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『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

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2002/5/9  ヲタク的教養とは何か2

 ヲタク的教養とは何かについて唐沢俊一氏からじつに丁重なるメールをいただいた。非常に謙虚に江戸時代の歌舞伎については確かにあまり知識がなく改めて勉強しているところで、その上でまた書くつもりであるので暫く待っていただきたいとのことであった。
 あたしはよき唐沢読者であるとはとても云えんのだけど、こんな駄文をきちんと見つけ出してきて反応する姿勢には敬服する。いやしくも他人樣に情報を提供してご飯をいただく者ならば、受け手の何倍も情報に貪欲なのは当然と云えば当然ではあるのだが。少し調べれば判るようなことをさぼって適当なことを書いている学者とはだいぶ違った精神の持ち主であることだけはよく判る。内容以前の話だ。

 さて、しかし、『動物化するポストモダン』の錯誤の出発点であるヲタク文化は江戸ではなくアメリカにルーツを持つという考え方は、じつは唐沢俊一氏のミスリードによって導き出されたものであるとあたしは考えておる。これは業界裏話的なことではなく、件の本とも関係なく、ヲタク文化を解明するためには存外に深い意味を祕めていると愚考するので、以下に考察してみたい。

 話は2年前に遡る。唐沢氏の裏モノ日記 2000年10月の18日と19日に東氏のアニメ知識についての批判が載った。お読みいただきたい。
 このリミテッド・アニメの話については明らかに唐沢氏のほうがおかしいとあたしは考える。学者さんは日米のアニメの違いについて話しているのであって、そこに「リミテッド・アニメ」という言葉を出してくるのは間違っているのやも知れんが、そこで「そもそもリミテッド・アニメとは」とそっちのほうの説明をはじめるのは話がちぐはぐでまるで落語のよたろー同士の会話みたいだ。
 裏モノ日記にも「日本式リミテッド」だの「八コマ撮りリミテッド」だのといういささか苦しい言葉があるように、現状では日本アニメの特色を表す言葉として「リミテッド・アニメ」を持ち出すのはやむを得ないことである。ほんとは「あー、それはリミテッド・アニメで説明するのは無理があって、日米のアニメの違いは○○○なんだよ」と云いたいところなのだが、なんと!○○○に当てはまる言葉がないのだ!!ないのだよ!!!
 これだけヲタク文化が隆盛を誇って日本のアニメは世界一とか云ってて、日本のアニメを海外と的確に峻別する言葉がせいぜい「ジャパニメーション」なんて無内容のものしかないのは、唐沢俊一氏などのヲタク評論家の側の責任だと想っていたのだが、なんと!それ以前に唐沢氏は日本アニメは今日に於いてもすべて米アニメの影響下にあり、根本的な違いなどないと考えておられるらしい。
 これが『動物化するポストモダン』のヲタク文化は江戸ではなくアメリカにルーツを持つとか、アメリカへのコンプレックスがすべての原動力になっているとかのよく判らん想い付きの唯一の根拠となっている(件の本には他の根拠が書いてない)。
 知識が壊滅的に無いうえに少々おつむの弱い学者さんが誰が見ても明らかに共通点のある江戸文化とヲタク文化の違いを証明しないといけないように、世間一般、海外でも明らかに違うと想われている日米のアニメの同質性を唐沢氏は証明する責任がある。さらには世間の誤解を解く努力をしないことには。「リミテッド・アニメ」の言葉の定義なんていう些末なことよりも。
 当然、あたくしは反対の立場を取ります。

