絶望書店日記

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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2002/11/26  小谷野敦氏よりのメール

 2002/9/25 平均寿命23歳に対して小谷野敦氏よりメールをいただいた。当方の文章を激しく非難しておられる。
 当方の返信とともに当該の文章の下に交互に掲載するので併せて読んでいただけると幸いである。当方の事実誤認などを正すにはこれがもっとも公正なる方法であると信じる。
 なお、小谷野氏より具体的な指摘がある前に、表現については確かに行き過ぎがあったと反省し自主的に書き換えされていただいた。内容はまったく変わっておらず無駄な修飾が無くなって却って問題点が浮き彫りになってよかったのではないかと当方は考えている。
 小谷野氏は吉原の遊女の平均寿命が23歳というのは間違いであったと認めておられるようで、当方はこれは重大なことだと考えている。

 こういう事態になるとblogでも最新型のウェブ日記ツールでも導入しておけばよかったと悔やむが、手作業でしこしこやるのも却っていいような気もする。読む方にはあまり変わりはないと想う。
 すべては文章を読まれた諸氏の判断を待つ。

   最終メール 11/29/04:55
   参考資料を掲載 12/11


2002/11/21  惡質な筆者

 また、すべからくの話があちこちから出てきて、あたしはもう辟易しているのでばっくれようかと想ったのですが、発端である闇黒日記(11/19)の「そして、絶望書店氏は、この惡質な筆者である。」という一文が眸を惹いた。惡質な筆者・・・・あたしはこれほど甘美なる称号を戴いたことはない。想えば絶望書店開店以来の5年間は絶望書店および絶望書店主人に対する形容を探し求め続けた日々であったと云っても過言ではないが、残念ながらあたしにはこれほど素晴らしい言葉が見出せなかった。
 ああっ、この言葉が絶望書店主人ひとりだけに齎らされた言葉であるのなら!あなたはこの言葉を初めて遣ったのでありましょうか。もし、そうであるならまことに我が儘なるお願いではございますが、絶望書店主人だけの形容としてお使いいただけませんでしょうか。むろん、こんな勝手なるお願いにあなたが応える義理はなにもございませんが、切にお願いいたします。
 もっとも、名前負けしているような気はするけど。あたしは誤読した読者を笑ったりはいたしません。「鏡が通じない」「読み取ってほしいものですが」なんて書いたときは筆者としての己の力量への嘆きだったのですが、リンク先の方には読解力を非難したように受け取られてしまい、二重にへこみました。

 さて、「ウェブの本質」については論を展開してもいいのですが、結局のところあたしの考えがあなたには受け入れられなかったという単純な話で、そもそもあたしのウェブ論が聞きたいわけではなくあたしが云った「考えろ」ということにこだわっているだけなんでしょうから、そちらの話をいたしましょう。
 あなたはあたしがあたかもすべての物事について考えろと云ったように曲解しておりますが、あたしが云ったのは
1.「すべからく」指摘者は多く、またすぐ下のカウンターは10万単位なんだから先人がいることくらい考えろ。
2.言葉そのものについて興味があるなら言葉についてよく考えろ。
3.なんでみんながみんな「すべからく」なんだ、自分の頭で考えていないのか。
という限定されたことを考えろと云っているわけです。
 それも誰に考えろと云っているのか。あなたはあたしがあたかもすべての読者、あるいはすべての言葉の受容者に対して考えろと云ったように曲解しておりますが、あたしが云ったのは見知らぬ人にいきなり言葉遣いをツッコむ人、それも絶望書店にはいっぱいある人に害をおよぼすような言葉、たとえば五十歩百歩なんて悪口に逆襲しようとするのではなく人畜無害な言葉、それも充分人には通じる言葉、さらにはよりによってうんざりするほど指摘がある「すべからく」にツッコむ人に対してだけです。
 こんな行動を取る方は世界中に百人もいるでしょうか。絶望書店に限れば、10人もいませんが。そんな極めて限られた人に限られたことを考えろと云っているに過ぎません。なお、考えろとは文脈を読めではなく、文字通りひとりで勝手に考えろということです。
 知らない人に「あなたのシャツの色はその上着と合わせるにはファッションルールに反してますよ」なんていきなり云ってくる相手に対しての答えとして、それほどおかしいとは想いません。
 こんなことを云うと服と言葉とは違うと云われるでしょうか。行為自体は変わりません。また、「すべからく」はあたしひとりの好みではありません。

