絶望書店日記

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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2001/5/22  本よ!メタモルフォーゼせよ!!

 あたしはオンデマンド出版とかいうのがどうにも気に喰わん。いかにも簡便風に見せかけて、なにゆえ何百万もするあんなご大層なマシンを使わなければならぬのか。数万円の家庭用プリンターを改良したもので印刷製本までできぬものか。そうなれば、根本的な出版革命になるのではないか。安価な機械でもできるような折り方を工夫したり、あるいは和綴じで何とかできそうな気もするが・・・・。
 てなことを闇の書物ハッカー組織なぞと電波交信しているうちに、冊子状に最初から交互に折り込んだ細長いプリンター用紙を販売すればいいことに想い到った!これならいまあるロール紙なんかの家庭用連続紙プリンターでもそのまま使えるはずだ!!
 途中で印刷がズレないように用紙の<山>や<谷>の部分を感知する工夫はいるだろうが、これはプリンターに内蔵されているセンサーで対応できるであろう。逆に云えば、普通のカット紙用プリンターを改良しても何とかなるだろう。とりあえず、世界中の学校関係には需要があるだろうから、多少の改良はすぐに元が取れる。数ページまとまったカット紙の原稿を冊子型用紙にコピーする複写機も造れば売れる。
 手折りの袋綴じ冊子はどれほど丁寧にやっても厚みにバラつきが出るし、どうしてもズレが生じる。機械できっちり折っておくと均一な仕上がりで、これだけでも見違えるものになるはずだ。ふたつ折りにすることを前提に調整した厚さや硬さの紙で、白さも抑えたものにすると、かなり従来の<本>に近いものとなるに違いない。
 形状を記憶するほどきっちり折られていると、プリンターを通ったあとは勝手に冊子状にまとまり、製本用テープなどで背を綴じるだけで立派な本となる。表紙を付ければよいが、小冊子にはそのままでも充分だ。両面印刷すれば、読者がナイフでページを切り開きながら読むというなかなか趣がある形式も取ることができる。
 どうも、このような冊子型の書物用途プリンター用紙というのは市販されておらぬようである。特許を取れば莫大なる儲けとなりそうだが、出願料がとても払えぬのでやめることにした。貧乏性のおかげでますます貧乏となるのはいつものことである。紙屋やプリンター屋の諸氏はありがたく押し戴き、大いに販売するように。お布施なら拒みはせぬので遠慮せず施すように。

 同人誌はむろんのこと、ベストセラー以外の本はすべてこの方式で出版したほうがよいのではないかとあたくしは考える。どうも本のプロとかいう輩は己の能力の無さを隠蔽したいがためか己が仕事をしていると思い込みたいがためか些末な完成度にこだわるようだが、そんなものはどうでもよい。昔の本は造りも印刷も遥かにいい加減なものだったが、氣迫のようなものがこもっておる。本の価値は、どれもこれも同じノッペラボウになるような意味での<完成度>とは懸け離れた処に存する。造りにこだわりたければ、装幀で勝負すればいいのである。
 コミケと姉妹関係とも云えるガレキの世界ではあれほどまでに華麗で手を掛けた造型が繰り広げられておるのに、同人誌がいまだに簡素な装幀の並製本ばかりというのはどうにも解せぬ。手造りの布や革で豪華に装幀された本がそろそろ出てきてもよいのではないかと考える。
 プロの世界もベストセラー以外はこんな造りにして高い値段を付けてもよさそうなもんだ。冊子型プリンター用紙は決して本の値段を下げるためにあるのではない。何百万もするマシンに先行投資してリスクを負わずとも、他者や外的要因を排して生産を完全にコントロールするためにある。読者が自身で手造りの装幀を愉しむ文化もそろそろ普及してもよさそうな時局で、そうなれば中身などは簡易オフセット以上に簡易なる造りでいいわけだ。

