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『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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Archive for カテゴリー'文楽・歌舞伎'

2008/12/31  『盟三五大切』の謎が完璧に解けた!

 鶴屋南北の『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)では、最後に薩摩源五兵衛が「こりやかうなうては叶ふまい」というよく判らないセリフを吐く。
 これまでいろんな人がこのセリフについての解釈をしているが、あたしにはどうにもピンとこないでいた。それが、管賀江留郎氏の江戸時代のモテない男の無差別殺人事件を読んで、初めてこの芝居の構造が判り、このセリフの意味がはっきりした。いや、思わず知らず「こりゃこうのうてはかなうまい」と呻くこととなった。
 初演から180年間、これまで誰ひとりとして読み解くことができなかったこの芝居の意味を知るや、諸氏も思わず知らず「こりゃこうのうてはかなうまい」という言葉が口から漏れるに相違ない。また、南北の恐るべき忠臣蔵の読み取りも判明して驚愕することとなろう。
 順を追って説明してみる。

 この芝居は、文政7年(1824)7月28日に江戸深川の妓楼で松平因幡守辻番の足軽野村三次郎が5人を殺害した実際の事件を元にしている。加藤曳尾庵『我衣』(『日本庶民生活史料集成 第15巻』収録)によると、馴染みの遊女哥咲に怨みを抱いて殺そうと夜中に押し入ったが従業員の男に留められ斬り殺して逃走、明け方にもう一度押し入り遊女4人を斬り殺し、先の殺した男の死骸を引き取りに来た男1人を重体、料理人を軽傷とする執念深さだった。後日の改めて情報を集めた記述では遊女3人は重傷を負わしただけで死んでないようにも読み取れるが、いずれにしても肝心の怨んでいた哥咲が逃げて無事だったことには変わりない。
 足軽は逃亡し、あるいは逃した遊女の行方を追っていたのかも知れないが、恨みを晴らせないままに8月1日に銀座で逮捕された。
 怨んでいた理由は判らないが、とくに漏れ伝わらなかったということはごく普通に惚れていたけど振られたということだろう。少なくとも南北を含めて当時の人々はそう考えていたはずだ。
 9月に天然痘が蔓延し、医者だった加藤曳尾庵は多忙を極めたので日記の更新はなくなり、そのまま年末に、これまで役にも立たないことばかり二千枚以上も書いてきた我が罪が恐ろしく「もはや一筆も起すまじと心にかたくちかいける」とブログ終結宣言を出して、くだらないことばかり書く罪も一向に自覚せず未練がましく一年ぶりに書いたりするどこやらの痴れ者とは違ってほんとに一筆も起さなかったので、この足軽がその後どうなったのかは定かではないが、間もない頃に死罪となったのは間違いないと思われる。

 『盟三五大切』は翌年の9月25日の初演だが、並木五瓶の『五大力恋緘』(ごたいりきこいのふうじめ)の<世界>なのに、五人斬りの場面で惚れた芸者の小万に逃げられてしまうのはこの事件を踏まえているからだ。
 それからしばらくのちに小万の殺し場があるのは、振られた怨みある女を討ち漏らしたまま死刑となったモテない足軽の無念を、忠臣蔵と同じく一年後に晴らすという、<非モテ忠臣蔵>としてこの芝居を創作したということで間違いないだろう。
 小万の首を斬り落として持って帰るのは、忠臣蔵で<義士>たちが高師直(吉良上野介)の首を主君の墓がある光明寺(泉岳寺)に持ち帰ったのに対応する<非モテ義士>の武勲を示す壮挙となる。
 ところが、薩摩源五兵衛(不破数右衛門)は首と差し向かいでご飯を食べたあとに怒って首にお茶をぶっかけ、事の成就にまだ満足していない。恋敵の三五郎を討っていないからだ。
 そうなるとこの場面にある四斗樽のなかに隠れている三五郎は、炭小屋に隠れている高師直(吉良上野介)となり、その死は仇討ち成就ということになる。
 また、己には小舅となる小万の兄を殺した罪で切腹する三五郎は、主のために騙し取った金が、じつはその主のものだったという「いすかの嘴の食い違い」から、早野勘平でもあることが容易に判る。宿敵・高師直であり、早野勘平でもある三五郎が、さらには180年間誰も気づかなかったもうひとりの化身であることを知るや、「こりゃこうのうてはかなうまい」と唸ることになるのである。

