先月は三島由紀夫の『椿説弓張月』も楽日に観た。歌舞伎座に行くのはひさしぶりで、これも三島の『鰯売恋曳網』以来だったか。
『椿説弓張月』は15年前に国立劇場の2回目の上演を観ている。三島自身が演出した初演とほとんど同じだったようだが、妙に間延びする場面が多かったので短くすればいい歌舞伎になるんではないかと想っていた。今回の3回目の上演は時間の都合もあって大幅にカットされ、じつにテンポがよくなっていて、脚本的にはよくできてる。しかし、前回のほうが圧倒的におもしろかった。
カットすればいいと考えていたぐらいだから三島の『椿説弓張月』は脚本の構成的にも失敗作だと想っていたのだが、今回の舞台を観てあれはじつは立派な成功だったのだと初めて気がついた。うーん、三島の戯曲の構成力を侮っていたか。
ケレンとスペクタクルが呼び物の芝居なのだが、そのなかでも最大の見処であろう何十メートルの巨大怪魚は時間と舞台の狭さの関係もあって、今回は出たーっ!というユニバーサルスタジオ的なおどかしだけになっていた。15年前も登場はもちろん同じく驚くのだが、そのあとそうとうしつこく広い舞台上をぐるぐる泳ぎ廻っていて、いつまでもこんなものを観ていていいのだろうかという不安感に苛まれる悪夢的な時間の裂け目を創り出していた。
降りしきる雪のなかお姫様の弾く琴に合わせて腰元たちが裸の男に釘を一本づつ打ち込んで血を流す<琴責め>も、15年前はもっとじっくりねっとりと責めていて残虐や変態趣味を突き抜けてただただ呆れ果ててしまう時空の歪みを生み出していた。
こういうケレンの時間の引き延ばしによる妙な効果は当時も判っていたのだが、ケレンとケレンを繋ぐお話の部分がどうにも冗長でもっと短くすべきだと想っていたわけだ。しかし、ここがこの芝居の肝だったのだな。
話は保元の乱に敗れた源為朝が流された大島からはじまっていて、再度平家と対決するため都に還ろうとするのだが、何度試みても失敗して辿り着けないという、闘いに敗れるのではなくその闘いの場に立つことさえ適わぬ悲劇の英雄の挫折を描きたいと三島は云っている。保元の乱も為朝が夜襲を進言したのに入れられず、ほとんどまともな戦闘もしないまま敗れて、しかも味方はみんな殺されたのに自分だけは死罪を免れて流されたわけで、つねに運命に見放され決戦の機を逸してしまう。
あのとんでもないスペクタクルとスペクタクルを結ぶせっかくのスペクタクルを嘲笑うかのような空虚に退屈な時間は、この為朝の到達不可能性をじつによく顕していたわけだ。スペクタクルはその谷を、裂け目をより深くするためだけに屹立させていたわけか。
そして、さらに三島自身の歌舞伎への挫折が加わる。これはかなり深刻な絶望だったようで、この芝居の失敗が一年後の自決に直結していると真剣に云っている人もあるくらいのもんだ。
今回の上演の感想なんかをウェブ上で観て廻ると、この三島の挫折を己の台本や演出構想に対するものだと勘違いしている方が多いようだが、じつのところは歌舞伎役者たちが歌舞伎を識らず、そのために己の考えるほんとうの歌舞伎にならなかったというのが真相だったりする。
己の台本や演出構想には疑問を抱いていなかった証拠に、なんと!三島自身がセリフを語るこの芝居のレコードを販売しているのですぞ!小説家が鶴澤燕三の三味線をバックに歌舞伎をやるだけでもそうとう無茶な話だが、これはたんなる素人の道楽である「寝床」ではなくて、プロの歌舞伎役者にほんとうの歌舞伎を教えてやるためなんだからもうイカレてるとしか云いようがない。
CDになってるので物好きは聴いてみるといいが、これがまた今回の上演なんかよりも遥かによかったりするからよけいにカルト的と云おうか。出たがりの三島自身が出てくる作品のなかでは一番出来がいいと云ってもよいかも知れん。
歌舞伎役者が歌舞伎を識らないとはどういうことかと云うと、歌舞伎素人講釈にあるように、三島は天明時代のほんものの歌舞伎をやろうとしているのに役者は幕末の黙阿弥のテクニックでやってるということ。実際には黙阿弥ですらなく、江戸時代とはまったく違う、つまり歌舞伎じゃないなにものかなんだが。
