絶望書店日記

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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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Archive for カテゴリー'文楽・歌舞伎'

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2001/5/4  中村歌右衛門とヲタク魂

 三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
 それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
 とりあえず、半端な想いを綴っておく。

 八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
 戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
 そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
 結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
 戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという<やおい>的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
 歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の<形>をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
 しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
 歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。

 あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
 幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
 もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
 ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
 あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。

 昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
 女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
 ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。

   

 

 


2001/1/4  新春に桜姫

 新春らしく桜姫のお話などを。去年の11月に7年ぶりの『桜姫東文章』上演を観たのに、これまで書きそびれてただけなんですが。
 幻想文学やSFなんかが好きで、歌舞伎や文楽を観たことのない人は世界の半分も識らないことになります。ヲタク文化も判ってないことになります。とくに戦闘美少女を語る方が観ていないのは、無知蒙昧にもほどがあるというもんです。
 えーと、ネタバレばりばりです。これぐらい書いておかないと、観てない人は永劫に観ないでしょうから。
 なんか、木原敏江の『花の名の姫君』は『桜姫東文章』を原作にしているそうなんですが、舞台を観る前には読まない方がいいんではないかと存じます。まんがの出来がいいほどそうだと存じます。あたしは読んでないのでよく判らないの。ごめん。
 ストーリーが占める重要度は低く、以下の文章はまんがほどの妨げにはならないのではないかと存じます。あたしが16年前にはじめて観たときは何の予備知識もなく、じつに幸いでありましたが。あまりの衝撃に、冗談ではなくほんとに一ヶ月ほど口が利けなくなってしまったのでありました。それほどのもんであります。
 いきなり舞台を観るに越したことはございません。次がいつの上演になるかは判りませんが。読んでしまってから文句を云わないように願います。

 お話は清玄というお坊さんと白菊丸というお稚児さんの、男同士の心中シーンからはじまります。ここで清玄だけが死にそこなって、偉い高僧になった17年後に、白菊丸の生まれ変わりである桜姫に出逢ってしまうんですな。
 吉田の少将の桜姫というのは17歳の可愛らしい高貴なお姫様なんですが、じつは屋敷に忍び込んだ釣鐘権助という盗賊に手籠めにされて子供まで産んでいるんですな。それどころか、一度だけ契った顔も見てない権助のことが忘れられずに、権助と同じ釣鐘の刺青を腕に入れていたりもします。じつは吉田の少将は殺されお家の宝の都鳥の一巻も盗まれて、お家の一大事のときのはずなんですが。
 吉田家への悪巧みのためにまたやってきた権助の腕にあの刺青を認めるや、桜姫は閨に引き込みます。それが見つかってしまうのですが、たまたま居合わせた清玄が不義の相手と讒言されて、寺を追われてしまいます。惚れあっていたのにひとりで死なしてしまった白菊丸の因果が巡ってゆくのでありました。
 なお、この演目ではだいたい二役ということになっておりまして、今回は幸四郎が清玄と権助、染五郎が白菊丸と桜姫を演じておりました。父と息子の濡れ場ですな。
 清玄はもう完全な破戒坊主と成り果てて、これまた赤子を抱いたまま追放された桜姫を追っかけてゆきます。しかし、前世のことなど覚えていない桜姫は権助のもとへと走ります。なおもしつこく迫る清玄は殺されてしまいます。
 権助はまさしく悪党で、桜姫を小塚っ原の女郎屋へと売ってしまいます。吉原のような上等な廓じゃなく、ほんとの場末の安女郎というのがミソですな。腕の釣鐘の刺青が可愛くて「風鈴お姫」として人気が出ます。お姫様と遊女がチャンポンになるセリフや演技が、桜姫の最大の見せ場となっております。
 しかし、このお姫には幽霊が出ると噂が立ち、権助のもとへと帰されてしまいます。ここで清玄の幽霊があらわれ、権助はじつは弟の信夫の惣太で、桜姫の父少将を殺して都鳥の一巻盗んだ張本人であると告げます。
 それを聞いた桜姫は権助とその血を引いている己が産んだ赤子を刺し殺します。みんごと仇を討ち、都鳥の一巻も取り戻し、お家再興を果たすのです。めでたし、めでたし。じつに新春にふさわしいお話でありました。

 清玄がさらに尼さんになってしまう『隅田川花御所染(女清玄)』と並ぶ鶴屋南北の、いや歌舞伎の最高傑作です。実際の話は遥かに複雑に入り込んでおります。ヲタク文化の伝統として先行する『一心二河白道』と『隅田川』の<世界>がないまぜになっており、コラージュの妙はエヴァみたいなもんをイメージしてもいいんではないかと存じます。もっとも、歌舞伎や文楽はすべてそうなんですが。
 テレビなんかとは違って歌舞伎のお姫様は本物です。それが安物の遊女になって、最後にはまた完璧に高貴なお姫様に戻ってしまう。それはこんな粗筋ではとうてい想像のつかない衝撃があります。一幕ごとに最大限に振幅する怒濤の命運が、脳髄を鷲掴みにしてぶんぶん振り廻される感覚を呼ぶのです。とくにあたしは孝夫と玉三郎という最高のコンビで観てしまったため、ほんとにショックで寝込んでしまいました。

 ウェブを観て廻るかぎりでは染五郎の慣れない女形の評判が悪いですな。確かにこの話はきちんとしたお姫様が崩れていくところが眼目でそれも判らんではないのですが、あたしは真女形ではないけど姿は美しい染五郎は却ってよかったのでないかと想いました。
 7年前の雀右衛門は女形としては申し分がありませんが、いくらなんでも歳でした。70の爺さんが17のお姫様に見えてしまうのが歌舞伎の魔法というもんなんですが、桜姫はさらにそこをもうひとつ越えた美しさや存在感が要求される特異な作品です。雀右衛門はいかにも型どおりの女形といった感じでしたし、今回と同じ役をやった幸四郎とも噛み合わない気がしました。
 幸四郎は猿之助と並ぶもっとも新劇臭い妙なリアリズムのようなものを持ち込みたがる歌舞伎役者なのですが、今回は親子で濡れ場をやるといったこともあり、わりと遊び感覚があって歌舞伎らしくてよかったような気がします。また、染五郎なんかの若手は上の世代よりかえって歌舞伎らしさがあるんですな。まんがやアニメなんかのヲタク文化から正しい日本の伝統を自然に受け継いでいるのではないかと、あたしは睨んでおります。
 もっとも、玉三郎とはとても比べものなりませんし、また権助は幸四郎のようないかにもの悪党ではなく、孝夫のようなしゅとした二枚目のほうがやはりよろしいのですが。
 それよりも前回からかなりのダイジェスト版となり、今回さらに切られてほとんど違う話となっております。劇場の都合による時間の短縮ということや、ほかにも難しい問題があるようです。16年前には非人が出てくる場面がまだあったのですが。5時間ほどたっぶりやった昔を知る者には、じつに味気なくスカスカした感じでした。孝夫・玉三郎コンビでやったとしても、あそこまでの衝撃をもう一度味わえるのか心許ない気がします。何故か7年に一度しかやらないのもどうかと想いますが。あたしが完全に文楽に興味が移ってしまった由縁でもあります。

 ところでウェブを廻っておりますと、たまたま松たか子の隣りに座って観てしまったという方がおりました。こんなのも親子兄妹ドンブリと申しますか、なんと申しますか、なかなかオツなものでございましょう。
 じつに新春にふさわしいお話でした。

 

分解されざる桜姫因果は巡るも参照のこと。

 
     



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