 そうして、絶望書店主人の眸はさらに遥か地平を向いておる。
 電脳の画面上で文章を読むようになって十数年が経ち、いまでは本より画面のほうが読みやすいという体質になってしまった。それとともにページと云おうか冊子形式と云おうか、そんな形態が優れているという従来の考え方に疑問を持つようになってきた。
 画面上では明らかに区切りのない巻物形式が読みやすいが、どうも印刷物も巻物でよいのではないかと漠然と考えておる。
 よく冊子形式のほうが検索性に優れているようなことが云われるが、日本の本は索引がついているわけでなし、章分けも厳密なものではなく、あたしくの想定しているのは個人の小冊子なので、ひとつの主題を一冊づつに頒ければ目的のページを開くなどという事態が生ずることもなく、製本の簡単な巻物でも良さそうなものだと考えておる。もっとも、あたしが漠然と思い浮かべているのは巻物そのものではなく、特殊な折り方による必ずしも四角ではない<本>のことなのだが。
 人工衛星のパネルを折り畳むのに使われるミウラ折りを識ってから、なんとかこんな方式でできないものかと考えるようになってきた。ミウラ折りはすでに市販の地図では応用されておるから、大量生産することは問題ないのであろう。
 もっとも、これは大きい一枚の紙を畳んだり広げたりするためのもので、当方の想定するのは本のように読みやすいサイズに開くものなのだが。上記の交互に折っただけの冊子型プリンター用紙では背を留めないとバラけるが、ミウラ折りのように少しずらして折り込んでいくとうまい具合に本状にならないもんかと夢想しておる。
 最初から折り目が入っており、プリンターは問題なく使用でき、印刷し終わると加工無しでそのまま本状になっている用紙だ。
 あたしは折り紙は苦手で、本型といってもトランプを扇形に広げた状態のようなものを漠然と思い浮かべることしかできぬ。本のような真四角の立方体ではないほうが面白いし機能的になるのではないかとは何となく想うのであるが。もっと巻物に近くともよいかも知れぬ。
 こういう方面は折り紙愛好者や数学やプログラミングの専門家諸氏のほうが適任であろう。すでに研究している者はいないのであろうか。ここまでくるとあたくしはまったくお手上げなので、諸氏の果敢なる探求を待ちたい。本にメタモルフォーゼと革命をもたらしてみよ!その手で宇宙に罅を入れろ!!グーテンベルクと相並び、本の歴史にその名を刻め!!!
 ミウラ折りの白紙のプリンター用紙が出れば応用範囲は広いような気もするが。近頃の娘さんはよく識らぬが昔の女子高生なぞは便箋を複雑に折り畳んで手紙にしたりしたものじゃが、あんなプリンター用紙が売り出されてもよさそうなもんじゃが。すでにあるのであろうか。

 ところで特許庁で「冊子」などで検索してみると、本に関する特許や実用新案は驚くほどあふれておる。それがまた難しくて、あたしの頭ではどれひとつとして理解できぬ。ほとんど電波の世界だ。
 本の構造なんて簡単なもので、また出願しているのは名のある大企業ばかりなのだから、もうちょっと何とかしてもらいたいもんだ。それともあんなややこしい説明文にしないと審査に通らないのであろうか。これではやっぱり、あたしには特許などとても無理ではあるな。


2001/5/16  岸田今日子三昧

 チャンネルNECOでまた『ガラス細工の家』の放送がはじまりました。あたしは倉本聡がなんか苦手でほとんど観たことがないのですが、唯一これだけは子供の頃よく観ておりました。いまから考えてみますと、主役の岸田今日子から眸が離せなくなってしまったのでしょう。
 ファミリー劇場では岸田今日子と杉浦直樹が恋人同士で出てくる『亭主の家出』をやっておりまして、もうこのコンビは最高でたまりません。このドラマの前のシリーズにあたる『おとこ同志おんな同志』でもこのふたりが絶妙の恋人役をやっておりまして、昔々それは大好きでした。
 『傷だらけの天使』もはじまりまして、あたしはこのドラマには想い入れはないのであんまり観てないのですが、岸田今日子が出てくる場面だけはついうかうかと魅入ってしまいます。
 極めつけは先月BSでやってた中村歌右衛門の追悼番組で8年前の歌右衛門丈と岸田今日子の対談が流されていたのですが、そのなかで岸田今日子は「女形を観るとゾッとする」なんてことを歌右衛門丈に向かって云い放っておりました。