さらにやっかいなことに、初演にも参加した猿之助が「三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当に御存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ」なんてかすかな微笑を浮かべつつ語ったと云われているように(蜷川幸雄「道化と王」、ユリイカ1986年5月号)、役者のほうはまったく自覚がなく反対にこんな三島を嗤っていたということだ。
一応云っておくと、たんに三島が偏屈で素人で想い込みが激しかったということではなく、郡司正勝
のようなもっとも江戸時代のほんものの歌舞伎を識っていたであろう人も三島の考えを共有していたんだが。
すでに死んでいる崇徳院に対する「故忠への回帰」を目指す為朝と同じく三島はすでに失われた伝統に対する「故忠への回帰」を目指したわけだが、伝統の継承者で数少ない同志であるべき歌舞伎役者に嘲笑われてしまった。為朝は自決せんとしたとき顕れし崇徳院の亡霊に天盃を賜り行くべき道を指し示されるのに、三島は云わば伝統の亡霊たちに嘲り嗤われ道を塞がれたわけだ。その絶望たるやいかばかりか。
今回は猿之助演出ということでどうなるんだろと想っていたら、スペクタクルのケレンだけを残して谷間の部分は極力切り詰めて、いつもの猿之助歌舞伎に比べても遥かに全編ユニバーサルスタジオ的になっていた。とくに特徴的だったのは猿之助自身が演じた為朝がまったく明るく何度挫折しても困難に立ち向かう希望を失わない人物となっていたことだ。故忠の対象である崇徳院はすでに死んでいて、たとえ平家を倒したとしても成功はあらかじめ失われているはずなんだが、おかまいなしに脳天気なまでに希望を抱き続けている。
三島は先代猿之助の心理描写を反歌舞伎的なものとして批判していて、いまの猿之助は先代ゆずりの登場人物の心情を繙く心理描写こそ歌舞伎の本質であると考えていて、いろんな意味で捻れた舞台ではあった。
前回の幸四郎はこの役者の資質もあるし初演で先代幸四郎がやったのと同じ役を務めるという神妙さもあって、暗く陰鬱な為朝だった。同じく心理描写にこだわるふたりの役者の対称的な違いは、心理描写の力量の差もあるが猿之助が三島を莫迦にしているということが大きいのだろう。むしろ、初演の初稽古に自分でセリフを吹き込んだテープを持ち込んでこの通りにやってくれと云った三島に歌舞伎が莫迦にされたと感じ、己の信じる歌舞伎のために三十三年目にして復讐を遂げたと云ったほうが正解か。つねに上機嫌だったあの為朝は、信じるものへの忠をいままさしく果たしつつある歓びに満たされていたのだろうか。
幸いと云うべきか、猿之助は己の歌舞伎を見せつけることで復讐するのではなく、ただ三島歌舞伎の破壊だけに徹していた。これはある意味ネガとして、三島の目指していたものを尖鋭的に炙り出したと云えるのかも知れぬ。
谷間の部分がないだけではなく、スペクタクルと為朝の挫折が唯一交叉する真っ二つに折れて沈む船が出てこなかったのは舞台機構の都合なんだろうが、今回の上演には象徴的ではあった。あの船も莫迦みたいに巨大でゆっくり沈んでいったため、スペクタクルというより妙に紗幕が一枚挟まったような悪夢にうんうん魘される感じでなかなかよかったのだが。
三島演出の失敗作と猿之助演出の歌舞伎でないものというあまりに懸け離れた両極を観て、あたしはその央に三島が夢見たであろうほんものの歌舞伎としての『椿説弓張月』をはっきりと視た。
この芝居は自害した白縫姫の魂が寧王女に憑依して甦るという転生の物語でもあるのだが、すぐに憑り移るのではなくいったん巨大な黒アゲハと化して飛来しながらむしろこの姿のまま一番活躍する。あたしはふたつの舞台の間に黒蝶が舞うのをたしかに視た!それはふたつの舞台を結ぶのではなく垂直に飛来し、どこに留まることもなく蒼穹の彼方へと消えていった。実体を持たぬまま到達不可能性だけを伝えて、転生の蝶はたしかに舞った!受け留めるべき肉体がない現代ではどこにも着地しないまま飛翔させるために、どうしてもふたつの失敗作の反発し合う磁場が必要だったのだ!横尾忠則にポスターを発注する際、もっともこだわったという影の如くの黒い蝶は、初演より三十三年目にして初めて舞った!
