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絶望書店主人推薦本
 
『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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2001/5/4  中村歌右衛門とヲタク魂

 三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
 それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
 とりあえず、半端な想いを綴っておく。

 八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
 戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
 そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
 結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
 戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという<やおい>的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
 歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の<形>をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
 しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
 歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。

 あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
 幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
 もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
 ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
 あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。

 昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
 女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
 ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。