絶望書店日記

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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2002/11/21  惡質な筆者

 また、すべからくの話があちこちから出てきて、あたしはもう辟易しているのでばっくれようかと想ったのですが、発端である闇黒日記(11/19)の「そして、絶望書店氏は、この惡質な筆者である。」という一文が眸を惹いた。惡質な筆者・・・・あたしはこれほど甘美なる称号を戴いたことはない。想えば絶望書店開店以来の5年間は絶望書店および絶望書店主人に対する形容を探し求め続けた日々であったと云っても過言ではないが、残念ながらあたしにはこれほど素晴らしい言葉が見出せなかった。
 ああっ、この言葉が絶望書店主人ひとりだけに齎らされた言葉であるのなら!あなたはこの言葉を初めて遣ったのでありましょうか。もし、そうであるならまことに我が儘なるお願いではございますが、絶望書店主人だけの形容としてお使いいただけませんでしょうか。むろん、こんな勝手なるお願いにあなたが応える義理はなにもございませんが、切にお願いいたします。
 もっとも、名前負けしているような気はするけど。あたしは誤読した読者を笑ったりはいたしません。「鏡が通じない」「読み取ってほしいものですが」なんて書いたときは筆者としての己の力量への嘆きだったのですが、リンク先の方には読解力を非難したように受け取られてしまい、二重にへこみました。

 さて、「ウェブの本質」については論を展開してもいいのですが、結局のところあたしの考えがあなたには受け入れられなかったという単純な話で、そもそもあたしのウェブ論が聞きたいわけではなくあたしが云った「考えろ」ということにこだわっているだけなんでしょうから、そちらの話をいたしましょう。
 あなたはあたしがあたかもすべての物事について考えろと云ったように曲解しておりますが、あたしが云ったのは
1.「すべからく」指摘者は多く、またすぐ下のカウンターは10万単位なんだから先人がいることくらい考えろ。
2.言葉そのものについて興味があるなら言葉についてよく考えろ。
3.なんでみんながみんな「すべからく」なんだ、自分の頭で考えていないのか。
という限定されたことを考えろと云っているわけです。
 それも誰に考えろと云っているのか。あなたはあたしがあたかもすべての読者、あるいはすべての言葉の受容者に対して考えろと云ったように曲解しておりますが、あたしが云ったのは見知らぬ人にいきなり言葉遣いをツッコむ人、それも絶望書店にはいっぱいある人に害をおよぼすような言葉、たとえば五十歩百歩なんて悪口に逆襲しようとするのではなく人畜無害な言葉、それも充分人には通じる言葉、さらにはよりによってうんざりするほど指摘がある「すべからく」にツッコむ人に対してだけです。
 こんな行動を取る方は世界中に百人もいるでしょうか。絶望書店に限れば、10人もいませんが。そんな極めて限られた人に限られたことを考えろと云っているに過ぎません。なお、考えろとは文脈を読めではなく、文字通りひとりで勝手に考えろということです。
 知らない人に「あなたのシャツの色はその上着と合わせるにはファッションルールに反してますよ」なんていきなり云ってくる相手に対しての答えとして、それほどおかしいとは想いません。
 こんなことを云うと服と言葉とは違うと云われるでしょうか。行為自体は変わりません。また、「すべからく」はあたしひとりの好みではありません。

 「すべからく」を「すべて」の意味で使用した場合、現代の大多数の日本人には通じます。反対に「しなければならない」の意味で使用した場合、現代の大多数の日本人には通じません。言葉の問題としてはすでに決着しています。
 すでに広く通じている意味のほうを排して、あまり通じない意味だけに統一しようとするのは何故なんでしょうか。すでに定着している通じやすい言葉をあえて変えようとするのは、あなたが原則として掲げる「言葉は變らない方が通じ易い。」に反するのではないでしょうか。
 いまさらの変更は言葉の受容者にとってかなりの負担が掛かるはずで、現に掛かっているのではないかと想います。
 あなたの言葉に当て嵌めれば「「すべからく」は「すべて」ではなく「しなければならない」の意味で使えといちいち指摘していくと、言葉の受容者は考へないでも良い事を考へなければならなくなる(すべからく指摘者が要求してゐるのはそれだ)。それでは、必要な事、本當に大事な事を考へる餘裕がなくなる。すべからく指摘者は、本當に大事な事から目を逸らさせる爲に、下らない事を頻りに言立てるのだ」ということになるのではないでしょうか。少なくともあたしはあなたのツッコミを受けたときこのように感じ、この文章を見たとき自分の心境にじつにぴったりだと想いました。
 言葉は通じることより大切な何かがあるということでしょうか。規範や伝統でしょうか。しかし、あなたも歴史的仮名遣いを人に強要したりはしないでしょうから、違う力が働いているのではないでしょうか。