三島の歌舞伎に対する想いは、上記の歌舞伎素人講釈の「三島由紀夫の歌舞伎観」がよくまとまってる。補遺ノートを先に読んでから、その共感と嫌悪を読むのがよろしかろう。
三島由紀夫はよく云われるように一に評論、二に戯曲、最後が小説(細かく云うと三に短編、四が長編)だとあたしも想うが、その評論のたとえば『小説家の休暇』『裸体と衣裳』なんてのは三島の歌舞伎に対する複雑な愛憎を判ってないと半分も理解できないようになっている。あるいは自決の意味も判らんと想う。
三島由紀夫について語る者は、上記リンクの内容くらいは実感として判るように江戸を幻視しながら歌舞伎を観るように。
※三島自身が義太夫を語る『椿説弓張月』は「決定版 三島由紀夫全集〈41〉音声(CD) 」で聴けるようになりました。
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さて、国立劇場の『彦山権現誓助剣』ですが、35年ぶりの通しということだったのに時間の都合で最初と最後が切られていて、途中も妙な具合に端折って繋がりが悪く、せっかくの通しの意味があまりありませんでした。また、肝心のお園の中村雀右衛門が足許も危うくセリフも頼りなく、六助の富十郎が素晴らしかっただけにぶち壊しだなと想って帰ってきました。
帰ってから渡辺保の歌舞伎劇評を読むと、この雀右衛門を絶賛しておる。歌右衛門が死んで以来の陶酔感をあたえる舞台とまで云っていて、これはなかなか尋常ではない。たもっちゃんとあたしは観る視点が根本的に違っていて、これまでも感想が一致することはあまりなかったのですが、いくらなんでもこれはなんじゃ?あたしとは違うものを観ていたのだろうか?
まあ、観た日によって出来が違うということはあるから確認のために2ちゃんの伝統芸能板を覗くと、日によって違うということもないらしくこちらも賛否半々か。あの雀右衛門に対して半分も絶賛派がいることも信じがたいが、否定派もどうも歯切れが悪い。なにがなんだか判らず、あたしは???????????という感じでありました。
読み進めているうちにようよう雀右衛門がすでに82歳であることが知れた。そうか!なるほど!!82歳であれほど動き廻っていたのならこれは確かに大したもんだ。あたしが最後に歌右衛門の舞台を観たときは78歳でほとんど座りっぱなしで動かなかったのに涙を流さんばかりに感激したのに、82歳の雀右衛門が殺陣をこなしていたのを賞賛しないというのはどうかとも想う。普通に歩くのもよろよろしてるのに立ち廻りになるとぴしっと決まる雀右衛門の姿は、いまから考えると見事なものだ。だが、しかし・・・・。
今回の舞台はどうもいろいろ、物語にとってキャラとは何かを考えさせられることが多いな。
あたしは60代でもっとも充実していた時期の素晴らしい雀右衛門をずいぶん観ていて、それなりに一家言あるつもりだったのですが、歌舞伎から離れてしばらく観ていないうちにまったくついていけなくなってしまっておりました。歌舞伎を観るうえでの基本的情報が頭にも躯にも染みこんでいない。
そもそも、通しだから「ストーリー」を観に行こうなんていうあたしの魂胆が邪道でありまして、歌舞伎というのは役者を観るためにあるのです。全体の筋を通そうとする文楽と違って歌舞伎が出鱈目だというのは、役者をカッコ良く美しく観せるためにひとつのひとつの場面をどうとでも膨らまして変更していくということでして、話が繋がらなくなろうが破綻しようが、あるいはその登場人物がそんなことするはずないだろと云われようが、人気役者さえたっぷり活躍すればどうでもいいわけです。
そんななか、10年間も雀右衛門を観てないで年齡さえ判ってなかったあたしみたいなのはともかくとして、最近の雀右衛門を観続けている方にも否定派がいるというのはこれがお園であるからです。渋い年増の役なら多少動きが鈍くなっても円熟の芸として誰もが絶賛するでしょうが、お園は派手に戦闘シーンを見せてなんぼの役ですからさすがに疑問に想う方もいる。しかし、なんでわざわざ82歳でこんな役をやるかを考えればそれもどこまで正しいか。