 裏モノ日記には「ジブリ作品などは、もはやディズニーですら行い得ない律儀なフル・アニメーションの伝統を保持していることによって注目されている」なんてことが書いてあるけど、そんなわけがありますか!米アニメにはない独自の表現が注目されているのであって、フルかリミテッドかなど問題ではない。問題は何が独自なのかである。
 現在の日本アニメの独特の動きと画面構成はディズニーやロシアなど欧米アニメの影響下にあった東映動画の流れではなく、やはり虫プロからはじまったものである。それはアメリカのリミテッドアニメよりもさらに極端に少ない枚数を強いられたことによる苦肉の策ではあるのだが、しかし、そこで導入された方式は手塚まんがの方法論をそのまま画面に移すという日本ヲタク文化にとってはじつに正統なものであったのだ。
 手塚まんがはディズニーの影響を受けている。しかし、ちょっと考えれば判ることだが動いているアニメをそのまま紙の上のまんがに移しても同じになるはずはない。止まっている絵でもディズニーアニメのように動いて視える独自の方法を編み出さなければならなかったのだ。つまり、ディズニーの影響を受けたために、ディズニーとはまったく違った方式を取ったのだ。同じことだが紙の上で映画を再現するために、映画とは根本的に違った方法論を確立した処に手塚まんがの革新性があったのだ。
 止まっている絵を動かすには読者の脳内を刺激するよりほかはない。これに成功してしまったがために動いているように視えるよりもむしろ先に圧倒的な没入感と感情移入を喚起させることになり、高度の心理描写とドラマ展開が可能となってしまったのだ!あくまで手塚治虫の目指したのはメタモルフォーゼなのだが、遥かに根源的な変容をもたらしてしまったのだ!
 虫プロアニメではほとんど止まっているに等しい紙芝居的画面をあたかも動いているかの如くの迫力を出すために、そのディズニーとはまったく違った手塚まんがの方式をそのまま導入した。最初から米国のリミテッドアニメとは一切関係がない。もちろん、欧米フルアニメともまったく違う。
 まんがの場合と同じく動いているように視えるだけではなく、圧倒的な没入感と感情移入を喚起させることになり高度の心理描写とドラマ展開が可能となってしまったのだ!『新宝島』をたんなる幼稚な絵としか受け取れなかった戦前のまんが家と同じく、欧米アニメ好きな評論家がどう云ったかは知らんが、当時の子供たちが魂を抜かれたようにして惹きつけられたという事実のほうが重要なのだ!「日本において子供たちがそれほどフル・アニメになじんでいなかった環境が幸いした」なんてことでは到底説明不可能で、唐沢氏云うところの「アニメ史」とはまったく違う、動き(視覚)ではなく脳内に直接作用するまったく新しいアニメの歴史がここに始まっている。
 あくまでメタモルフォーゼのほうに興味があった手塚治虫自身はのちにこの方式を捨てて方法論なき凡庸なるフルアニメに流れたのでいささかややこしいし、また具体的な脳内刺激法は改めて論じる必要があるが(あたしはそれなりに仮説を持ってるし、そもそもこれが江戸以前の日本ヲタク魂の神髓なのでいずれ書く)、日本アニメの特色を的確に表す言葉としてはとりあえず「手塚まんが方式」ということでいいと考える。それはフルかリミテッドかとはまったく関係なく、一度紙の上のまんがを経由しているため米アニメの影響も意外なほどないのである。人間そのままの動きは絶対出来ない文楽を一度経由した演出を歌舞伎がそのまま取り入れて象徴的な面白い型を生み出し、脳内に達する表現を編み出した経緯と似ている。
 もちろん海外の影響があるのはあたりまえのことで、これも海外の影響を歪ませながらも大きく受けていた江戸時代の文楽や歌舞伎と通ずるところがある。

 宮崎駿は東映動画に入る前は手塚まんが、東映動画を出てからは虫プロの流れと二段階に渡ってこの方式の影響下にあり、人々の注目を浴びているのはこの部分であろう。東映動画を決して軽視するわけではないが、東映動画の欧米とは違う独自な部分も日動の影響とともにやはり手塚まんがの影響が濃いとあたしは考える。
 宮崎駿の例の手塚批判も欧米的な『展覧会の絵』『クレオパトラ』や後半のフルアニメに対するもので、きちんとヲタク受けした<手塚まんが方式>の作品は巧妙に避けながら金の批判しかしていない。行間を読み取ってあげないと。

 なお、『白雪姫』などディズニー長編が日本公開されたのは『新宝島』初期SF三部作のあとで、手塚まんがはむしろディズニー以外から大きな影響を受けており、そのなかには戦前の日本独自のまんがや絵巻物などの伝統的日本美術も含まれていることは『手塚治虫 漫画の奥義』で本人が証言していることである。ディズニーや映画の場合とは違ってこちらはそのまま紙の上に受け入れやすいものではある。
 しかし、そんな直接的影響が問題なのではない。重要なのは日本人の時空間認識と世界観を身に着けているひとりの天才がまったく新しい表現方法を編み出したとき、それが文楽や歌舞伎と驚くほど似ていたという事実である。通底するもの、ヲタク魂が問題なのである。それはなによりも、眼の前にあるものとは違うものを視ることのできる力である。