 ウェブ上ではもっとも頼りになる歌舞伎評論を展開している歌舞伎素人講釈でさえもそうで、『盟三五大切』の最後が討ち入りになるのは忠臣蔵が<デウス・エクス・マキーナ>として働いていると云う人が多いのだが、明確な間違いだ。源五兵衛の側も三五郎小万の側も、忠臣蔵と関係していることは最初から強調されて、そのためにすべての事件が起きるのであって、最後に唐突に忠臣蔵なり義士なりが出てくるわけではない。
 しかし、源五兵衛は討ち入りには参加したくないという立場で関わっており、最初は女に入れあげたため、最後はその女も含めて大勢の人を殺してしまったためとなっている。それが、どうして急に<義士>に参加することになるのか。
 森山重雄『鶴屋南北 綯交ぜの世界』にあるように、これは<やつし>なのだから、源五兵衛が不破数右衛門に戻ったところで別人物になって罪が消えてしまうからだというのは明らかに正しくない。彼は不破数右衛門として罪があるから討ち入りに参加したくないと云っている。そもそも、不破数右衛門であることは最初からはっきりと割れており、これは<やつし>でさえない。
 民谷伊右衛門と小万の兄の弥助のふたりが塩冶家の金を盗んだために、その日の金蔵の当番だった不破数右衛門は殿様の勘気に触れて浪人となって薩摩源五兵衛と偽名を使うようになった。塩冶判官の松の廊下での刃傷と切腹時は、塩冶家とは関係のない部外者だったのだ。
 史実の不破数右衛門も家来を斬り殺したために主君・浅野内匠頭の勘気に触れて江戸で浪人中に主君切腹があり、赤穂藩と関係のない部外者だったために討ち入りのメンバーに入ることがなかなか赦されなかった。芝居で不破数右衛門を主人公にして、家来を犠牲にするのは、これらの事実も踏まえているのだろう。
 『盟三五大切』に於いて主人公が討ち入りに終始乗り気でないのは、判官切腹が己と直接関係ないことが影響していると思われる。それが、三五郎切腹とともに一変するのだ。

 そもそも、塩冶判官切腹とはなんなのか。『仮名手本忠臣蔵』では、高師直が塩冶判官の奥方・顔世御前に惚れて迫ったが振られたところから事件がはじまっている。
 非モテである高師直が、惚れた女の亭主でリア充の塩冶判官を切腹に追い込み、振られた顔世御前も破滅させるという、非モテにとっては痛快この上ない復讐劇となっている。なんと!『仮名手本忠臣蔵』の前半は、<非モテ忠臣蔵>だったのだ!!!!
 鶴屋南北は『東海道四谷怪談』と『仮名手本忠臣蔵』を交互に上演して<忠臣蔵>と<不忠臣蔵>の対比を見せた翌月に、『盟三五大切』に於いて単純に忠臣蔵を非モテ忠臣蔵にひねっただけではなく、『仮名手本忠臣蔵』の前半を忠実に再現することにより『仮名手本忠臣蔵』とは<非モテ忠臣蔵>と通常の<忠臣蔵>を二重に重ねた『東海道四谷怪談』とよく似た構成の狂言だったことを喝破して示したのである。
 つまり、最後に切腹した三五郎は、早野勘平であり、主敵・高師直(吉良上野介)であり、さらには驚くべきことに主君・塩冶判官(浅野内匠頭)でさえもあったのだ。
 塩冶判官切腹に立ち会って初めて、不破数右衛門は討ち入りに行くことができる。また、忠臣蔵という芝居は<世界>は、判官切腹があって初めて成り立つのである。「こりゃこうのうてはかなうまい」というセリフが出てくる所以ではある。
 家来の死に当たって妙に客観的な他人事のような云い廻しで、そのあとのセリフともつながずにひとつだけ宙に浮いたような文句で、意味の解釈以前に言葉遣いとしてあたしにはどうにも気色の悪い違和感があったのだが、これは一番肝心なものを抜いた味気ない贋物の忠臣蔵を観せられてしまうところを最後の最後に、源五兵衛と三五郎の父親の了心のふたりが互いに切腹を競い合うという役違いのじらしまでされたあとに、ようやく判官切腹に巡り逢ってほっとした、観客が役者が作者が思わず知らず口から出る言葉だったのだ。