軍隊から帰還して6年ぶりに舞台に復帰した雀右衛門は、それまで立役だったのに26歳にして初めての女形・お園で復帰を飾るという大ばくちに打って出て大成功し、女形としての地位を確立したのでした。その物語を背負って、雀右衛門というとお園ということになっております。兵隊に行ってた人がいま現在おんなじ役をやっていることもまた凄い話で、『彦山権現誓助剣』の本筋よりもそちらの物語のほうが歌舞伎では優先されるわけです。
もうひとり今回の舞台で目立ったキャラが73歳の富十郎が生ませた正真正銘の長男、3歳の大ちゃんでした。お園の甥で、富十郎の六助が引き取って可愛がっている弥三松をやってるのですが、とってもあどけなく愛くるしいので何かひとつやるたびに客席がどっと湧きます。
2ちゃんなんかでは今回の雀右衛門絶賛派もこの大ちゃんは不評ですな。せっかく雀右衛門なり富十郎なりが素晴らしい舞台を務めているのに、大ちゃんに喰われて台無しということです。
結局は役者を観ている通の方も演技なり<芸>なりを視ているということです。<芸>なんてのは役者の一部ではありますが、しょせんは一部にしか過ぎません。あたしみたいにストーリーを観るよりはましですが、邪道という点ではあまり変わりがない。
青木清治という82歳の爺さんが舞台上で四代目中村雀右衛門というキャラになりお園を演じる。歌舞伎というのはその二層目にあたるキャラを観るものなのです。まるっきりお園になりきってしまってもいけないし、その点、動きが鈍くてどう見てもお園は無理だろうという82歳の雀右衛門は判りやすい裂け目を創ってキャラを視せてくれる。お園の物語は一種の劇中劇で、しかし、やっぱりお園の物語でもあって、その辺りの微妙な皮膜の往き来の塩梅は現代のキャラ萌えヲタク作品と通底するものがあります。
同じく3歳の大ちゃんも素のままのキャラを視せてくれる。これが5歳くらいになると子役なりの<芸>をするようになって面白味がなくなります。雀右衛門のお園は間違いなく今回が最後でヘタをすると舞台そのものが最後になる可能性もあるわけですが、大ちゃんだっていまのキャラを観ることができるのは何回も無いということです。富十郎との70歳離れた親子という物語も背負っていて、雀右衛門と同じくらいの視線を大ちゃんにも注がないと歌舞伎を観ているということにはなりません。大ちゃんに湧いていた通でない客はじつに正しいということです。
体力的な問題なんでしょうが雀右衛門のお園は毛谷村の段だけで、ほかの段は魁春がやっておりました。べつにこういう問題がなくとも、詰まらない場では若手にその役をやらしたりすることは珍しくありません。ひとりの人物を違う役者が演じるというのも歌舞伎のキャラを考えるに於いて面白いところでして。同じ役者が演じる場合でも幕によって性格や貌がまったく変わることもありますし。性格の統一なんてくだらないことにこだわる西洋演劇とは根本的に違うものです。
須磨浦の段で、お園の妹のお菊が悪役の京極内匠になぶり殺しになる場面がいやにあっさりしていて物足りなかったのも、またキャラの問題を考えさせます。この場面は歌舞伎の影響を受けて文楽ではこちらの観劇記にあるように美女をいたぶる残虐非道な見せ物としてのみあるのですが、この手の趣向の本家のはずの今回の歌舞伎では話の流れや人物造形なんかを妙に意識して抑え気味になっている。全体の筋なんかとはまったく関係なく、女形の倒錯的な美しさを強調するためだけにある場面のはずが、本末顛倒とはこのことです。
あたしはもともとキャラ中心の見方が苦手なんですが、それ以上に西洋演劇的な妙に合理的な理屈を考えてこういうキャラ萌えに徹しない中途半端なやり方をするのがもっと嫌で、近頃の歌舞伎から離れてしまったわけです。本来はキャラ萌えの歌舞伎と物語重視の文楽とがあって、バランスがとれているものなんですが。
