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『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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2002/2/27  近松の逆説

 何故か毎年2月にやることになってるらしい近松門左衛門の世話物を文楽で観る。
 近松はやっぱり世話物より時代物のほうが優れているとあらためて感じる。時代物は浄瑠璃を読んでも面白いし、現在も上演される数少ない演目を観ても面白い。もともと世話物は一段落ちると想うが、現行の演出の問題がまた大きい。
 ドナルド・キーンの有名な評論があって、「近松の世話物は世界で初めて王侯貴族でない一般庶民を主人公とした悲劇であるが、つまらないみじめな男女が心中の道行に出で立つときに、その道行のはなやかな文章とともに悲劇の英雄と化し、急に人形の背が高くなる」というような内容である。残念ながらあたしにはそう感じられない。そもそも悲劇であると考えるのが間違っていると想う。
 当時の観客である大坂の町人にとって遊女と心中することほど莫迦莫迦しいことはない。遊女というものは金さえ払えば身請けができて、夫婦になるも妾にするもなんの障碍もない。そんな金もない甲斐性なしが遊女に惚れることがまず莫迦である。その上に人に騙されたり何より大切な客の金に手をつけたりして死ぬしかなくなる。もう、莫迦の極みだ。
 この遊女と心中する莫迦莫迦しさが現代人には感覚的によく判らない。演じ手にもよく判ってないような気がする。
 明治以降、欧米の影響からリアリズムの心理劇がエライということになって、「日本のシェイクスピア」とか訳の判らん形容で近松の世話物がやたらと持ち上げられるようになった。初演以来ほとんどの作品は250年間上演されずに台本以外は何も伝わってないため現在の舞台は戦後にゼロから組み上げられたものだが、そんな流れのなかで完全な悲劇に仕立てられている。
 浄瑠璃を読んだだけでは想像し難いが近松の世話物は構成が恐ろしく緻密にできていて、現行の演出だともうギリシア悲劇の如くだ。みじめな庶民どころか最初からまるで神々の話のようにさえ感ずるし、悲劇に向かってぎちぎちの理詰めで収斂していくように感ずる。ギリシア悲劇どころかエウリピデスをさらにもう一段洗練させたような印象さえ受けるし、なんせ華麗な人形が演ずるわけだからますます構成に一分の隙もなく、息を抜くところがまったくない。幾何学的構成が演劇の魅力で余計なものが削ぎ落とされる象徴性が人形の持ち味とは云え、ここまで完璧だと感動もできずに観ていてへとへとに疲れるだけだ。
 歌舞伎のほうの『曽根崎心中』は戦後に台本を書き足されたもので猥雑な感じがいい效果を上げているし、また同じく大坂の浄瑠璃である『仮名手本忠臣蔵』なんかは江戸風の演出が定着しているのに近松の世話物だけは上方の役者の独擅場としてアドリブを効かしたじゃらじゃらとした演技が生かされ、とにかく主人公が莫迦なことだけは非常によく判るようになっている。莫迦が莫迦をやった挙げ句に理屈抜きに突如として華麗な道行となり、なんだかよく判らんままに悲劇的な最期に感動させられる。
 ドナルド・キーンの評論はなかなかいい処を突いていて、しかし、悲劇だから背が高くなるのではなく、背が高くなるから悲劇になるわけだ。
 あたしは義太夫物を歌舞伎でやるのはあまり感心しないが、近松の世話物だけは歌舞伎のほうが優れていると想う。もっとも、鴈治郎が生きてるうちだけなんだろうが。
 文楽でものちに書き替えられた浄瑠璃で上演されるものは窮屈な構成を崩すようなやり方を施されており、近松そのままより面白い。

 近松の時代物には必ずあるチャリ場(笑わせる場面)が世話物にはあまりないが、お話全体がまず喜劇として前提されているからだとあたしは想う。
 今月上演された『堀川波の鼓』は、武士の妻がひょんなことから好きでもない相手と姦通し、一家揃って女敵討(めがたきうち)に行かなければならなくなる話で、こっちは当時の大坂の町人が感じたであろう莫迦莫迦しさが我々にもよく判る。演じ手も大真面目にやるほど滑稽になることが判って演っているようでなかなか面白い舞台ではあるが、最期まで莫迦莫迦しいので感動はできない。じつはこれこそ悲劇としてやるべきではないかと考える。とにかく当時実際にあった事件で、人がふたり死んでいるのであるから。
 近松の世話物は単純なようでいて、なかなか難しい綱渡りの上に成り立っているわけだ。現在の文楽では残念ながら浄瑠璃の表面的な文言に簡単につられてしまっている。直線的なリアリズムの心理劇とかいうのがいかに浅はかかということだ。とくに人形はリアリズムだの心理劇だのを目指すほど象徴性が高まるという性質があり、中村歌右衛門の資質と近かったりする。近松門左衛門が歌舞伎から文楽に転じたのは、なによりこういう逆説的なやり方に適した形式だったからだとあたしは考えているのだが。
 あたしがこれまで文楽で観た近松の世話物のなかでもっとも面白かったのは『長町女腹切』だが、なんとも不思議な話の挙げ句に女が切腹するというゲテモノだ。こういう話は直線的なリアリズムの心理劇などというのは最初から成り立たず、おそらく近松の狙いとはもう一段逆のアプローチからだろうが、結果的に綱渡りが成功してしまっている。
 『女殺油地獄』も面白いが、世間で云われるようにリアルな話だからでは決してなくゲテモノであるからだ。とくに油に滑りながら人妻を斬り殺す殺し場は歌舞伎よりも人形のほうが遥かに凄慘でぞくぞく来る。こういうゲテモノは人形の象徴性が存分に生きる。

 近松門左衛門が歌舞伎から文楽に転じたのは第一に台本を無視して勝手なセリフを話す役者が嫌だったからなんだが、勝手に台本をいじってアドリブを云う歌舞伎のほうが近松上演で成功している現代はあまりよろしくない逆説ではある。
 そのままの浄瑠璃で人形を遣って成功させる方法は絶対あるはずなんだが。そして、まさしくそれこそが人形浄瑠璃の本来の姿を復活させることであり、文楽自体の背が高くなる道行のはずではある。