 『盟三五大切』は忠臣蔵だけではなく、並木五瓶の『五大力恋緘』と、並木五瓶自身が書き換えた『略三五大切』(かきなおしさんごたいせつ)の<世界>を踏まえている。
 これについては、下田晴美氏という広島大学の博士課程の方が、鶴屋南北作『盟三五大切』の構造 : 五瓶の五大力物を視座としてという論文で非常に手際よくコンパクトにまとめておられる。pdfだが、初演の絵本番付画像があるのでなかなか貴重だ。
 女の首の前で茶漬けを食う場面が源五兵衛と三五郎にどう振り分けられてるかなんて細かい話は読む必要はないが、ともかく漠然と設定をいただいているだけではなく、極めて細かく緻密に計算されて取り入れていることだけは知っておいたほうがよい。忠臣蔵や四谷怪談も漠然と<世界>を取り入れているだけではなく、これほど緻密な計算があると裏付けできるからである。

 さらには、初演は一番目が明智光秀物の『時桔梗小田豊作』(ときもききょうおだのできあき)、二番目が『盟三五大切』という構成で、「盟」というタイトルは明血(明智)を掛けているんだろうから、明智光秀の<世界>も取り入れていると考えたほうが自然だろう。
 そうなると主殺しの主題が隠されていると見るべきで、討ち入りに参加するために、あるいはそもそものその復讐劇の<世界>を成立させるために主である塩冶判官(浅野内匠頭)を無理やり切腹に追い込むという、まさしく『金枝篇』の<王殺し>の如き話と捉えるしかない。ほかに明智物との共通点が見い出せないからだ。
 三五郎切腹は単なる<見立て>ではなく、判官切腹そのものなのである。最初から明らかにされている忠臣蔵や義士が<デウス・エクス・マキーナ>なのではなく、なんの前触れもなくまったくの唐突に最後の最後に顕われて<世界>を忽然と開闢する塩冶判官その人が、<デウス・エクス・マキーナ>だったのだ。

 さはさりながら、180年間誰ひとりとしてここに塩冶判官が顕われたことに気づかなかったのは無理もない。早野勘平や高師直をそこに視る眼力鋭い見巧者はいても、塩冶判官を見透かすことができるほど明確には浮き出ていない。あたしは<非モテ忠臣蔵>という構造から逆算して、ここまでようやく辿り着いた。
 南北は前月の四谷怪談に於いて一枚の戸板の目まぐるしい裏表の交差を成功させた巧みな組み立てに自信を持ち過ぎ、明確に示さずにぎりぎりの処を狙い過ぎたのではあるまいか。次月の『盟三五大切』に於いて、まったく違うと思われたふたつの筋がひとつに交わるY字型の狂言構成のカナメを明確にせずとも受け取れられると観客を己を過信したのだ。
 だからこそ、初演は不入りで早々に打ち切られ、のちの青年座による新劇とそれを元にしたATG映画『修羅』では三五郎のセリフに塩冶判官が云うはずもない言葉がいろいろ付け加えられ、さらには今年の歌舞伎座の仁左衛門はとうとう「こりゃこうのうてはかなうまい」というセリフを削ってしまった。郡司正勝さんにさえ、<世界>成立の秘鑰が見抜けず受け継げなかったのだろう。

 切腹する三五郎を明確に塩冶判官と示して演出すべきだ。さすれば、まさしく<機械仕掛けの神>としてここで芝居が<世界>が丸ごとガンドウ返しを見せる快感で小屋が打ち震え、「こりゃこうのうてはかなうまい」と一斉に大向こうから声が掛かることとなるのは絶対である。