また、文楽のほうも役柄によって人形が決まっていて、手塚治虫みたいなスターシステムを取っていたり、段ごとに人形遣いやセリフを云う大夫が変わったりと、歌舞伎とはまた違った角度で物語にとってキャラとは何かを考えさせられます。
歌舞伎と文楽がきちんとそれぞれの特徴を守っていたであろう江戸時代はもとより、現代でもいい役者が出てくる歌舞伎と文楽とではヲタク文化の両輪としてじつにいいバランスが取れています。近頃のまんがやアニメのほうはここまでバランスが取れているかどうか。キャラ萌えばっかりでも、反対ばっかりでも辛いものです。
近頃の国立劇場は南北の『霊験亀山鉾』のきちんとした復活やら、鴈治郎が七役務める上方演出の『忠臣蔵』やら珍しいものをいろいろやっていて、ひさしぶりに続けて歌舞伎を観ております。今月は35年振りの通しとかいうことで『彦山権現誓助剣』を観る。
主役のお園は力士にも勝る怪力で剣の達人でもあって、男が幾人束になって掛かってきても簡単に薙ぎ倒してしまいます。
ヲタク文化の本道である文楽や歌舞伎にはこの手の男より強い闘う美少女はよく出てきて<女武道>と呼ばれるんですが、なかでもお園はくさり鎌を遣うところがポイント高し。美少女がくさり鎌をびゅんびゅん振り廻す姿に共振してしまう云い知れぬこの胸の高鳴りはいったい何だ?!あなたは銀のくさり鎌で、私の心をクルクル廻す。
白鳥のジュンやスケ番刑事がなにゆえヨーヨーを遣うかなんて考察はあるのでしょうか。鎖には何かしら人を魅惑する力があるのでしょうか。妖しくも不定形で艶めかしくも曲線の軌跡を描くところでしょうか。なにものかとなにものかを強く結びつけるところでしょうか。しかし、ヨーヨーよりもくさり鎌のほうがヒロインの武器としては萌え度が高いな。くさり鎌を遣う美少女キャラなんてほかにいましたかな。
お園はまた、正統派萌えキャラとしてもきちんと造形されているところがほかの<女武道>とは少し違う。
父のかたきを探すために夜鷹になったり男姿になったりして諸国を旅しているのですが、毛谷村の六助を家来を殺した下手人と間違えて斬り掛かる。しかし、その六助が父の定めしまだ貌も見ぬ許婚と知れるや、いきなりしおらしくなって「コレイナア、お前の女房は私ぢゃぞえ。サアサア女房ぢゃ女房ぢゃ」と可愛らしく迫る。六助も宮本武蔵がモデルとかいう立派な剣豪なんですが、まったく識らない女、それもさっきまで斬り掛かってきた女が出し抜けに女房だのなんだの云い出すのでびびってたじたじとなる。そんなことにはお構いなしに、お園はいままでの男姿から一変して姉さんかぶりなんかして勝手に台所に上がり込んで甲斐甲斐しくご飯の支度をはじめる。火吹筒と尺八を間違えて吹いたり、鍋を焦がしたりとドジっ娘ぶりもお約束どおりに披露する。
ヲタク文化の本道である文楽や歌舞伎には萌え萌えの美少女キャラは当然いくらも出てくるのですが、戦闘美少女と萌え萌え美少女をここまで狙って一体にしたキャラはなかなかほかにはないような気がします。いまのヲタク作品でもここまで狙ってるものはあるのか?なんせ、家来のかたきと首を取ろうとしていたのに許嫁と判ると「家来の一人や二人、どうなとしたがよいわいな」とはにかみながら臼をひょいと持ち上げて男をぎょっとさせたり、文楽だと抱いていた幼い甥っ子を下に落っことしたり、あげくに鴨居を持ち上げたりもするんですぞ。
<女武道>は美少女なんて申しましたが、ほんとは年増(と云っても25歳くらい)の美女がほとんどで、母として子を想う気持ちが強さの源泉というのがお園以前の一般的な形象です。お園は生娘で、その処女力が強さの祕密となっているらしいのが画期的。夜鷹をやってるのに何故か生娘。むしろ反対に、生娘が売りのキャラだからこそわざわざ夜鷹コスプレをさせて趣向を凝らせているわけでしょうが。
