2002/11/19 しっぽのあと
どうも反応がおかしいと想ったら、あるグループのみなさんに直接そこを攻撃しているように受け取られていたらしいです。
あたしがblog騒動について読んだのは俺ニュースなんかにリンクを張られていたところだけで、しっぽ文のターゲットはそちらでした。みなさんのページは観たこともなかったですし、みなさんが仲間内で愉しくやっている日記にとやかく云うつもりは毛頭ございません。肝心のターゲットのほうにはほぼ默殺されてしまいました。
肝心の相手にはうまくかわされ、純粋なみなさんには攻撃したような印象をあたえたのはあたくしの不徳のいたすところ。
絶望書店のしっぽ文とその反応にちぐはぐな感じを受けた方もいるみたいですが、こういう要因もあったようです。面目ない。
あくまでも本来のターゲットのほうですが、お莫迦なblogグループがこんなに叩かれるのはなにか利権でもあるのではないかとか云ってたのは、あたしにもちょっとだけ判るような気がします。あたしには両方とも胡散臭く見える。「鏡」とはそういう意味もあります。妙な一体感は気持ち悪い。利権と云っても古参には甘いとかそんなレベルの話ですが。
莫迦だけど始めたばかりの連中があれだけ叩かれ、「忸怩たる思い」とやらを抱えたまま何をするでなく何年もただ日記を綴ってきた方の日本ウェブログ学会とやらがすんなり受け入れられるのはなんでなのかあたしにはよく判りません。前者はただ無知で莫迦なだけですが、何年もやってきておいて「あえて異見を述べる人が多くなってこそ,webログは黎明期を迎えるのだ」なんていまごろ他人事みたいに云ってるほうがよっぽど根本的な問題があると想うのですが。
ウェブとはこういうのを赦す大人の関係を構築するためにあったのでしょうか。かわしかたのうまいほうが生き残るのならウェブなんて必要ないのではないでしょうか。学会なんてのはどうでもいいんですが。
「しっぽを廻せ!」というのはガンバの「しっぽを立てろ!」と似たような言葉だという方が多いのですが、まったく違います。
「しっぽを立てろ!」とは気合いを入れる言葉ですが、シッポを廻すとはもっと具体的な行動や作業、それも高い処から脚をすべらせて落っこちて、ぎりぎりのところで闇雲にやるべきことです。
『レンズはさぐる』の実験では10匹のネズミのうちシッポを廻したのは2匹だったか3匹だったかだけだったそうで、シッポを廻すのはネズミに備わっている本能と云うより、生死の境でじたばたと足掻いてみたら偶然うまくいったという類の行動なんでしょう。
「しっぽを廻せ!」というのはぎりぎりのところでとにかく足掻けということでして、「しっぽを立てろ!」のように威勢がよくてカッコいい言葉ではございません。
高い処から脚をすべらせて落っこちたりしない方はあがく必要もありませんし、シッポを廻す必要もありません。かわしかたがうまい方々ではなく、いろいろ失敗して足掻いてみる方が築くのがウェブの本来の姿というものです。
あたしの駄文も少しは通じた方はいたみたいで、一応の満足は得ました。あたくしも他人様のことを気にしている場合ではございませんので、いろいろい足掻いてみます。
ところでいまだに名称や形式の定義や分類にこだわっている方がいることだけは不思議でしょうがないんです。そもそもこの話は、そんなの昔からあってみんな同じだろってところからはじまって、その点だけは全員の合意が得られたはずなんですが。
なんなら全部「しっぽ」とでも呼んだほうがいいような気もしますが、また怒る人もいそうだな。そんな定義よりも足掻きましょう。
絶望書店日記 