 これが一番の問題なのだが、そもそもなにゆえ日本アニメの特色を的確に表す言葉がいまだにないのか。
 驚くべきことに唐沢俊一氏を含むアニメ評論家たちはいまでも欧米的フルアニメこそ本物のアニメであるという観念に囚われているらしいのだ!これは世代的なことでないらしいのは、若い編集者やライターがアニメ雑誌で持ち上げる類のアニメを観れば判る。ヲタクにも一般人にもほとんど受けていない、つまり脳内を刺激しない凡庸なるフルアニメ指向と云うか映画的リアリズム指向の作品が何故か偉いらしいのだ。理由はよく判らんのだけど。
 これは六代目菊五郎が西洋演劇リアリズムを導入して脳内を直接刺激する本来の歌舞伎が内部崩壊しかかったのと同じ流れで、ヲタク文化融解の恐れがあるとあたしは危機感を抱いている。
 ヲタク文化が江戸以前の本来の日本文化の復活であることが理解できない諸氏は昔の日本文化の知識が乏しいだけではなく、明治以降いかに日本的ヲタク精神が抑圧を受けてきたのかが判っていない。中村歌右衛門の孤独なる闘いを胸に刻み、諸氏もともに闘いを挑むように!!

追記
 唐沢氏の9日付け裏モノ日記にてご批判いただいので、少しだけ書き加えたい。
 当方は『手塚治虫 漫画の奧義』などを読んでいるので手塚治虫が戦前、ディズニー短編映画を観ていたことも大きな影響を受けていたことも識っております。ただ、世間で想われているほど決定的ではなくそれ以外の影響がむしろ大きいのは上記の本でも述べられており、それを強調したかったのであって、『白雪姫』云々は言葉足らずでありました。
 戦前の日本独自のまんがとは岡本一平とかある程度日本の伝統美術に繋がるものを指しており、このあたりも上記の本を参照いただけると。
 当方は『スピード太郎』と手塚まんがとは決定的に違っていると考えております。もちろん、ディズニーアニメをそのまま紙の上に移した戦前まんがとも違っていると考えております。それが脳内刺激の核心なのですが、そのうち書きます。
 あとはだいたいご理解いただいた上での対立があるということで。誤解をあたえた点は申し訳ございません。

 神話を暴くとさらなる神話も参照のこと。

 
 
   


2002/4/23  ヲタク的教養とは何か

 あたしはできだけこの手のものを避けるようにしているのだが、ついうかうかと東浩紀『動物化するポストモダン』なんてものを読んでしまった。これはしかし、いくらなんでも酷すぎるな。
 この本にあるようなことは江戸時代の歌舞伎や文楽に於いて遥かに洗練された形で完成している。それを論じたものも遥かに洗練された形でいくつもある。そんなことも識らない無教養にも驚くが、本を一冊読めば判るようなことを調べもしないで、この手のことが最近はじまっただのポストモダンだのと云ってる怠惰はいったいなんなんであろうか。
 高校生の作文ならともかく、この人はもういい歳のはずなんだろうが。無防備なままに適当なことを云って、あとで間違いが判れば謝って済む問題なのかね。うーん、そのうち歌舞伎のことを識って、自分が発見したみたいに大騒ぎするであろう様子が目に浮かぶ。
 唐沢俊一がきちんと批判するだろうと想っていたのだが、この人は最近の歌舞伎は詳しいみたいだけど江戸時代の歌舞伎や文楽にはあまり智識がないらしく少々頼りないな。大学には江戸文化に詳しい人もいるんだろうから、こういう無智蒙昧のうえに怠慢なる精神の輩には制裁を加えておいてもらわないと困るよ。本人のためにもこの本は回収したほうがいいんではないのかね。

