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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2006/11/10  手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はウソ

 「ぱふぱふ」はなぜ消えたのか、聞こえない音、エロい日本のドラクエというのを読んでいると「最強はやはり手塚治虫が考案したと言われる無音を表す擬音「シーン」です。まさに神の仕事です。」なんてな一文にぶちあたる。
 うーん、手塚治虫が考案ってほんまかいな。無音を表す表現として「森」というのは昔からあるけどな。
 「しん」を「シーン」に変えたのが手塚だということか。あるいは、描き文字にしたということか。はたまた、その刹那に無音を表す擬態語という、まあ想定できなくもない表現を、無音を表す擬音という、矛盾、逆説、反対物の合一に変容させてしまって、驚天動地の言葉の革命が為されてしまったということでもあるというのであろうか。
 太鼓をゆっくりと静かに鳴らす歌舞伎の「雪音」は、あくまで雪の降る音を表現しているのであって、無音を表しているわけではないし、「シーン」の登場は確かにひとつの画期ではあったのやもしれぬ。
 
 手塚云々についてはもひとつもやもやと胸に落ちぬまま、そもそも無音を表す表現として「森」というのはいつ頃からあるのであろうかと検索してみれば、『坊っちゃん』に「もう足音も人声も静まり返って、森としている。」というのが出てくる。
 検索してみて驚いたのは、「森としている」という言葉が、漱石や芥川、下村湖人、宮本百合子なんかの再録を除くと、現代のウェブに於いて使用している人が4人しかいないという事実だ。
 いや、もっと驚いたのは絶望書店主人がこれまでただの一度も「森としている」と記していなかったらしいことではある。これには随分驚いた。いかにも絶望書店主人が使いたがりそうななにやら小難しげな嫌らしい言葉ではあるのに。
 「森として」になると本来の緑のモリの使用例が多くて、擬音だけを抽出する検索語も「静か」「擬音」くらいしか想い付けないうえにこれではうまくいかず、よく判らんな。
 緑のモリの「森として」なんてへんちょこりんな云い廻しを使ってる人がこれだけ大勢いて、森に隠されて埋もれてしまうほど少ないことだけは確かなようで。

 さらに小学館『日本国語大辞典』(全13巻のごっついやつね)を繙くと「お座敷は三月しんとしづまりて」(俳諧・毛吹草 1638年)、「各(おのおの)しんと座をしむれば」(滑稽本・古朽木 1780年)、「雪の夜で蕭然(シン)としてゐるから」(三遊亭円朝・真景累ヶ淵 1869年頃)、などの用例が出てくる。
 『坊っちゃん』は1906年で、前年の『琴のそら音』でも「頭の中へしんと浸み込んだ様な気持ちがする」と漱石は使っているけど、こっちは躯に浸みるという意味ですな。
 ちなみに、「しいん」だと「四辺(あたり)はシインとして来る」(久保田万太郎・末枯 1917年)、「彼女の心はしいんとしたなりで」(有島武郎・星座 1922年)、などの用例しか『日本国語大辞典』にはなく、それ以前はないのかも知れぬ。
 青空文庫で検索してみても、水野仙子『ある妻の手紙』の「朝の氣の漲つたぐるりは清淨で、そしてしいんとしてゐました。」1917年が一番古いか。「どんぐりは、しいんとしてしまひました。それはそれはしいんとして、堅まつてしまひました。」という宮沢賢治『どんぐりと山猫』は1921年か。
 ただ、青空文庫は初出情報が抜けてるのが多いのでよく判らんな。欠かせぬ情報で、テキスト化するための本が手元にあればすぐに記せることなのになんで抜けてるのが多いんだろ。その他の情報も載せた「図書カード」へのリンクが本文にないのも不便だけど、なんでだろ。
 『大漢和辞典』『字通』を見ても「森」の字自体には静かという意味はないようで、あるいは「しんと」に「森」の字を当てたのは洋行帰りの漱石が最初だったということはあるかも知れん。石川啄木『天鵞絨』の「世の中が森と沈まり返つてゐて」は1908年か。
 
 歌舞伎の下座の無音の表現としては、「雪音」よりも「山おろし」のほうが近いような気がする。元々は山の風の音を模したものだろうが、いまではすっかり様式化して山奧深くのおごそかな印象を醸し出すための効果音となっている。いや、おそらくは最初からこういう効果を狙って太鼓をどろどろと鳴らすのであろう。
 無音と山奧だとか森だとかはやはりなんらかの繋がりがあるらしい。「森」という字に静かという意味はないが、おごそかだとか鬼気迫るといったような意味では古来使われていて、「森」などという絶望書店主人の如き輩が使いたがるようなはったりめいた重さを拭った「シーン」になったことは意味のあることやも知れぬ。
 「しんと」もやはりなにやら重たい引き締まった意味を背負ったままの擬態語であって、意味を脱した軽やかなる擬音の境地まではまだ達しておらぬように感ずる。
 
※追記
 青空文庫で「シーン」を検索してなかった。『日本国語大辞典』に無音の意味では載ってなくて、引きずられてた。
 島崎藤村 『岩石の間』の「余計にシーンとした夜の寂寥が残った。」1912年がちょっと調べた範囲では一番古そうだ。なんだ、「しいん」より古いのか。
 小林多喜二『人を殺す犬』の「瞬間シーンとなった。誰の息づかいも聞えない」は1926年。中里介山『大菩薩峠 流転の巻』の「満場をシーンとさせました。」はウェブ上では何年か判らんな。こんなとこがウェブはまだまだですな。
 青空文庫全文検索サイトの「初出年順」というのは何を元にしてるんでしょうか。初出情報がないものも含めて微妙に正しいようなズレてるような順番に並ぶけど。なんの説明もないので判らない。
 『日本国語大辞典』には「彼女の心はしいんとしたなりで」と掲載されてる有島武郎『星座』が青空文庫では「しーん」になってるな。手塚治虫じゃないけど、あとで書き換えることもあるし、それほどは当てにはできんけど、少なくとも手塚治虫より前に「シーン」が存在したことだけは間違いない。
 
 あらためて見て回ると、手塚治虫が「シーン」を発明というのは結構広まっておりますな。
 最初にこんなことを云い出した輩がどういう意味合いで云ってるのかはよく知らんけど、ウェブ上で見る限りではみなさん普通に「シーン」という擬音を考え出したと信じているようで。ウェブ上の情報だけでも簡単に間違いだと判ることなんですけどな。
 ちょっと、積極的に間違いを正しておくか。
 つーか、手塚治虫本人が自分が最初と云ったっぽい。さもありなん。裏は取れてません。
 
※さらに追記
 「吹風日記」へのトラックバックがうまくいかんな。こいつの影響なんか。
 へたれ引き籠もり絶望書店日記開闢以来初のトラックバックだったのに。
 
※しつこく追記
 手塚治虫『マンガの描き方』に「シーン」についての言及があるとご教示いただきました。
手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はホントをご覧ください。
 
 
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