 よく歌舞伎を観るには約束事を識っておかなければならないなんて妄言を吐く輩がいて、まことに困ったもんです。歌舞伎というのは江戸時代の日本人をいかに驚かそうかと企んで創られているものなんですからな。
 たとえば<花道>なんてのは最初は驚天動地のものだったのです。客の真っ直中を役者が通るわけですから。ところがこんな凄い仕掛けでもずっとあると当たり前になってきて誰も驚かなくなってくる。そうすると、今度はその花道に穴を開けて下から人間がせり出してくる<すっぽん>なんてのを編み出してなんとか驚かそうとする。それも当たり前の<約束事>に堕すると、舟に乗ったまま花道を引っ込んだりとまあいろいろやるわけです。歌舞伎を時代順に観ていくと、いかにそれ以前の<約束事>を破ってセンスオブワンダーをもたらすかの工夫の歴史であるかがよく判ります。
 これを現代人が約束事だなんて云ってすましていては歌舞伎なんかわざわざ観る必要もないし、たんなる莫迦者の業に過ぎません。黒子が出てくればへんてこだなと笑うのが正しいし、女形を観れば普通の女とは違う異様さを感じるのが正しい。
 さはさりながら、すでに名実ともに世界最高の名優となっていた歌右衛門丈に面と向かって「ゾッとする」なんてことを云うのはまた別の話です。歌右衛門丈は穏やかな雰囲気とは裏腹に気性の激しい人で、気に入らないことを云う者には睨みつけたり辛辣な皮肉を浴びせ掛けたりしたそうです。なかなか尋常の者ではできることではありません。
 反対に、この時ばかりはさすがの歌右衛門丈もたじたじといった感じでありました。

 考えてみますれば、岸田今日子の魅力もその異様さに「ゾッとする」ところにあるわけです。
 観る者が「ゾッとする」と『ガラス細工の家』の如くのサスペンスとなり、共演者が先に「ゾッとする」と『亭主の家出』の如くのコメディーとなり、観る者と共演者の「ゾッとする」タイミングがなかなか微妙であると『傷だらけの天使』の如くのなかなか微妙なものとなり、主役であろうが脇であろうが岸田今日子に対する「ゾッとする」具合で作品の性格が決定してしまう。宇宙のすべてを睥睨し否応なく統べる妖力をおよぼしています。
 杉浦直樹はじつにこの「ゾッとする」姿勢が見事で、ふたり合わさると絢爛荘厳なる「ゾッとする」帝国が屹立してしまうわけです。

 その岸田今日子が歌右衛門丈に向かって「この世のものでないものの塊」「怪しい」「ゾッとする」なんて言葉を最高の讚辭として連発するわけですから、もうなんと申しますか、乾坤搖るがす化け物合戦といった凄絶な一大パノラマを呈しておりました。
 幸か不幸かこのふたりの龍虎相搏つ舞台での共演は宇宙の根本原理から適わなかったわけですが、歌右衛門丈が元気だったぎりぎりのタイミングでよくぞこんな対決を実現してくれたものです。
 いいものを観させていただきました。