 この本のネタ元になったとおぼしい大塚英志の『物語消費論』では歌舞伎の<世界>のことを「大きな物語」と形容している。この人も歌舞伎を識らないままに書いてるようだが、「大きな物語」というのは誤解を与える表現ではある。
 <世界>というのは絶対的な存在ではない。通常の演目でも二つか三つの<世界>が組み合わされる。南北になってくると七つも八つもの<世界>が「ないまぜ」となる。しかもこれは物語の幹となる部分の話であって、細かいシチュエーションやキャラやアイテムなどを入れると膨大な数になってくる。そもそも、元となる<世界>のほうも先行するいくつもの物語を踏まえているのであって、それらを踏まえて創られた作品はざっと百程度の<世界>を組み合わせたものと考えられる。現在のまんがやアニメが先行する作品からいろいろいただいてくると云ってもケタが違う。
 これはできるだけ多くのものを踏まえるほうが教養があって偉いということもあるが、なにより役者にいろんな役やいろんなコスプレをさせたいという観客の欲求に応えるためにあるのだ。
 だいたいまったく違う物語の<世界>をいくつも組み合わせるのだからストーリーは最初から破綻している。何百年前の武家の話と現代の町人の話が平行して絡み合い、しかもひとりの役者が町娘とお姫樣、ときには悪役を同時に演じる。一幕ごとに話は飛び、そもそも一幕ごとに作者も違う。
 これは人気役者にいろんな有名萌えキャラをさせてお馴染みの萌え萌え名セリフをいくつも云わせて、しかもいろんな相手役との受けX攻めやおい関係を一度に全部観たいという、ヲタク慾望まるだしの観客がお腹いっぱいになって小屋をあとにするためのもので、現代のヲタク作品もまだまだここまで割り切って創られてはいない。
 グッズ類の販売に関してもそうだが、すべてが消費文化としてすでに完成されていた。さらに重要なのは歌舞伎も文楽も当時の日本人にとって擬似的な日本だったことだ。飛鳥時代の話なのにみんなチョンマゲを結って現代の着物を着ている。現代の話であってもじつに奇妙な格好をしている。当時の日本人にエキゾチズムとセンスオブワンダーを感じさせるために歌舞伎も文楽もあったからだ。ヲタク文化の神髓だ!

 この手の話を識るには須永朝彦の 『歌舞伎ワンダーランド』を最初に読むのがよろしかろうが、この本はヲタク論としても東浩紀なんかより格段に優れているとあたしは考える。この本を読んだ先は『郡司正勝刪定集』なんかが面白いが、それよりなにより歌舞伎を観ろ!ほんとはヲタク文化を深く論じるには文楽のほうが遥かに適しているだが、歌舞伎さえ観たことのない者には説明のしようがない。少なくとも歌舞伎を識らない者がヲタク文化を論じていたらそれはすべて出鱈目だと考えたほうがよい。その前にすべて默らせてもらいたいもんだ。
 あたしが歌舞伎や文楽を観はじめた20年前は劇場はがらがらで若い者などほとんどいなかったが、いまでは若い者であふれている。これは日本人が明治以来しばらく失ってしまっていたヲタク魂の復活以外のなにものでもない。この復活というのが判ってない輩はヲタク文化をなにも理解していない。

 ちょっと話は変わるけど、歌舞伎が門閥主義であるのは武士の影響が強い江戸だけの話で、歌舞伎の本場である上方では江戸時代から完全実力主義だったのですよ。どんな名門の息子でも最初は子供芝居からはじまって、中芝居で人気を得たら大歌舞伎の舞台に立つことができるというのが普通で、逆に生まれは何でも人気さえあれば頂点に立つことができたのです。江戸では考えられないことです。文楽はいまでも家に関係のない実力主義ですが、関西人のホンネ志向の顕れです。唐沢俊一さんも歌舞伎について発言するなら江戸時代の歌舞伎についてもうちっと勉強していただかないと。『役者論語』なんかは最初期の元祿の話だから現在の歌舞伎と同じく厳密には歌舞伎とは呼べませんので。
 さて、こんな形式に囚われない自由主義のために戦後は市川雷蔵を初めとしてみんな映画に進出し、おもろければ何でも受け入れる関西の客もこれを容認し、上方歌舞伎は崩壊してしまったわけです。門閥だのにこだわる江戸歌舞伎は役者と観客の流出に歯止めが掛かって存続することができた。いまでもくだらない権威主義があるからこそ役者が留まっているので、そうでなければ全員松たか子になっていると想います。

 2ちゃんねるの伝統芸能板を観れば判るように歌舞伎ファンというのはほとんどが役者のミーハーファンで、小難しいことは云わずに江戸時代そのままのじつに正しい態度で愉しんでいる。こういうところにヲタク的教養は確かに受け継がれている。ヲタク文化を論ずる者はきちんとこの<世界>を踏まえるように。
 判りましたネ。

 歌舞伎でのやおいやヲタク要素の具体的ありかたは2001/12/28 因果は巡るも参照のこと。

 2002/5/9 ヲタク的教養とは何か2も参照のこと。

 
 
   