 複雑に筋が入り乱れる南北にしては『盟三五大切』は単純で判りやすいという人がいるのだが、じつはそれは南北が一番肝心な要を軸を判りにくくしたための錯覚で、そこを明確にすれば恐ろしく重層的で複雑な作劇であることが判明し、とうてい<やつし>などという簡単なもので読み解けるような代物でないことが知れるのだ。謎が完璧に解けたとは、その向こうにある『盟三五大切』の真の大きなほんとうの謎の存在が垣間見えたということにほかならぬ。
 一点だけ触れておくと、『仮名手本忠臣蔵』の前半が<非モテ忠臣蔵>で、『盟三五大切』も<非モテ忠臣蔵>であるなら、薩摩源五兵衛は不破数右衛門であるとともに高師直でもあって、最後は此方の高師直が彼方の高師直に討ち入りして倒すことによって<世界>の円環が緘ずることとなるのだ。ほかの作者ならこじつけとなるが、南北ならここまで計算してると断言できるのである。

 一番肝心な要をしっかりと据え、もう一度、忠臣蔵の取り込み方などを検討してからこの芝居は味わうべきだ。そうして初めて、南北の<世界>の<綯い交ぜ>の真の恐ろしさ、まさしく反対物の合一、それも単にふたつの両極があるのではなく、その極そのものが常に動的に変転して最大限に振幅するそのありように腦髓を掻き廻され宇宙が捩じ切れるが如き眩暈を覚え、宇宙に罅が入る超越的快美感に身体を貫かれることになるのだ。


2004/7/31  分解されざる桜姫

 玉三郎が19年ぶりの桜姫を歌舞伎座で演った。
 これだけ待たしたあげくの史上最高傑作の再演なんだから、当然ゴールデンカップル仁左衛門との共演だと誰もが露ほども疑っていなかったのに、看板が病気で抜けた猿之助一座の助っ人として『桜姫東文章』を引っ提げて参加するという暴挙に。
 猿之助が出られない猿之助一座というのはほんとに危機的状況で、玉三郎の男気は痛いほど判るものの、なにもよりにもよって幻の桜姫をと、ファンも泣いた、あたしも泣いた。
 詳しくない方のために一応云っておくと、猿之助一座というのはスーパー歌舞伎とかいうのをやっていて、歌舞伎好きには評判がよろしくないというか別物と見られてる。たんに今風の演出とかだけではなく、古典をやっても大将の猿之助からしてヘタクソというか歌舞伎らしくない。ベテランの宗十郎や段四郎がいたころはまだしもなんとかなってたが、大将もいなくなって若手ばかりを相手に桜姫ってどーすんのとみんな困惑した。
 もっとも、こと桜姫に関しては仁左衛門(つーか孝夫)以外は誰とやっても一緒なので、半端な座組よりはこれはこれでありというか、みんなやけくそでなんとなく容認された。さすがにこんなので最後ということはなく、いつの日かきっと孝玉コンビの復活が拝めると堅く信じていることもあるけど。
 以前に記したように、あたしにとって孝玉の桜姫を観たことは人生に於いてもっとも大きい驚天動地と云っていいくらいのもので、再演には1ヶ月間ご飯を一食にして生まれて初めて1等席を取ろうと悲愴な決意を固めていたのだけど、この発表には悄然としてよっぽどスルーしようかと煩悶しつつ、とにかく幕見で観るだけ観ることにした。『桜姫東文章』が観れるかどうかはともかく、玉三郎の桜姫が19年ぶりに拝めることだけは確かなことであろうから。

 昼夜通しでやったため一番心配していたカットもなく脚本的には完璧と云ってよい。とくに清玄と桜姫が非人に仕置きされて自らも非人に墮とされる稲瀬川の場がきっちりあったのが偉い。最近、幸四郎のやった桜姫は2度ともこの場がカットされ、郡司正勝自身がいろいろ難しい問題があるとか確かどこかで云ってたので、もう出せないのかと想っていたのだが、こういう点は採算度外視で伝統を護らねばならないはずの国立劇場より歌舞伎座のほうがしっかりしている。
 お姫様が最低の処まで墮ちてまたお姫様に戻るという上下清濁の振幅が最大の眼目の芝居で、この場はカナメであるのだからあるのと無いのとでは大違い。しかし、ストーリー的には完璧なのに、19年前に口が利けなくなるほどあたくしを震撼せしめた衝撃が今回は微塵も存しなかった。