2001/5/8  チャーリー・コーセイ&ボビー

チャーリー・コーセイ ライブ 休みを取って何をやっていたかと申しますと、大阪は天王寺の某処まで5/6のチャーリー・コーセイ ライブに行って来たわけです。
 小さな店の極めて少人数のなか、30年間よもや生で接する日が訪れようとは想ってもみなかったルパン三世のテーマを眼の前で聴くことができ、涙ちょちょ切れました。メンバーのベースとサックス、チャーリーさんのギターも一流で、クラプトンなんかのスタンダードナンバーも痺れまくりで、それだけで大阪まで行って来た甲斐がありました。
 しかも、さらに『カリオストロの城』主題歌のボビーさんが急遽飛び入り参加され、『炎のたからもの』を歌ってくれたのでありました。
 チャーリーさんとボビーさんが逢われたのは、なんとこの日がまったくの初めてだったそうです。そもそも、ボビーさんがカリオストロを歌うのはプライベートを含めて三回目くらいなんだそうで。
 この歴史的ライブを敢行した店のマスターがボビーさんを評して曰く「まるで、クラリスがそのまんま22年の歳を重ねたようだ」と!!あんたそれはいくら何でも云い過ぎやとツッコんではみたものの、その気持ちだけはじつによく判るぞ!というくらいとっても可愛らしい女性でした。喋る声もとっても可愛らしいのですが、歌になると別人に一変、当時そのままの渋い声を聴かせてくれました。
 おそらくほとんどの方は『炎のたからもの』と云ってもピンとこないでしょうから、もう一度『カリオストロの城』を観てみてください。あの最初と最後に流れる歌声が、いまでもそのまんまなんですぞ!※『ルパン三世 カリオストロの城 オリジナル・サウンドトラック BGM集』に収録されています。
 あたしは正直云って『カリ城』の作品そのものはともかくとして主題歌に想い入れなぞなかったつもりだったんですが、眼の前でこれだけ素晴らしい歌を聴かされると胸にこみあげてくるものがありました。今回のライブとほとんど変わらない人数のガラガラの封切館で観たあの日から、22年もの歳月が流れ去ってしまったのですな・・・・・。
 女性なのになんでボビーなのかと想っていたらジャニス・ジョプリンの『ME AND BOBBY McGEE』が好きだからだということです。現在は大阪ドーム近くの南堀江で< big cake >というソウル、ロック、ジャズが中心のバーをやっているそうです。
 チャーリーさんの幼稚園児なみのギャグにボビーさんひとりで大受けで、お互い何者なのかは最後まであんまり判っていない風でしたが、新たなコンビ誕生の予感を感じさせるものがありました。オヤジギャグもここまで低レベルだと嫌味が無くていいですな。チャーリーさんのお人柄もありますが。
 最初、帽子と眼鏡を外していたチャーリーさんの迫力は半端なものではなく、世界の果てを観てきたあたしもビビりまくりましたが、喋りだすと気のいい関西のオヤジさんでありました。もっとも、まだお若いのですが。なんせ、ルパン三世のテーマのチャーリー・コーセイ弱冠21歳!(虫プロのアニメラマ『千夜一夜物語』のテーマは20歳!!)という驚愕の事実があるわけでして。
 2万プラス印税と5万の買い取りとで迷わず5万を選んだのもむべなるかな。印税のほうを選んでいたらこの日この場所にはいないと云っておりましたから、感謝です。
 チャーリーさん自身のレーベルで出されている『BACK IN KOBE』(ルパン三世エンディングテーマ・26年ぶりのリメイクテイク収録)にサインをしてもらってほんとに嬉しかったです。一生の宝物にいたします。このCDは神戸にあるチャーリーさんのお店だけで買えるそうです。ウェブ上にはルパン三世の音楽リストみたいなページが数多くあるのですが、このCDはほとんど取り上げられておりません。まことに怪しからんことです。
 なお、今回はライブをやった店のマスターの意向で、絶望書店では事前の情報を流しませんでしたことをなにとぞご容赦ください。リクエストが集まれば、またこの顔合わせが実現することもあるでしょう。
 ボビーさんはご自分のお店で5/11,12にライブをやるそうです。この日はルパンは歌わないと云っておりましたが、まあ問い合わせてみてください。なんか、音源が無いという単純な理由もあるようで、誰か何とかしちゃれ!!あのお人柄に触れるだけでも行く価値はありますぞ。クラリス云々はあまり過度の期待は抱かないように。まあ、あのクラリスだって22年経ちゃどうなっとるかは判ったもんではございませんが。


           ボビーさんのお店のフライヤー サイン入り

   


2001/5/4  中村歌右衛門とヲタク魂

 三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
 それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
 とりあえず、半端な想いを綴っておく。

 八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
 戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
 そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
 結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
 戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという<やおい>的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
 歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の<形>をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
 しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
 歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。

 あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
 幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
 もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
 ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
 あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。

 昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
 女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
 ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。

   

 

 


2001/4/24  ブラック・ジャックの素 2

 ブラック・ジャックの素『ジキルとハイド』の最終回があまりにあまりなことになっていて、おくちあんぐりの絶望書店主人でございます。
 これはやはりとてもテレビでやるようなしろもんではございません。アングラ映画館あたりでこっそりと上映するのにふさわしい。そんな怪しげな処で昔観た『フリークス』なんかよりは遥かに強い衝撃を受けました。
 アイコン屋のこのページに画像が少しだけあるのですが、残念ながらあまりブラック・ジャックには似てない貌が載っています。ジキルとの左右合成シーンもずれたものが載っていて、ぴったり重なった部分はありません。まあ、ビデオキャプチャーを買うこともなく勝手にリンクを張る当方とは意図が違うのですから、致し方ございません。
 ハイドは妙なスタイルのコートを着ているのですが、その全身を観れば誰もが頷くほどそっくりです。とくに大勢を相手に立ち回りをするシーンなんかはそのままだと感じられます。
 最終回は「気狂い」なんて言葉が連発されてそのまま流されていたのですが、一カ所だけ松尾嘉代のセリフが消されておりました。いったいどんな凄いことを叫んでいたのか、どうにも気になりますのでお判りの方は教えてください。
 ラストは「誰でもがハイドの部分を秘めているのかも知れない」といったこの手のお話にはありがちの問い掛けで締めていたのですが、さすがにこの丹波哲郎ほどデーモニッシュな狂気を持ち合わせている奴はいるかい!と想わずブラウン管に向かって突っ込んでしまいました。
 いや、ひとりいるとすれば、それは手塚治虫その人でありましょうか。