 「すべからく」を「すべて」の意味で使用した場合、現代の大多数の日本人には通じます。反対に「しなければならない」の意味で使用した場合、現代の大多数の日本人には通じません。言葉の問題としてはすでに決着しています。
 すでに広く通じている意味のほうを排して、あまり通じない意味だけに統一しようとするのは何故なんでしょうか。すでに定着している通じやすい言葉をあえて変えようとするのは、あなたが原則として掲げる「言葉は變らない方が通じ易い。」に反するのではないでしょうか。
 いまさらの変更は言葉の受容者にとってかなりの負担が掛かるはずで、現に掛かっているのではないかと想います。
 あなたの言葉に当て嵌めれば「「すべからく」は「すべて」ではなく「しなければならない」の意味で使えといちいち指摘していくと、言葉の受容者は考へないでも良い事を考へなければならなくなる(すべからく指摘者が要求してゐるのはそれだ)。それでは、必要な事、本當に大事な事を考へる餘裕がなくなる。すべからく指摘者は、本當に大事な事から目を逸らさせる爲に、下らない事を頻りに言立てるのだ」ということになるのではないでしょうか。少なくともあたしはあなたのツッコミを受けたときこのように感じ、この文章を見たとき自分の心境にじつにぴったりだと想いました。
 言葉は通じることより大切な何かがあるということでしょうか。規範や伝統でしょうか。しかし、あなたも歴史的仮名遣いを人に強要したりはしないでしょうから、違う力が働いているのではないでしょうか。

 大元の呉智英にとって「すべからく」の誤用を指摘することは政治思想的信念として、論争相手をへこますための武器として、執筆業の芸として意味があるんでしょう。あたしは三つともあまり感心しませんが、読者はついていることだし一定の意味があることは判ります。しかし、その追随者にはどんな意味があるんでしょうか。
 追随者は呉智英の誤用論とともに「すべて」の代わりに「すべからく」を使うのは権威主義という考えもそのまま受け継いでいます。あなたも呉智英氏によればということだけで受け入れています。そういうのも権威主義的な気がしますし、「すべて」の意味で使うより「しなければならない」の意味で使うほうがよっぽど偉そうで権威主義だと想いますが。表現だけでも偉そうなのに、こっちのほうが正解だぞとわざわざ云いながら使う人もおりますし。
  もっとも、呉智英や論争相手の反権威の方たちにとって権威主義というのは悪なんでしょうが、そんな思想を共有していないあたしは問題とは想いません。偉そうな言葉で自分を偉そうに見せるのも言葉の役割のひとつです。やり過ぎれば鼻につきますが思想的に糾弾しようなんて想いませんし、言葉の間違いでもありません。あたしだけでなく世間の大多数の人も呉智英の思想を共有しているわけではなく、言葉というのはその世間のほうにあります。
 結局、呉智英の影響下に「すべからく」を指摘して廻る追随者は言葉ではなく、呉智英の思想を押し売りしているだけなのです。思想といっても右とか左とかではなく、たんに人の考えということです。いきなり呉智英の考え方になれなんて云うと相手にされませんから、言葉という一応「正解」という権威のあるものを使っているだけです。
 すべからく教徒はそんなことは意識していないでしょうし、布教によってなんの見返りもないでしょうが、やはり宗教の布教で喜んでいるだけなのです。
 「すべからく」の誤用を見つけるとすべからく教徒はわらわらと群がってきます。ほかの言葉ではなくひとつの言葉で、ひとりの人間の影響のもとに同じ行動をする者たちが何人もいるのはほんとに気持ち悪い。あなたはこんな現象を異常だと想いませんか?
 呉智英が「すべからく」の誤用を指摘し続けていることは言葉にとっても意味はあるのでしょう。しかし、追随者のすべからく教徒のやってることは言葉にとって意味がないとあたしは想う。言葉を莫迦にした行為であるとさえ考えている。
 あたしは呉智英についてあまり詳しくはないのですが、彼は知らない人のウェブページの言葉遣いを指摘したり、あるいはそれを読者に奨励したりしているのでしょうか。そうでないなら、呉智英から考えを受け継いだ人たちはその嫌らしい行動だけを自分で考えついたのでしょうか。