 清玄と権助を演った段治郎は、歌舞伎の家の生まれではなく、まだ若く、今回歌舞伎の主役に初めて大抜擢された無名の役者であることなどもろもろの言い訳をあえて付けなくとも非常によくやっていた。猿之助一門が大嫌いな2ちゃんの伝統芸能板でも絶賛されている。ほかの若手も悪くない。つまり、問題は誰あろう、玉三郎其の人の桜姫の裡に発したのだ。
 渡辺保は「桜姫の二重の肚(内面的な心理)が観客に手にとるようにわかるようになった彫りの深さは19年前とは比較にならない芸の円熟」と今回の玉三郎の在り方を称揚している。いかにも近代的自我とやらを追い求める保っちゃんらしい。
 保っちゃんと貌はそっくりの三島由紀夫は戦後初めて『桜姫東文章』を歌右衞門で復活させたがカットが多くてうまく効果を上げられず、10年後に今回と同じ台本の決定版を郡司正勝が舞台に載せたときにこんなことを云っている。
「女主人公の桜姫は、なんといふ自由な人間であらう。彼女は一見受身の運命の変転に委ねられるが、そこには古い貴種流離譚のセンチメンタリズムなんかはみごとに蹴飛ばされ、最低の猥雑さの中に、最高の優雅が自若として住んでゐる。彼女は恋したり、なんの躊躇もなく殺人を犯したりする。南北は、コントラストの効果のためなら、何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやり結びつけて、恐ろしい笑ひを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれこはれてゐる。といふのは、一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐないことから起る。劇が一旦進行しはじめると、彼はあわてて、それらの手足をくつつけて舞台に出してやるから、善玉に悪の右足がくつついてしまつたり、悪玉に善の左手がくつついてしまつたりする。
 こんなに悪と自由とが野放しにされてゐる世界にわれわれは生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ。ものうい春のたそがれの庵室には、南北の信じた、すべてが效果的な、破壊の王国が実現されるのである。」
 うーん、一言も付け加えることがない。あたしが19年前にくらくらと惑乱されたのはまさしくこの反対物の合一、それも単にふたつの両極があるのではなく、その極そのものが常に動的に変転して最大限に振幅するそのありように腦髓を掻き廻され宇宙が捩じ切れるが如き眩暈を覚えたのだった。
 今回の桜姫は保っちゃんも云ってるように、上下清濁正悪の振幅がじつに納得いくように昇華され統一的人格に取り込まれていて、両極の変転に無理がない。そう云えば段治郎もじつにうまく演っていたため、あの両極のややこしい二役に破綻がなかった。つまり、登場人物はそれぞれこはれてゐなかった!これではバラバラつぎはぎが肝の、桜姫にはならんのだよ!!前回の染五郎のほうが女に成り切れない女形という特異な壊れ方をしていた分、まだしも桜姫に相応しかった。19年間待って待って、やっと逢えた桜姫のなんたる正しき端正なるこのありさまかっ!!!!!
 もひとつ付け加えると、19年前には残月を左團次が演っていてこれがこの芝居の祕鑰だと想っていたのだが、あらためてそれが正しいことを再確認した。
 残月というのはじつに不思議な役処で、No.1の高僧である清玄が桜姫に通じたと誤解されて追放されると同時に、No.2の高僧である残月は桜姫の局である長浦に通じて追放される。桜姫に対してあくまで純愛を貫く清玄はそれゆえに桜姫を殺そうとして逆に殺されるが、残月はあくまで金のためにいやいや年増の長浦と引っ付いたのに追放されたのちも結構よろしく仲良くやっている。
 清玄の戯画のようでいて、もともと清玄が滑稽な役だからそうでもない。黙阿弥ならもっと幾何学的な対称性を持たせているところだろうが、南北は中途半端なまま放り出している。いなくても話は成立しそうなものなのに重要場面に顔を出し、しかし最後までいるわけでもないので狂言廻しといった風でもなく、なんだかよく判らない。強いて云えば、全体のバランスを崩すためにだけ存在する登場人物ではある。
 南北の魅力は全体のバランスがぶっ壊れているところにあるのではあるが、こんな全体のバランスを崩すためにだけ存在する登場人物はほかに想い付かない。今回の歌六は類似のよくある脇役としては及第点だが、残月としては全体のバランスを崩すほどの重しには到底達しておらずすこぶる物足りん。ここはやはり、左團次の如き滑稽なる小悪党でありながらも得体の知れない存在感を持った役者でないと勤まらん。
 最近は渋くてどっしりとしたカタキ役の人材不足で誰が考えても無理のある髭の意休なんかをやらされてるようだが、孝玉の歪んだ宇宙をさらに歪ませる重力場を帯びた左團次こそはまさしく稀代の残月役者であった。ここでも破壊の王国は屹立すること能わざらなかった!