2002/2/28  二人近松

 東京の国立劇場では毎年2月に近松門左衛門の世話物中心の三本立てをやってるのだけど、今年は近松半二の『奥州安達原』を併演していた。近松の世話物を三本続けて観るとへとへとに消耗するので、これはありがたい。
 『奥州安達原』の三段目はほんとにもう素晴らしい出来で、作劇として完璧だな。前回述べたような近松の世話物の息苦しくなるような完璧ではなく、あらゆる意味で完璧。ギリシア悲劇なぞ問題にならん。
 一人遣いの素朴な人形と舞台機構に向けて書いた近松門左衛門と、現在と同じ三人遣いの複雑な人形に向けて書いた近松半二とでは当然ハンデがあって、劇作家としての力量は甲乙つけがたいが、現在の文楽で観る限りに於いてはやはり近松半二が最高と云わざるを得ない。世界的にも文楽&近松半二という組み合わせを越える完璧なる作劇はほかにあるまい。
 近松門左衛門が歌舞伎から文楽に転じて近松半二までの60年間は文楽の黄金時代で、傑作が立て続けに上演され観客があふれ、「歌舞伎はあって無きがごとし」とまで云われた。
 60年と云うと短いようだが、手塚治虫の『新宝島』が出版されて現代まんがが始まってから今年で55年、そのあいだアニメだけになって実写の映画やテレビドラマがなくなったようなもんだ。実際には日本の現代アニメが始まったのは44年前の『白蛇伝』か39年前の『鉄腕アトム』か、なんにせよこれほどアニメが盛んになってもそれほどの威力を発揮したことはまだあんまりない。世界の歴史上にもほかにこんな例はない。
 衰微した歌舞伎はやむなく文楽の演目を上演するようになり、また人形の演技をそのまま取り入れるようになった。歌舞伎の反現実的で象徴的な演技の型は文楽からの直輸入されたものである。

 近松半二が死んだ後は何故か文楽のまともな新作がまったく出なくなり、客もまったく入らなくなり、じつに200年間壊滅的な低迷を続け、いつ消滅するかと云われ続けて、客が戻ってくるようになったのはこの20年ほどのことである。
 近松半二のあの完璧な作品を観せられるとあとから新作なんか書く意慾もなくなろうというもんだが、じつは『奥州安達原』で近松半二が一本立ちした2年前の竹本座、豊竹座の相次ぐ焼失によってすでに黄金の60年は幕を閉じていた。これほどの傑作でも客は入らず、そのためなのか最期の完成者として当然なのか近松半二の作品は次第にバロック化する。凄いのは均整取れた構成とバロック化した構成がともに矛盾無く完璧に融合していたことで、これは華麗なる人形の特質である象徴性と一体化することによって作品世界を自在に操れたことによるもので、大近松の世話物の如くに人形の象徴性に押しつぶされて息もできなくなるのとは対称的だ。
 繰り返すが、大近松のほうは一人遣いの素朴な人形に当てて書かれており、後世の人形で後世の演出で観せられるからそうなるのであって、近松門左衛門の責任ではまったくない。しかし、現在観ることのできるのは三人遣いの文楽だけであって、想像するしかない理想の大近松とは違って近松半二の作品はこんにち観ることのできる最高傑作だ。
 ちょっと前までは若い者が文楽を観るなんてことはおよそ考えられないことだったが、いまでは若い観客であふれている。ヲタク文化の隆盛と無縁のことではないとあたしは想っている。
 いまのまんがやアニメは発達したようでいてまだ近松半二の域までは達していないが、いずれはと夢想する次第ではある。
 一方ですでに壊滅的な衰微は始まっているような気もするが。あの近松半二と滅びが同時にあったというのも、滅びながらも消滅せずに生き延びたのもヲタク文化らしいと云えば云えるのかも知れん。

 
 
   