 あたしは言葉は創り出すものだと想っている。絶望書店にはおかしな言葉がいっぱいあって、それらは人から笑われても仕方ないと想っている。あなたがあたしの無茶苦茶な旧字使用を指摘するなら納得がいく。しかし、何故「すべからく」なのか。ほかの連中も何故「すべからく」だけに群がるのか。
 すべからく教徒は言葉を視ていない。機械的に反応しているだけだ。あなたは言葉に詳しく言葉のことをよく考えているのかも知れない。しかし、絶望書店の「すべからく」を指摘したときだけは、すべからく教徒として機械的に反応したとあたしは想う。言葉のことを考えていたわけではないはずだ。なんなら、ひとつの言葉だけ眼に付いた原理を説明していただきたい。
 あなたは言葉はコミュニケーションのためよりも、まず先に物事の認識のためにあると云っています。すべからく教徒は言葉を通して物事をまともに認識しているようにはあたしには見えない。「すべからく」という言葉を玩具にしているだけだ。
 なお、あたしは「すべからく〜べし」なんて使い方は「べし」があってもなくても生煮えの外来語みたいで嫌な言葉だと想っています。それに引き替え「すべて」の代わりの「すべからく」はこなれた日本語で、音の調子よく、座りがよく、美しい言葉だと想っています。これが理解できないのは言葉が理解できないことだとも想っています。愛用しているあたしのすべからくを、自分の考えではなく機械的な作業で踏みにじるすべからく教徒を憎んでおります。
 あたしは自分の文章がなかなか人に通じないのでいろいろ悩んでいるのですが、この「すべからく」だけはすぐに「すべて」の意味だと通じる。すべからく教徒にも問題なく通じる。そして、通じたから機械的作業の標的となる。まことに耐え難いものがあります。

 すべからく教徒のみなさんがどのような思想を持ちどのような行動を取ろうと自由ではありますが、できますればあたくしの視界に入らない処で機械作業を続けていただければと存じます。
 あたくしはとにかくこの問題にはほとほと嫌気が差しておりまして、まことに一方的ではございますがこれにて打ち切らせていただきます。ここで質したことなどお答えいただけるようでしたら、いま此の場で感謝の意を表明しておきます。
 「惡質な筆者」という言葉を頂戴した返礼はこのくらいで勘弁してやってください。


2002/11/19  しっぽのあと

 どうも反応がおかしいと想ったら、あるグループのみなさんに直接そこを攻撃しているように受け取られていたらしいです。
 あたしがblog騒動について読んだのは俺ニュースなんかにリンクを張られていたところだけで、しっぽ文のターゲットはそちらでした。みなさんのページは観たこともなかったですし、みなさんが仲間内で愉しくやっている日記にとやかく云うつもりは毛頭ございません。肝心のターゲットのほうにはほぼ默殺されてしまいました。
 肝心の相手にはうまくかわされ、純粋なみなさんには攻撃したような印象をあたえたのはあたくしの不徳のいたすところ。
 絶望書店のしっぽ文とその反応にちぐはぐな感じを受けた方もいるみたいですが、こういう要因もあったようです。面目ない。