 玉三郎は立っているだけで皆が口をぽかーんと開けてただただほへーっと溜め息付くしかない若き日の神祕的存在感役者から、たぶん歌右衛門亡きあと取って代わって指導的女形になろうとしたのか理屈っぽい演技派に変貌して、この2年くらいは昔の代表作を何十年ぶりに次々と再演してまた本来の理屈を超越した神祕的存在感を取り戻したと想っていたのだが、総纏めであるはずの桜姫でまたもや理屈っぽい演技派に墮してしまったようではある。
 しかし、今回は慣れない若手を引き連れての変則的なる指導的立場ではあった。段治郎がいくらよくやったとは云え、仁左衛門の代わりが勤まろうはずもなく、玉三郎ひとりだけで桜姫を成立させる演技プランを組み立てざるを得なかったのであろう。いや、そう信じたい。手慣れた相手の仁左衛門や団十郎と最近やった『曽我綉侠御所染』や『お染の七役』は往年の感情の昂りのいくばくかをきちんとあたしに齎してくれたではないか。
 理屈っぽい演技ではなく、あまりに桜姫と玉が一体化してしまったために異化効果さえ起こさずに上下清濁正悪の両極をするする行ったり来たりするようになっているのなら、これはなかなか厄介ではあるが。
 そんな桜姫も仁左衛門(孝夫)相手ならきっと・・・・いや、きっと・・・・
 なんか、転生前の白菊のことなんかまったく覚えてない桜姫に17年前の想いを一方的にぶつけて迫る清玄の如く、勝手なる19年前の想いを一方的にぶつけて迫ってるようでもあるが、恋というものはこういうものなので神ならぬ身では如何ともし難い。
 問題は往年の桜姫と同じものが現前に顕れたとして、あたしが19年前と同じ想いを抱けるかということのほうにあったりするのだが、こちらははなはだ心許なし。くだらない智識ばかりが引っ付いてしまって、まさにすでに識ってしまったことは何の役にも立たぬ。
 役者に理屈っぽいだの壊れてないなどと云っている場合ではない。こちらは果たしてバラバラの手足を自在にくっつけることができるのや否や。
 あたしは10年ほど歌舞伎から離れていて、玉三郎の復活とともにこの2年ばかりまた歌舞伎を観ていたが、またまた遠ざかりそうな気がする。
 これはとりもなおさず、孝玉コンビの桜姫の再演がいつになるのかに掛かっているのではあるが、できれば遠い先のほうがいいような気になっているのもまた事実だったりする。


2003/12/27  タニシの木の芽和え

 『お染の七役』が12/28(日)22:00〜00:45教育テレビで放映されます。
 こんなに早くやるとは観に行った者は値打ちがありませんが、ぜひ観て玉三郎のぞくぞくする悪女ぶりと、団十郎のぞわぞわする小悪党ぶりを堪能してください。
 とくに団十郎はたまりません。客にも大受けで、玉三郎は結構喰われておりました。
 団十郎の大根役者ぶりは大らかで歌舞伎的で最高です。深刻な義太夫物なんかはもひとつですが、こういう脳天気な役にはぴったりです。
 タニシの木の芽和えを喰いたいもんです。あれは原作にも出てくるので、昔は実在した食い物だと想うのですが。いまもどっかにありますかね?