 ぼーぜんじしつになってしまった頭を整理しようと石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』を読んでいて、「ロボットは成長しない」というのが『鉄腕アトム』の中心テーマであることを想い出しました。生涯のテーマであったメタモルフォーゼに反するふたつの作品が手塚治虫の代表作となっているのはなんとも皮肉な話です。
 石上三登志さんによると手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。
 また、『火の鳥』の最後は『鉄腕アトム』になる予定だったというかなり確実な話がありまして、手塚さんは宇宙を支配する神秘の力の手を借りてまでもアトムを成長(メタモルフォーゼ)させたがっていたのでしょうか。あるいは、成長しないロボットと對峙させることによって、メタモルフォーゼする生命の神秘を逆照射させようと目論んでいたわけでしょうか。

 こういう『鉄腕アトム』へのこだわりと比べて、『ブラック・ジャック』のあつかいはなんとも不思議な気もします。
 ロボットとは違ってこちらにメタモルフォーゼを持ち込むのはなんの問題もない、いやむしろ手塚治虫お得意の二重人格(メタモルフォーゼの一種)を授けるのが自然なはずなのに、ブラック・ジャックもピノコもいかにもな設定でありながら絶対に変身しないのです。かなり意識的にメタモルフォーゼを避けている。両極の性格は二重人格の如く変身によって切り替わるのではなく、ドストエフスキー的にひとつに融合している。それでいて、アトムのように作者に嫌われることもなかった。
 メタモルフォーゼの殿堂・虫プロ倒産から手塚的二重人格の典型『三つ目がとおる』開始までの一年間は、手塚治虫最大の危機で誰もが再起不能だと考えていた時期です。すでに過去の人だった手塚さんが少年誌でヒットを飛ばすなんて想像もできなかったし、借金は莫大な額でした。結局すぐに二大ヒットが出たわけですが、この期間さすがの手塚さんにも心境の変化があったのか、『ジキルとハイド』オープニングの左右合成された丹波哲郎の貌の衝撃がそこまで強かったのか。
 手塚さんは時代ごとにいろんな作品から影響を受けていますが、ここまで根本的に変革を迫られるほどの力をおよぼしたのは丹波哲郎の貌だけだったような気がします。単なるテクニック上のことではなく、当時の絶望的な心境に共鳴したからでもありましょうか。あるいは生命に對峙する役だったからなのでしょうか。

 『手塚治虫の奇妙な世界』を読んで「ロボットは悪いことができないので不完全」というのが『鉄腕アトム』のもうひとつのテーマであることを想い出しました。アトラスという悪い心<オメガ因子>を持った完全なロボットがいたことも。
 手塚治虫のテーマに反することによって、『鉄腕アトム』はきっちりとテーマを逆照射するようになっているのですな。また、いろんな意味で作者の思惑を超えてしまった『鉄腕アトム』を制御したいという欲求を手塚さんは持っていたような気もします。<愛人>であるアニメに通ずるところもあるし、案外メタモルフォーゼ的と云えなくもない。
 その点で観ても『ブラック・ジャック』というのはどうにも特異な位置を占める作品と云えましょう。

 『手塚治虫の奇妙な世界』は成長しないアトムについて一章割きながら、成長とメタモルフォーゼとを結びつけておりません。また、手塚治虫の重要なるモチーフとして二重人格についても一章割きながら、アトラスともブラック・ジャックとも結びつけておりません。
 その点、掘り下げが浅いとも云えますが、持ち出す視点がおもしろく、こねくり廻していないぶん好感が持て、これが手塚研究書として最初のものらしいですけど一番優れているように想います。それに引き替え、あたしのやっていることはどうにもよろしくはございませんな。
 米沢嘉博さんなんかは「手塚治虫は解釈を誘うようなトリックを作品中に意識的に埋め込んでいる」といったようななかなか穿ったことを云っておりまして、あたしもその罠に掛かっていろいろ云っているだけかも知れませんが、まあ想いついたものはしょうがありません。
 『ジキルとハイド』みたいに観たあとただ唖然と言葉を失っているばかりでも面白くはありませんからな。

 
   



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