 あくまでも本来のターゲットのほうですが、お莫迦なblogグループがこんなに叩かれるのはなにか利権でもあるのではないかとか云ってたのは、あたしにもちょっとだけ判るような気がします。あたしには両方とも胡散臭く見える。「鏡」とはそういう意味もあります。妙な一体感は気持ち悪い。利権と云っても古参には甘いとかそんなレベルの話ですが。
 莫迦だけど始めたばかりの連中があれだけ叩かれ、「忸怩たる思い」とやらを抱えたまま何をするでなく何年もただ日記を綴ってきた方の日本ウェブログ学会とやらがすんなり受け入れられるのはなんでなのかあたしにはよく判りません。前者はただ無知で莫迦なだけですが、何年もやってきておいて「あえて異見を述べる人が多くなってこそ,webログは黎明期を迎えるのだ」なんていまごろ他人事みたいに云ってるほうがよっぽど根本的な問題があると想うのですが。
 ウェブとはこういうのを赦す大人の関係を構築するためにあったのでしょうか。かわしかたのうまいほうが生き残るのならウェブなんて必要ないのではないでしょうか。学会なんてのはどうでもいいんですが。

 「しっぽを廻せ!」というのはガンバの「しっぽを立てろ!」と似たような言葉だという方が多いのですが、まったく違います。
 「しっぽを立てろ!」とは気合いを入れる言葉ですが、シッポを廻すとはもっと具体的な行動や作業、それも高い処から脚をすべらせて落っこちて、ぎりぎりのところで闇雲にやるべきことです。
 『レンズはさぐる』の実験では10匹のネズミのうちシッポを廻したのは2匹だったか3匹だったかだけだったそうで、シッポを廻すのはネズミに備わっている本能と云うより、生死の境でじたばたと足掻いてみたら偶然うまくいったという類の行動なんでしょう。
 「しっぽを廻せ!」というのはぎりぎりのところでとにかく足掻けということでして、「しっぽを立てろ!」のように威勢がよくてカッコいい言葉ではございません。
 高い処から脚をすべらせて落っこちたりしない方はあがく必要もありませんし、シッポを廻す必要もありません。かわしかたがうまい方々ではなく、いろいろ失敗して足掻いてみる方が築くのがウェブの本来の姿というものです。
 あたしの駄文も少しは通じた方はいたみたいで、一応の満足は得ました。あたくしも他人様のことを気にしている場合ではございませんので、いろいろい足掻いてみます。

 ところでいまだに名称や形式の定義や分類にこだわっている方がいることだけは不思議でしょうがないんです。そもそもこの話は、そんなの昔からあってみんな同じだろってところからはじまって、その点だけは全員の合意が得られたはずなんですが。
 なんなら全部「しっぽ」とでも呼んだほうがいいような気もしますが、また怒る人もいそうだな。そんな定義よりも足掻きましょう。


2002/11/17  しっぽは廻るか?

 しっぽを廻せ!の「船に渡された綱」「脚を滑らして落っこちる」「着地」なんてのは隱喩としていくらなんでも無理があって、書いてるときも通じないだろうなと想っておりました(ジュニア・チャンピオン・コースにこういうネズミのシッポについての記述があるのは事実ですのでその点は誤解なきよう)。肉付けしていく文章を何本かゆっくりと書くつもりだったのですが、すぐにあんな騒動がはじまって生煮えのまま出すことにいたしました。ネタをいくつか損したな。まあ、そんな具合でこっちが通じないのはしょうがない。
 しかし、それでしっぽを廻してるつもりか?!の「これだけよく映る鏡を見せつけられても己の醜い姿に気づかんおまえら」の「鏡」が通じないとは想っておりませんでした。
 この文章についての反応は「なんであんな莫迦な連中が俺たちの姿を映す鏡なんだ!」99.8%、「たしかにそうかも。ちょっといちから考えなおしてみようかしら」0.2%と予測していたのですが、どっちもないとはまったく通じていないということか。酔っぱらいお兄ちゃまの日々というのを読むとほんとに通じてない。あれっ、訂正が入ったか。でも通じてない。「読むにあたいするのは絶望書店と2ちゃんのごく一部だけ」と明記しているんですからその点くらいは読み取ってほしいものですが。
 blogのお莫迦な仲間たちがウェブ日記をやってる方たちの鏡像と考えるかどうかはさておいて、あくまでもこのあたくしの文章についてみなさまのご意見いただけないでしょうか。「鏡」の意味が通じたでしょうか。通じていなかったとすればどう書けばよかったのでしょうか。今後の参考にさせていただきます。