  吉田玉男の特集が12/27(土)23:00〜23:30教育テレビで放映されます。好き者は見逃すことなきように。

 玉三郎と仁左衛門に団十郎が絡む 『三人吉三』を、2月に歌舞伎座でやるという話があります。しかも、玉三郎は初役のお嬢吉三!
 うーむ。歌舞伎座の予定は変わることがあるのでまだ信用できんが、それにしてもこいつはすげえ貌ぶれだな。チケット取れんのかね。


2003/10/30  七変化の実身と仮身

 今月の歌舞伎座は玉三郎15年ぶりの『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』、別名『お染の七役』。鶴屋南北・作。
 絶望書店日記に記した去年末の『椿説弓張月』白縫は33年ぶり。6月の『曽我綉侠御所染』時鳥、皐月は16年ぶりと代表作を最近になって急に一気にやるのは一世一代(つまり最後の舞台)で二度とないのではと考えているファンもいるらしい。殊に最大の代表作である桜姫を19年ぶりに来年やるという噂があるそうなので、これはかなり信憑性のある話ではある。
 玉三郎の『お染の七役』は15年前に観ている。あたしはこの10年ほど歌舞伎から離れていたので、これほどの人気役をあれから一度もやっていなかったのかと驚いたが、再度観てみるとなるほどこれだけは前回が最後と一度は期したのもむべなるかなと想わされる。
 年齢も性格も性別も違う七役を次から次から目まぐるしく早替わりで魅せてゆき、舞台裏は戦場、舞台に出て休むといった塩梅らしい。あの外見からはとても信じられぬが、玉三郎ももう53歳でもあることだし。

 前回観たときは何が何やら訳が判らんかったが、早替わりは面白かったしそれが眼目なんだからストーリーなんかどうでもいい芝居なんだろうと想っていた。今回はちょっとだけ脚本がいじられて、ずいぶんと話が判りやすくなっている。
 あらためて原作を読んでみると、お染久松の心中物に御家騒動を絡ませた複雑な筋でいろんな人物が錯綜するのにじつによく構成されていて判りやすい。南北のほかの原作はあたしの頭にはあまりに入り組み過ぎて、なんか破綻してるようだけどほんとに破綻してるかどうかさえこんがらがってよく判らんというのがほとんどなんだが、逆に理屈が通り過ぎるということでもないしこれは珍しいな。

 この芝居が初演された文化文政期は早替わりが大流行で、2002/10/31 贔屓本の世界で名前を出した三世中村歌右衛門が大坂から下ってきて変化物が得意だった江戸の三世坂東三津五郎と張り合ったために、ふたりで七変化合戦が繰り広げられて大変だったらしい。ファン同士が殴り合いのケンカをしたりといったとこまでいく。
 もっとも、このふたりの七変化は舞踊が中心で、芝居の場合は『忠臣蔵』や『菅原伝授』のような定番で皆様お馴染みの七役を披露するというものだった。
 ちょうど最近、この三世中村歌右衛門の変化舞踊『慣(みなろうて)ちょっと七化』と七役務める『忠臣蔵』を鴈治郎が復活したのを観た。どこまで200年前の舞台に近いのかは識らんけれど、あれを観る限りでは早替わりはもちろんあるもののそれが眼目と云うより、とにかく人気役者が最初から最後まで出突っ張りでいろんなコスプレと幅広い芸を観せてくれるというのが値打ちであった。
 『お染の七役』は最初から七役向けに書き下ろしているのが新機軸だし、お染と久松の逢瀬のなかで玉三郎がお染になって久松になって、またお染になって久松になって母親の尼さんになるといった具合で、変化したあとより変化そのものが売り物なんであった。南北はすでにこういった2役くらいの早替わりのケレンはいろいろやっていて、それと七変化とを組み合わせたということか。早替わりには慣れていた当時の観客も「肝が潰れて見物するもしんどい」といったことだったらしい。