 大元の呉智英にとって「すべからく」の誤用を指摘することは政治思想的信念として、論争相手をへこますための武器として、執筆業の芸として意味があるんでしょう。あたしは三つともあまり感心しませんが、読者はついていることだし一定の意味があることは判ります。しかし、その追随者にはどんな意味があるんでしょうか。
 追随者は呉智英の誤用論とともに「すべて」の代わりに「すべからく」を使うのは権威主義という考えもそのまま受け継いでいます。あなたも呉智英氏によればということだけで受け入れています。そういうのも権威主義的な気がしますし、「すべて」の意味で使うより「しなければならない」の意味で使うほうがよっぽど偉そうで権威主義だと想いますが。表現だけでも偉そうなのに、こっちのほうが正解だぞとわざわざ云いながら使う人もおりますし。
  もっとも、呉智英や論争相手の反権威の方たちにとって権威主義というのは悪なんでしょうが、そんな思想を共有していないあたしは問題とは想いません。偉そうな言葉で自分を偉そうに見せるのも言葉の役割のひとつです。やり過ぎれば鼻につきますが思想的に糾弾しようなんて想いませんし、言葉の間違いでもありません。あたしだけでなく世間の大多数の人も呉智英の思想を共有しているわけではなく、言葉というのはその世間のほうにあります。
 結局、呉智英の影響下に「すべからく」を指摘して廻る追随者は言葉ではなく、呉智英の思想を押し売りしているだけなのです。思想といっても右とか左とかではなく、たんに人の考えということです。いきなり呉智英の考え方になれなんて云うと相手にされませんから、言葉という一応「正解」という権威のあるものを使っているだけです。
 すべからく教徒はそんなことは意識していないでしょうし、布教によってなんの見返りもないでしょうが、やはり宗教の布教で喜んでいるだけなのです。
 「すべからく」の誤用を見つけるとすべからく教徒はわらわらと群がってきます。ほかの言葉ではなくひとつの言葉で、ひとりの人間の影響のもとに同じ行動をする者たちが何人もいるのはほんとに気持ち悪い。あなたはこんな現象を異常だと想いませんか?
 呉智英が「すべからく」の誤用を指摘し続けていることは言葉にとっても意味はあるのでしょう。しかし、追随者のすべからく教徒のやってることは言葉にとって意味がないとあたしは想う。言葉を莫迦にした行為であるとさえ考えている。
 あたしは呉智英についてあまり詳しくはないのですが、彼は知らない人のウェブページの言葉遣いを指摘したり、あるいはそれを読者に奨励したりしているのでしょうか。そうでないなら、呉智英から考えを受け継いだ人たちはその嫌らしい行動だけを自分で考えついたのでしょうか。

 あたしは言葉は創り出すものだと想っている。絶望書店にはおかしな言葉がいっぱいあって、それらは人から笑われても仕方ないと想っている。あなたがあたしの無茶苦茶な旧字使用を指摘するなら納得がいく。しかし、何故「すべからく」なのか。ほかの連中も何故「すべからく」だけに群がるのか。
 すべからく教徒は言葉を視ていない。機械的に反応しているだけだ。あなたは言葉に詳しく言葉のことをよく考えているのかも知れない。しかし、絶望書店の「すべからく」を指摘したときだけは、すべからく教徒として機械的に反応したとあたしは想う。言葉のことを考えていたわけではないはずだ。なんなら、ひとつの言葉だけ眼に付いた原理を説明していただきたい。
 あなたは言葉はコミュニケーションのためよりも、まず先に物事の認識のためにあると云っています。すべからく教徒は言葉を通して物事をまともに認識しているようにはあたしには見えない。「すべからく」という言葉を玩具にしているだけだ。
 なお、あたしは「すべからく〜べし」なんて使い方は「べし」があってもなくても生煮えの外来語みたいで嫌な言葉だと想っています。それに引き替え「すべて」の代わりの「すべからく」はこなれた日本語で、音の調子よく、座りがよく、美しい言葉だと想っています。これが理解できないのは言葉が理解できないことだとも想っています。愛用しているあたしのすべからくを、自分の考えではなく機械的な作業で踏みにじるすべからく教徒を憎んでおります。
 あたしは自分の文章がなかなか人に通じないのでいろいろ悩んでいるのですが、この「すべからく」だけはすぐに「すべて」の意味だと通じる。すべからく教徒にも問題なく通じる。そして、通じたから機械的作業の標的となる。まことに耐え難いものがあります。

 すべからく教徒のみなさんがどのような思想を持ちどのような行動を取ろうと自由ではありますが、できますればあたくしの視界に入らない処で機械作業を続けていただければと存じます。
 あたくしはとにかくこの問題にはほとほと嫌気が差しておりまして、まことに一方的ではございますがこれにて打ち切らせていただきます。ここで質したことなどお答えいただけるようでしたら、いま此の場で感謝の意を表明しておきます。
 「惡質な筆者」という言葉を頂戴した返礼はこのくらいで勘弁してやってください。