 さて、今回のしっぽ文に触れた方々の日記を見てまいりましょう。
 ひさしぶりに「すべからく」にツッコミが入りました。闇黒日記(11月15日)。絶望書店が開店してからそろそろ5年になりますから「すべからく」の間違いを指摘する方はこれまでも何人もおられます。まず、その点に想い至らないのはまともに思考していない證左です。そういえば最近はこういう指摘もなくなりましたけど、自分みたいなのが先に何人もいるんだろうなと気づくんでしょう。すぐ下に10万単位のカウンターもございますし。
 「すべからく」を「すべて」の意味で使うのは間違いと考える方は言葉に疎いということを自覚いたしましょう。そもそも言葉とは何かをよく考えてみることです。時代とともに変わるものとかそういった話ではなく言葉の本質です。
 語源は時代の変化、あるいは情報伝達の歴史的地理的系譜を探るには重要な要素ですが、現代の言葉を語るために使うにはいろいろ注意も必要です。そもそも、語源なんて云い出せば現代の言葉の半分は間違いで半分は詳細不明になるはずです。ただ、それだから間違えて使ってもいいと云っているのではありません。もっと本質的な問題です。
 言葉とは何なのか考えて考えて考え抜いてみましょう。呉智英みたいなのを持ち出して思考停止するのは感心しません。呑み屋での蘊蓄ならそれでいいですが、本気で言葉そのものについて興味があるのなら自分の頭でとことん追求してみましょう。しっぽを廻すとはそういうことです。
 絶望書店にはもっと明確に間違えた言葉がいっぱいあるのに、こういう指摘をする方が全員「すべからく」を持ち出すのは、やはり知性に問題があるとしか想えません。自分の頭で考えていないということです。

 じつは開店以来はじめて「すべからく」以外の言葉にツッコミが入りました。紀長日誌。こっちのほうが見所はあるな。しかし、五十歩百歩ってあなた、語源的にもそれはちょっと違うよ。『孟子』を読みましょう。あれっ、こっちも文章が書き足されて少し弱気になってるな。でも、それもちょっと違うよ。原典を読みましょう。もちろん、あたくしは孟子が勝手に誤用した意味ではなく、本来の意味で使ってます。だって50歩と100歩ですよ。算数できますか?孟子には算数ができなかったんでしょう。
 それで孟子も50歩のほうが駄目って云っていると想うんですけどね。あの話は相手を嘲笑うという処がポイントで、嗤った50歩のほうを諫めているんでしょ?うーん、まさしく今回の話そのまんまの図式だ。そういう意味ではあたしも気づいてなかったな。みなさんも『孟子』を読んで今回の騒動の教訓といたしましょう。鏡よりこっちのほうがよかったか。
 このポイントを欠いた記述をそのまま受け取って笑っている方だめだめ日記がいらっしゃいます。こういう情報の廻り方が「ウェブ日記文化」というものなんでしょう。いや、つまらない正解がぐるぐる廻ってるだけの現状よりはこっちのほうが文化としてふさわしいと想いますよ。いや、これほんと。孟子だって誤用してるから偉いんです。

 上記以外に今回のしっぽ文に触れた方々のリンクを張っておきます。読み比べてみればなかなかおもしろいかと。リンク元の表示ってのはそれなりに意味があるな。これはあたしの認識不足でありました。