2002/2/27  近松の逆説

 何故か毎年2月にやることになってるらしい近松門左衛門の世話物を文楽で観る。
 近松はやっぱり世話物より時代物のほうが優れているとあらためて感じる。時代物は浄瑠璃を読んでも面白いし、現在も上演される数少ない演目を観ても面白い。もともと世話物は一段落ちると想うが、現行の演出の問題がまた大きい。
 ドナルド・キーンの有名な評論があって、「近松の世話物は世界で初めて王侯貴族でない一般庶民を主人公とした悲劇であるが、つまらないみじめな男女が心中の道行に出で立つときに、その道行のはなやかな文章とともに悲劇の英雄と化し、急に人形の背が高くなる」というような内容である。残念ながらあたしにはそう感じられない。そもそも悲劇であると考えるのが間違っていると想う。
 当時の観客である大坂の町人にとって遊女と心中することほど莫迦莫迦しいことはない。遊女というものは金さえ払えば身請けができて、夫婦になるも妾にするもなんの障碍もない。そんな金もない甲斐性なしが遊女に惚れることがまず莫迦である。その上に人に騙されたり何より大切な客の金に手をつけたりして死ぬしかなくなる。もう、莫迦の極みだ。
 この遊女と心中する莫迦莫迦しさが現代人には感覚的によく判らない。演じ手にもよく判ってないような気がする。
 明治以降、欧米の影響からリアリズムの心理劇がエライということになって、「日本のシェイクスピア」とか訳の判らん形容で近松の世話物がやたらと持ち上げられるようになった。初演以来ほとんどの作品は250年間上演されずに台本以外は何も伝わってないため現在の舞台は戦後にゼロから組み上げられたものだが、そんな流れのなかで完全な悲劇に仕立てられている。
 浄瑠璃を読んだだけでは想像し難いが近松の世話物は構成が恐ろしく緻密にできていて、現行の演出だともうギリシア悲劇の如くだ。みじめな庶民どころか最初からまるで神々の話のようにさえ感ずるし、悲劇に向かってぎちぎちの理詰めで収斂していくように感ずる。ギリシア悲劇どころかエウリピデスをさらにもう一段洗練させたような印象さえ受けるし、なんせ華麗な人形が演ずるわけだからますます構成に一分の隙もなく、息を抜くところがまったくない。幾何学的構成が演劇の魅力で余計なものが削ぎ落とされる象徴性が人形の持ち味とは云え、ここまで完璧だと感動もできずに観ていてへとへとに疲れるだけだ。
 歌舞伎のほうの『曽根崎心中』は戦後に台本を書き足されたもので猥雑な感じがいい效果を上げているし、また同じく大坂の浄瑠璃である『仮名手本忠臣蔵』なんかは江戸風の演出が定着しているのに近松の世話物だけは上方の役者の独擅場としてアドリブを効かしたじゃらじゃらとした演技が生かされ、とにかく主人公が莫迦なことだけは非常によく判るようになっている。莫迦が莫迦をやった挙げ句に理屈抜きに突如として華麗な道行となり、なんだかよく判らんままに悲劇的な最期に感動させられる。
 ドナルド・キーンの評論はなかなかいい処を突いていて、しかし、悲劇だから背が高くなるのではなく、背が高くなるから悲劇になるわけだ。
 あたしは義太夫物を歌舞伎でやるのはあまり感心しないが、近松の世話物だけは歌舞伎のほうが優れていると想う。もっとも、鴈治郎が生きてるうちだけなんだろうが。
 文楽でものちに書き替えられた浄瑠璃で上演されるものは窮屈な構成を崩すようなやり方を施されており、近松そのままより面白い。

 近松の時代物には必ずあるチャリ場(笑わせる場面)が世話物にはあまりないが、お話全体がまず喜劇として前提されているからだとあたしは想う。
 今月上演された『堀川波の鼓』は、武士の妻がひょんなことから好きでもない相手と姦通し、一家揃って女敵討(めがたきうち)に行かなければならなくなる話で、こっちは当時の大坂の町人が感じたであろう莫迦莫迦しさが我々にもよく判る。演じ手も大真面目にやるほど滑稽になることが判って演っているようでなかなか面白い舞台ではあるが、最期まで莫迦莫迦しいので感動はできない。じつはこれこそ悲劇としてやるべきではないかと考える。とにかく当時実際にあった事件で、人がふたり死んでいるのであるから。
 近松の世話物は単純なようでいて、なかなか難しい綱渡りの上に成り立っているわけだ。現在の文楽では残念ながら浄瑠璃の表面的な文言に簡単につられてしまっている。直線的なリアリズムの心理劇とかいうのがいかに浅はかかということだ。とくに人形はリアリズムだの心理劇だのを目指すほど象徴性が高まるという性質があり、中村歌右衛門の資質と近かったりする。近松門左衛門が歌舞伎から文楽に転じたのは、なによりこういう逆説的なやり方に適した形式だったからだとあたしは考えているのだが。
 あたしがこれまで文楽で観た近松の世話物のなかでもっとも面白かったのは『長町女腹切』だが、なんとも不思議な話の挙げ句に女が切腹するというゲテモノだ。こういう話は直線的なリアリズムの心理劇などというのは最初から成り立たず、おそらく近松の狙いとはもう一段逆のアプローチからだろうが、結果的に綱渡りが成功してしまっている。
 『女殺油地獄』も面白いが、世間で云われるようにリアルな話だからでは決してなくゲテモノであるからだ。とくに油に滑りながら人妻を斬り殺す殺し場は歌舞伎よりも人形のほうが遥かに凄慘でぞくぞく来る。こういうゲテモノは人形の象徴性が存分に生きる。