これは<女武道>の変化というより、お姫様キャラの系譜と考えたほうが合っている。ヲタク文化の本道である文楽や歌舞伎では可愛らしいお姫様もいざとなると剣を抜いて闘うこともあるわけですが、いよいよ追いつめられると『本朝廿四孝』の八重垣姫が霊狐の狐火に導かれて湖水を渡ったりするように神秘の力を発揮したりします。神秘の源は生娘としての処女力と云うか、生娘として好いた男を一途に想い抜く乙女力です。
お園は神秘の力の代わりに戦闘能力がとんでもなくアップしているわけで、つまり魔女っ子から戦闘美少女に進化しているわけです。神秘の力より怪力や戦闘能力を備えているほうが萌え度が上がることに明確に気づいて、お姫様キャラと<女武道>を合体させているわけです。天明6年(1786)の『彦山権現誓助剣』によって、日本のヲタク文化は一段階ステップを上がったと云っていいでしょう。萌えを変えた女・お園。
お園も貌も識らない許嫁を一途に想って二十歳を過ぎるまで生娘を通していることが力の源らしく、「ひねた(古びた)生娘」とか云われてしまったりもしますが、いろいろ折衷的な過渡期だということです。妹のお菊は特に強くもなく病弱だったりするのですが、幼い我が子を守るためにラスボスの京極内匠と互角に戦い、しかし最後は無慘に殺されてしまいます。かなり意識してこういう対比をやって、従来の<女武道>やお姫様からの変化をもたらそうとしているのでしょう。
これ以降は南北が登場することもあって、平気で男を騙したり殺したりしてしかも美しく色っぽいという悪女が出てきます。これまでは悪役の女は見るからにごつい立役(男役)が扮することが普通だったのですが、美貌のトップ女形が悪女をやるようになるわけで、いろいろギャップがあったほうが却って可愛くなって萌え度が上がることに気づくようになったのですな。果ては桜姫のような何とも説明のしがたいへんてこりんでしかも萌え萌えの不思議キャラに行き着くわけです。
折口信夫は<女武道>から変化して<悪婆>(年寄りじゃなくて若い悪女のことをこう云うのです)になったと論じておりますが、間にお園という画期的な段階を経ていて、しかも<女武道>というよりはお姫様や娘役の進化と捉えることがキャラ史を解明する上で重要であるとあたしくは想っています。
『彦山権現誓助剣』は近松半二が死んでから3年後の文楽作品で、もう文楽が崩壊して歌舞伎の影響をそのまま受けたバロック調でパロディくさい趣向狙いだらけの作劇となっております。
あらすじはこちらのページが詳しいので読んでいただきたいのですが、物語の背景もじつに大風呂敷でヲタク作品の王道ですな。週刊連載まんがみたいなもんで、全体の整合性なんか無視してその場その場がいかに盛り上がるかとキャラ萌えだけに徹しております。
文楽というのは出鱈目やり放題の歌舞伎とは違って全体の筋を通そうとするものなんですが、もうかなり支離滅裂になっている。しかし、それでも文楽の血がそうさせるのか、完全に破綻することはなく最後は綺麗にまとまっておりますな。
まんがやアニメなんかもネタ切れで行き詰まっているのなら、こんな浄瑠璃をそのまま作品化したらいかがなもんでしょうか。正月に大阪の文楽劇場で雪責めをやる『中将姫』とか、いい浄瑠璃はいくらもあります。歌舞伎はあまりに出鱈目すぎてそのままでは苦しいでしょうが、文楽なら現代のヲタク作品としてなんの加工もなしに通用しますよ。
とにかく、ヲタク文化を語る者が、とくに萌えキャラとは何かなんて説く者が『彦山権現誓助剣』のお園さえ識らぬというのはあまりにも情けなさ過ぎる。26日までやってるしチケットはまだ手に入るだろうから観ておきなさいよ。ほんとは文楽で観るほうがよいのだが、今月の歌舞伎の舞台はいろんな意味で観ておいてのちのち損はないだろう。
○2002/12/25 キャラ萌え至上主義も参照のこと。
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