赤尾晃一の知的排泄物処理場
ひとりごちる
ぷろじぇくと、みすじら。
山形浩生勝手に広報部:部 室
The title of my diary is undetermined.  11/18追加
mesh watch!! ←シャリア・ブルという形容はあまりにも哀しく、そして切ない。無名の戦士に黙祷。 11/18追加
WikiLikeDev  11/18追加
千熊屋ウラ blog  11/18追加

 ひとつ気になる日記があったんですが見失ってしまいました。しっぽ文の反響を見護っていた方なんですが。ほかにも漏れているものがあれば教えてください。コメントのないものは外してます。
 blogを嗤ってる方々のいくつかがblogmapというのに捕捉されていることに気づきました。あなたがたのやってるのはblogらしいですよ。少なくとも絶望書店日記よりはみんな高機能ではあるな。あたしはアップルスクリプトでしこしこ書いた自分用のツールに愛着があって、機能を足す能力も気力もなくてこのままいきそうですが。むしろ機能のない取り残されたグループに新しい名称を付けるほうが早そうだ。
 今回の反応で一番感心したのが2ちゃんのblogスレのこれです。

    290 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー! :02/11/14 14:57 ID:UwGlgQVs

一言でまとめると
絶望書店>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>blog>>>>>>>>>>Web日記
ということが言いたいらしい。
評価の基準は主観のようです。


 なんと的確な要約か。だらだらやらないでこう書けばよかったのか。しかし、正確を期すると

絶望書店>>>|越えられない壁|>>>2ちゃんの極めてごく一部>絶望書店日記>>>>>blogスレ>blog>Web日記

となります。blogはなんも始まってないんだから可能性がないわけでもないこともないかもということです。もちろんあのグループ以外のこれからの人たちのことですよ。ウェブ日記はすべてカスということがすでに確定いたしました。絶望書店日記は絶望書店主人がわざわざ書くほどの内容でもないような気がしています。あたしの云う一瞬の2ちゃんの輝きというのがお判りいただけないみたいなので、比較のために上記のblogスレを入れてみました。評価の基準は世界の果てからの使者が齎した啓示です。
 なんか釣りをするためにわざと無茶なことを云ってるというような反応もあるのですが、あの文章は虚心坦懷に想うままに綴ったもので、さらなるツッコミをいただけると幸いです。できれば言葉遣いのこと以外で。
 半端な知識で詰まらない言葉のほうにツッコミを入れるだけでまともな反論はひとつもなく、大学の先生は早々に白旗掲げるって、まったくお莫迦blogグループと同じではないか!やっぱり鏡なのか!?とくにあたしが気に入らんのが赤尾晃一の反応で、おまえらが嗤った武邑光裕以下だぞ!そこに気づかんだけでもほんとに恥ずかしい連中だ!莫迦者どもが!!!!!!

 まだら牛にはお答えしたい。あたしはあなたと同じことを云っているのです。いまはまだウェブ上に無いものが多すぎる。呑気に同んなじようなくだらないクズ文を綴っている場合ではない。たとえばまともな少年犯罪データは絶望書店のこれしかない。あなたが当店をよくご存じならあたしが何度もデータ作成を呼びかけているのは識っているはずです。あなたがやってみればいかがですか。こんなのは能なしでもできる。ネズミのシッポの観測も港で何週間か野宿すれば誰でもできる。いまは手分けして基礎的な情報を積み重ねていくべき時期です。青薔薇ほどおもしろい文章なら内容などいらないのでそれでもいいですが。あなたは何をやってますか?口を開けて待ってるだけですか?