 近松門左衛門が歌舞伎から文楽に転じたのは第一に台本を無視して勝手なセリフを話す役者が嫌だったからなんだが、勝手に台本をいじってアドリブを云う歌舞伎のほうが近松上演で成功している現代はあまりよろしくない逆説ではある。
 そのままの浄瑠璃で人形を遣って成功させる方法は絶対あるはずなんだが。そして、まさしくそれこそが人形浄瑠璃の本来の姿を復活させることであり、文楽自体の背が高くなる道行のはずではある。

 
 
   


2001/12/28  因果は巡る

 50年ぶりの全通しとかいうことで国立劇場の『三人吉三廓初買』を観る。
 ひさしぶりの歌舞伎なのにまた苦手の幸四郎。あたしが歌舞伎をほとんど観なくなってから幸四郎シンクロ率が70%を越えておる。それだけ珍しい演目をやってるということかな。同じく珍しい復活演目をよくやってる菊五郎はなんか観逃しておるというに。
 もっとも、七五調のせりふとガチガチの構成とで絡め取られた黙阿弥芝居では幸四郎は逆に生きる。悪くない。

 赤の他人のはずの三人がなぜか同じ吉三という名で義兄弟となり、じつは親子だったり、親のカタキなり、近親相姦なり、また同性愛なり、殺し殺され盜み盜まれ、登場人物たちがおよそ考えられる限りのあらゆる関係を互いに結んでゆく。その人々の間を名刀庚申丸と金百両が複雑に流れてゆき、最後にこのふたつのアイテムが揃ったときに張り巡らされた因果は緘じ、三人吉三は差し違えて死ぬ。
 主役は明らかに庚申丸と百両で、これは何かというと関係の視覚化で、つまり張り巡らされたリンクそのものが物語の主眼である。丸まっちいものとトンがったものの結合は、アムロがビームサーベルでララァのエルメスを貫いたのと同じリンクを象徴しているのでしょう。
 七五調の流麗華美なるせりふも登場人物の心情やテーマを語るものではなく、ただ調子よく美麗な形象を形造るためだけのものであって、前後の言葉との関係から紡ぎ出されて成り立つものである。また、八百屋お七と寺小姓吉三との恋物語を踏まえている。
 日本のヲタク文化が先行する作品を踏まえるのは、ネタに困窮したゆえのパクリではなく、パロディーでもたんなるリスペクト引用でもなく、何かと結びついていることそのものに意味があるのである。なにゆえか孤立が重要らしい歪んだ西洋文化とはまったく違う。ヲタク作品にオリジナリティーなど求めるのは、ウェブ上にサイトを構えながらリンク拒否しているようなもんで、根本的錯誤ではある。
 とくに黙阿弥は因果(リンク)にもっともこだわる作者で、そのなかでも『三人吉三』は極めつけ。ここまで縱横に絲が張り巡らされ雁字搦めだと登場人物はもはやたんなる人形で、幸四郎の如きリアリズム演技のはみ出し具合が却って面白味となる。どれほど歌舞伎らしくなくやっても簡単に跳ね返すほど強靱なる構築が事前に施されている。
 戦後ずっと上演されてきたダイジェスト版『三人吉三巴白浪』では三人のアウトローの物語で因果は背景に過ぎなかったが、今回の復活で因果が主役だとはっきりした。もっとも、あたしには観ててよく判らんところがあって、原作に当たってみたらやっぱり肝心なとこが切られてる。ミッシングリンク回復のための復活上演のはずなのに、もうちょっとなんとかしてもらいたいもんだが。

