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『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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2001/2/25  ブラック・ジャックの素

 いまファミリー劇場で丹波哲郎・主演の『ジキルとハイド』という何とも形容のし難い凄まじいドラマをやっているんです。
 医者の慈木留(ジキル)が薬で変身して殺すは犯すは極悪非道の限りをつくすわけですが、このハイドの暗い姿格好がブラック・ジャックそのものでして、いつも白衣を着ている白髪の慈木留と左右半々に合成されるオープニングはもうそのまんまでして。少なくとも、加山雄三よりも宍戸錠よりも本木雅弘よりも出崎統アニメのブラック・ジャックなんかよりも遥かにぴったり重なります。
 ああ、手塚さんは確実にこれを観てるな、ブラック・ジャックの素が丹波哲郎とはこりゃまた驚いたもんだなと調べてみたれば『ジキルとハイド』の放映終了が1973年の4/24で、『ブラック・ジャック』の連載開始がその半年後の11/19号なんですな。

 『ジキルとハイド』は1969年製作なんですが、あまりに殘虐かつシュールな内容でお蔵入りになり、やっと三年以上経ってから23:15~00:15という当時としては異例な深夜かつ半端な時間帯に一度だけ放映し、地上波ではその後まったく流されなかったといういわくつきのドラマであります。
 『人造人間キカイダー』の長坂秀佳がシリーズ構成をやっているんですが、さもありなんといった出来でして、なんせ時代が時代ですからさらに輪を掛けてサイケな絵づくりとなっております。いま観ても、お蔵入りは充分うなずけます。
 露口茂が血の気の多い刑事役で出てきたり、もういい歳の松尾嘉代のセーラー服姿が拝めたり、池田昌子が乱暴されながらも悦んでしまう人妻だったり、もちろん丹波哲郎のイッてしまった怪演とたまらん観処満載で、これだけでファミリー劇場と契約する価値はありますな。

 そんな丹波哲郎の導きで、ジキル博士とハイド氏のふたりの分身をさらにもう一度ひとりに合体させたのがブラック・ジャックだということに、たったいま初めて気付いてしまいました。だからこそ、髪や顔が白黒半々の姿をしていて、名前が間(はざま)だったんですな。だからこそ、恐怖コミックスだったのですな。
 こんな簡単なことに、あたくしはいままでなんで気付かなかったのですかな。皆様には衆智のことだったのでしょうか。近所の図書館で読むことのできる20冊ほどの手塚治虫研究書に眼を通してみましたが、どうも見当たらないのですが。手塚治虫自身のハイドだというような捉え方はありますが、これは明らかに誤りですな。両極端な性格を併せ持っていた手塚治虫の投影だというのなら、まだしも判りますが。
 手塚さんはブラック・ジャックは海賊のことだとかなんとか云ってますが、どう考えてみても両性具有ならぬ両性格具有の<黒いジキル>から来ているのでしょうな。第一回目の扉絵はふたつの貌を持つトランプのジャックですし。
 ほかの人のブラック・ジャックよりも丹波哲郎のほうが近いと感じるのは、きちんとこの主題を踏まえているからなんでしょう。

 而して、こんなことに気付いてもただ虚しいだけです。
 あたくしはドストエフスキー云うところの「両方の岸がひとつに出逢ってすべての矛盾がひとつに棲む」「聖母とソドムを併せ持つ」という完璧な人間描写を史上初めて爲し遂げたのは古今東西あまたの物語のなかで『ブラック・ジャック』、それもこの主人公ひとりだけであると常々考え感歎していたのですが。種明かしをしてみれば簡単なことで、なあんだという感じがあります。
 まったく困ったことでして、完成した作品をこんなふうに部品に分解して分析してみても、理解したということにはなりません。まさしく寿司屋のアナゴの一種に過ぎません。美女の骸骨をわざわざ視て、永年抱いていた大切な想いまで永遠に失ってしまったようで、情けないことであります。

 さはさりながら、『ジキル博士とハイド氏』の主題は変身なんかしないで一個の人格に結晶させたほうがより複雑に深遠になるというのはコロンブスの卵で、ほかにありそうでなかなか見当たりません。悪人が善人を装ったり、また善人が悪に染まったりといった話はありますが、それらはすべて変身の一種で、同時にふたつの性格をドストエフスキー的に内在するのはブラック・ジャックしかあたしには想いつきません。ドストエフスキーの登場人物さえこれほど完璧なる造型ではありません。
 デビュー以来飽くことなくメタモルフォーゼを描き続けた手塚治虫が、虫プロが潰れて究極のメタモルフォーゼたるアニメに挫折したまさしくその年、引退記念とも囁かれた『ブラック・ジャック』に於いて、変身とは反対のベクトルである<逆ドッペルゲンガー>を描いたのは必然なのでしょう。
 それがおそらく想ってもみなかったコロンブスの卵、ヒョウタンツギからコマを生み落としてしまった。手塚治虫生涯のテーマに逆叛(あるいは濃縮)するこの主人公が、皮肉なことに矛盾した両極端な性格を併せ持つ手塚治虫自身の投影ともなってしまった。おまけに、大人と子供を併せ持ちながらも決して変身しない<ふしぎな逆メルモちゃん>であるピノコまで生み出してしまい、こちらのほうは矛盾ではなく理想の完全体として女性からは憧憬されているらしい。
 丹波哲郎の靈氣や恐るべし!三年間のお蔵入りがなかったら、これらすべてが地上に存しなかったのやも知れぬのですからな。

 まあ、こんな詰まらん分析をしているうちに、ヒューマニズム云々だけではなく世間一般のキリコとブラック・ジャックとの対比の仕方にこれまでどうも違和感を感じていたのは何故なのかが判ってすっきりといたしました。<寿司屋のアナゴ>談義も多少は役に立ちます。

 ところで、ウェブ上では『ブラック・ジャック』の連載開始を1/19号と間違えて記しているページがあまりにも多いですな(間違えているとこのが多い!明らかにウイルス状に増殖しておる!)。週刊誌の実際の販売日は一週間前ですから、これでは『ジキルとハイド』の放映開始日1/9とぴったり重なってしまいます。
 「すわっ!シンクロニシティーかあ!?」とあたしが仰天しますので、これ以上拡がる前に皆で手分けして訂正させなさい。あーびっくりした。

4/24 ブラック・ジャックの素2も参照のこと。
 
 
※2006年12月27日(水)の深夜0時から、ファミリー劇場で『ジキルとハイド』全13話一挙放映が決まったようです。
女房を売り飛ばしてでも観るべし!!!!
すんごいよ。とくにブラック・ジャックのアニメやドラマを制作するスタッフは刮目して観るように!!!出崎さんなんかにもちゃんと観てほしい。
 
   



フシアナか!?