 今回はあちこちのリンクからざっと2000人ほどの方々がやってこられましたが、そのうち青い薔薇の刻印のページまで辿り着いた方は5人だけでした。1%はいると予測しておりましたが、まあこんなものか。こういう方々が情報をあつかおうというのですから、期待するほうがどうかしています。絶望書店を初めて識った方も多いみたいで、能力のある人だけに視えるインターネットというのはやっぱりあるわけです。
 しかし、悲観はしておりません。しっぽを廻そうとしている方はこんな騒動など眼中になく、青薔薇などすでに何度も観ているでしょうから。青薔薇を越えた文章を毎日読みたいし書きたいものですなあ、御同輩よ。
 みたび命令を伝える。しっぽを廻せ!以上である。

11/18附記 冬眠日記。に一言。たとえば五十歩百歩の原典を載せてるページにリンクを張るだけでも、ただ同んなじ情報がぐるぐる廻る情けなさから簡単に解脱できるのになにゆえそこに気づかないか。編集という概念をつねに胸に抱いてはいないのか。
 リンク集など情報の遣い廻しをする方は贔屓本の世界にある<摺物>の貼込帖についてお勉強して、江戸時代のご先祖様を越えるように精進いたしましょう。


2002/11/14  それでしっぽを廻してるつもりか?!

 最近はウェブログのことをblogとか呼ぶそうで、blog騒動なんてのが起きてるそうです。
 なんか東大だとかインチキくさい青年実業家なんかがこれからはblogだとか云ってはしゃいでるのを見て、日本には昔から立派なウェブ日記文化というものがあるのを識らんのか!とか怒っている方々が大勢いるとかいう話です。
 この怒ってる方たちはほんとに日本にウェブ日記文化なんて結構なものがあるなんて信じているのでしょうか。あたくしはこっちのほうの権威主義的な勘違いぶりに呆れ返りました。この方々たちが嗤っている莫迦なblog学生さんより自分たちのほうが知識があって立派な文章を書いているつもりなんでしょうか。インチキ実業家より上等なつもりなんでしょうか。ウェブに対して何か貢献しているつもりなんでしょうか。そっちのほうがよっぽどお笑いです。
 しっぽを廻せ!は数日後にこんな騒動が起きるなんて想ってなくて綴ったものですが、まさしくいまの個人サイトなんか何の機能もしてないぞということを述べたものです。ウェブ日記を構築するためのツール類はともかくとして、それによって生み出されてるサイトで敬意を払わなくてはならないほどの立派なものがひとつでもあると云うのでしょうか。
 今回の騒動についての文章を見て廻りましたが、みんな不気味なくらいに同んなじな上に、なんの内容もない。まさしく日本のウェブ日記の無殘さを顕しております。こんなカスみたいな文章を毎日毎日他人樣の前に晒して、おまえらは恥ずかしくないのか?!なにが日記文化だ!笑わせるな!!!!!!!
 せめて誰かがサボってる、国際個人通信社、贔屓本の世界なんてことが当たり前になって、ネズミの廻るシッポについての実験観測データを載せたサイトがひとつでもあって、そこに簡単に辿り着けるようにして、さらには絶望書店を越えるくらいのサイトを構築してから一人前の口をきけ!!!!!!!
 いまあるウェブ日記文化なんてのはすべて無かったことにして葬り去られるべき恥ずべき負の存在に過ぎぬ!ネズミのシッポが廻る情報さえひとつもなく、蟲酸が走るような低レベルで同んなじ内容の下卑た情報ばかりが廻ってる状態になんの意味があるというのか!?おまえらはあほか!!!!!!!!!!!!これだけよく映る鏡を見せつけられても己の醜い姿に気づかんおまえらは、鏡の向こうでblogとか云って浮かれてる連中以下だ!!!!!!!!!!!!50歩100歩でも、おまえらのほうが50歩なのだ!!!!!!!!!!!!