 染五郎の女形は相変わらず評判著しくないようで。あたしはというと一年前の桜姫の時と比べて女形が板についてきていたのに感心する。
 もちろん、あやうい刹那は眼に余るほどあるものの、こういう危なっかしい時期こそ女形としてもっとも美味しい頃合いのような気もする。
 問題はあやうさの中身で、これまで芸の未熟な女形は幾人も観てきたけど、女に成り切れない女形というのはあたしは初めてだ。『加賀見山』の岩藤のようにゴツい立ち役がわざと扮する役処さえ男と女の境界が真にあやうくなることはまず無い。演出としてやることはあるものの、役者の存在の破綻としては観たことが無い。画期的なことで、これこそ女形の原点ではあるまいか。このあたりを突いた評がないのは解せんな。
 もっとも、お嬢吉三はじつは男なんであって、しかもじつは八百屋お七という役であるから女形として評価するのはなかなか簡単ではない。
 歌舞伎は先行する作品を踏まえるのだから、そのへんの町人がいきなり「じつは曽我五郎」とか「じつは八百屋お七」というのは珍しくはないが、ほんとに八百屋お七ならお坊吉三との関係が同性愛として成立せず、生まれ変わりとしても妙なもので、そもそもお七の相手であるはずの吉三の名を名乗ってるのだからややこしい。もともとふたりの役をミックスして三人に分割したのは、吉三に3が入ってることやたまたま主役級の役者が三人いたからなんだろけど、よく識られた物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという歌舞伎の第一テーゼであるところのその趣向の対象として<関係>そのものが扱われるようになったということでもある。
 リンクの先にあるものではなくリンクの張り方そのものが芸となる。黙阿弥の前にこんな多重のメタ次元のことをやったものがいるのかどうかすぐには想いつかんが、因果に拘った幕末の歌舞伎の完成者である黙阿弥ならではの趣向ではある。ヲタク文化を論ずる者はこのあたりはきちんと押さえておくように。

 今回復活されたミッシングリンク・木屋文里の場で、和尚吉三の幸四郎が二役で文里をやっていた。しかし、恋仲の一重はさすがに地味な正統派女形は無理と判断したのか染五郎ではなかった。本来はお坊吉三と恋仲のお嬢吉三の役者が和尚吉三の恋仲も二役同士で勤めることで、三人吉三の歪な愛慾三角関係が緘じるはずなんだが。実際、初演時の配役はそうなっとる。
 これは物語としての円環が緘じるだけではなく、人気役者同士のやおい組み合わせを客にすべて見せることに重点があることに注意。歌舞伎は最初からこういうメタ構造を持つ。
 評論家の劇評を読むと「現代にも通ずるリアルな世界観」とか「登場人物の心理描写の掘り下げ」がとか相変わらず見当はずれの文言が並んでて、やおい作品にこんな評を大真面目にやってると考えればいかに莫迦かが判ろうと云うもんだが、この二役問題に触れているものがなくもう致命的だ。染五郎の出番が少なくて悲しいと嘆いているお姉さま方のほうが的確に芝居を観てる。黙阿弥はファンにこんなことを云わせる作劇を決してしなかった。
 染五郎は出突っ張りで何層にも関係を構築すべきであった。恋人同士にならなければせっかく親子というリンクをしょって競演した甲斐がない。
 もっとも、文里と一重の悲劇的な最後が今回は切られていて、親子でこれをやってくれたら、男女の境界に破綻というリンクを張ってくれたら、黙阿弥の目論見以上に完璧なんだが。

 まあ、なんのかんのと云いつつ、脇までなかなか揃っていて大いに満足する。
 あたしは文楽を観るようになってから文楽を原作とする義太夫歌舞伎は莫迦莫迦しくて観る気が失せてしまったし、南北物は役者の当たり外れが大きいと云うかほとんど外れしか観たことがない。それが、黙阿弥の通しは全部当たりだった。やっぱりぎちぎちの構成だと少々役者に難ありでも安心して観ていられる。
 あたしはこれからはもう歌舞伎は黙阿弥だけでいいな。ほんとは南北を揃った顔ぶれで観たいのだけど。
 なお、これは減点法でしか観れなくなってしまった字義通りの半可通の見解で、初心者は細かいことは気にせず南北のぶっ飛んだ芝居なんかから観ることをお獎めする。
 ただし、誰の作にせよ最初から最後までやる<通し>で観ること。リンクが切れてしまっては歌舞伎など観る意味はまったくありませぬ。
 いや、いくつかの幕だけやる<みどり>てやつがやたらと多いのです。リンクが切れたウェブみたいなもんで嫌い嫌い大嫌い。

 
 
   



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