的基盤を与えてみよ。
 たとい諸氏らの想うようなものが出てこなかったとして、握り締めながら一心に祈れば向こう三軒両隣り孫子の代まで深い絶望を得ることができるのであるからして、論理的必然として絶対に損にはならぬこと科学的頭脳を備えし貴君には説明の要もない。買え!

  2003/6/30 絶望の来し方行く末も参照のこと