 何故か絶望書店日記があめぞうヘッドラインに勝手に入れられたときに、あたしは初めて有名どころの日記系テキスト系サイトをまとめて見た。それまでどうせ詰まらないんだろうと行ったことがなかったのだが、読んでみると想像を絶するレベルの低さで正直唖然とした。なんでこんなものを読んでいる奴がいるのかまったく理解できぬ。
 ヘッドラインから外されたときはほんとにほっとした。いや、リンクを張られてるとついつい読んじゃうのよ。まさに拷問。今回のくだらない目糞鼻糞騒動もそんなことで識って無駄に瞋恚に駆られてるし。祭がはじまると関係ないはずのリンク先まで人があふれてやってきて、なんだろと想って覗いちゃうのよ。こういうのもblogとかなんとかの一環なのであろうか。
 あたしにはちゆだのなんだのの面白さが1ミリも判らない。もっとも、この10年ほどの本や雑誌はすべてクズだと想っているので、最近の本なんかを喜んで読んでる諸氏にはあんな程度でもよいのだろう。
 そんなあたしでも2ちゃんはたまに面白いと感じることがあるので、情けないことに2ちゃんはレベルが高いと云わざるを得ん。今回の騒動に関するものでも上に掲げた2ちゃんのスレが一番ましだしな。それでいいのか日記文化とか云ってる連中は。
 読むべき本も雑誌もサイトもないと嘆いているのはあたしだけではないことは、当店に寄せられる反応を読んでいても感じている。少数派かも知れんが確実にいる。なんとかせんと、とりあえず読者としてのあたしが困る。
 やっぱり、読むにあたいするサイトはいまのところ絶望書店だけだな。日々の時系列的展開の面白さとともに情報の蓄積の仕組みがあって、ありきたりで低レベルなほかのサイトの情報ではなく、よそではなかなか見ない高レベルの本から引き出すだけではなく新たな価値を吹き込む対話で成り立っていて、金を出せばその本も手に入る。もっとも重要なる編集の概念をしっかりと抱き見事に実戦しておる。
 こんな先端的で素晴らしいサイトを構築している絶望書店主人でさえ、開店2年目に咲かせた青い薔薇の刻印を越えていないのではないかと日々悩みながらなんとかもっと威勢良くシッポを廻そうと足掻いているというに。世の中は脳天気でおつむのからっぽな連中ばかりか。

 ところでそんなあたしが唯一楽しみにしているサイトがWAOS SYSTEMSで、日々変わる表紙絵にはまっている。どんな人がやってるのかまったく識らんのだけど、まんがにするのを断念したキャラの断片や、とりちゃんなんかの最初から一貫したストーリーを構築することを放棄しているような絵が日替わりで提示され、絵の背後の意味でもなく、たんなるイラストでもなく、何かよく判らん力で惹きつけ、まんが化しようと頑張ってるだの挫折しただの云いながらも作者の姿が透けて視えるようで視えないじつに微妙なバランスの上に成り立っている。
 ほかにも毎日絵を掲げる絵日記みたいなサイトはいくつもあるが、わざわざ観るほどのものはひとつもない。巻物でも本でもなく自分語りでもないこういう形式が、あたしにはうまく分析できんのだがなんだか日々観る日記というか時間軸サイトのひとつのモデルであると考えている。
 もっとも、あたしのツボに入る絵柄だということが一番の理由なのだが。これだけウェブ上には絵があふれていて、感心する絵がほかにひとつもない。結局は内容の質ではあるのだが、それでもストーリーのあるまんがなら定期的には観ないような気がする。
 ここも文章はわざわざ読むほどのことはないな。読むべき文章は2ちゃんねるしかないということか。2ちゃんも膨大なスレのごく一部があるとき一瞬儚く輝くだけのことで、探すのも大変だしほとんどはゴミ以下で精神衛生にもよろしくないし。
 やっぱり、なんとかせんといかん。しかし、いま現在ウェブ日記なんかをやってる連中が己の姿を恥じていくら改心しようとも、まともなものが出てくるとはとても想えん。こいつらには廻すべきシッポが最初からない。能なしが何をやっても駄目だ。
 これからの人々に期待するよりほかはない。そういう意味ではblogでもなんでもインチキくさくぶちあげるのも結構なことではある。
 もう一度命令を伝える。しっぽを廻せ!



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