 今回面白かったのは玉三郎がお染になったときの久松、久松になったときのお染などの吹き替え役が伏し目がちながらもわりと堂々と貌を晒していて、玉三郎の体型に合わせてすらっとした格好のいい役者を揃えていることもあって、通常は殺そうとする存在感を打ち出していたことで、また玉三郎も早替わりの直後はわざと伏し目がちに貌を隠そうとするので、あれっこれも贋者かな?と一瞬惑わして、つまりいつもは抜け殻のような吹き替え役全員に玉三郎が詰まっているような錯覚を覚えるお得感があった。
 むしろ玉三郎は舞台裏の着替えに忙しくて舞台にはあんまり出てなくて、吹き替え役こそがこの場の主役だったりする。ほんとの主役が舞台に張り附きっぱなしになる『忠臣蔵七役』なんかとは、この点が根本的に違う。
 なんか吹き替えには玉三郎のお面を着けさせていたらしいんだが、貧弱な眼のせいか100円ショップのオペラグラスのせいか3階席からの角度のせいか、あたしにはよく判らんかった。また、ファンはお尻の形で玉三郎か贋者か見極めがつくらしいのだが、あたしにはそこまでのお尻方面の眼力はないので、他愛もなく騙されて、この吹き替えによる七変化というより七分身の効果が存分に味わえた。

 もちろん、主役の不在による吹き替え役の面白さなんてなことだけではファンは納得しないので、南北は江戸時代隨一の美貌を誇った女形・目千両の五世岩井半四郎のために唯一早替わりをしない土手のお六を用意している。現代隨一の美貌を誇る女形・玉三郎もここではぞくぞくする悪女ぶりをたっぷりと魅せてくれる。
 大勢の贋者のなかのどれに半四郎(玉三郎)が詰まっているんだろうと惑わせる場面と、これはもう半四郎(玉三郎)しかありえないという土手のお六の活躍する場面とのふたつをきっちり出してくるとは、南北はやはりただの七変化を仕込んだだけではなく、ヲタク文化にとってキャラとは何かと云うことを受け手側に意識して問い質そうとしている。
 半四郎(玉三郎)と同じスタイルの肉體で半四郎(玉三郎)と同じ衣裳を着て、ときに半四郎(玉三郎)と同じ声でセリフまで喋るあの贋者に惑い、また本物の半四郎(玉三郎)を一瞬贋者と想うとはどういうことなのか。我々はいったい半四郎(玉三郎)の何に萌えていることになるのか。そこにはお染久松というお馴染みのキャラと新キャラが七枚被さるわけであるし。
 200年前の芝居に驚いている我々は、200年前の南北の問いを突き附けられている。

 はたまた、我々のやってることは200年後の人々をこれほどまでに驚かせることができるのだろうか?


2003/9/20  吉田玉男は化け物か!?

 国立劇場で文楽『義経千本桜』の通しをやっていて、84歳の人形遣い吉田玉男の知盛に圧倒される。なんじゃ、こりゃ。あんまりびっくりしたので手を尽くしてチケットを手に入れて2度観たよ。
 正月の舞台では心許ない感じでさすがの玉男さんも老いたか無理もなしと想って、5月には復調してあの歳で元気だなあと笑って観てたのだが、今回はもうそういうレベルではなく完全復活しておる。
 歌舞伎なら座ったままでも勤まるが、人形遣いは重い人形を持って、高下駄履いて、複雑に動き廻らなければならんのだから誤魔化しが効かない。それも大立廻りの末に壮絶な最後を遂げる知盛をやろうというのだから尋常ではない。
 壇ノ浦で死んだはずの平知盛がじつは生きていて幽霊のふりをして義経に再度挑むのだが、なんかそんな姿が重なってくる。また、明治以降はいつ消滅してもおかしくなかったのに何故か復活して隆盛を極めている文楽の姿ともそのまま重なる。

 さぞや騒がれてると想いきや、ウェブ上ではあんまり評判がよろしくないな。
 たしかに玉男さんを初めとして長老連中は全盛期と比べると落ちてるのは間違いがない。とくに義太夫の人間国宝ふたりの凋落は著しい。だが、これだけの陣容での千本桜はもう最後で、これから20年や30年はないだろうし、そういう意味ではいまは文楽の黄金期でなんのかんの云うのは贅沢だ。
 若手にはいいのがいっぱいいるのであたしは文楽の未来を楽観視しているが、昭和8年に入門してほんとに文楽消滅の危機を何度も潛ってきた玉男さんがいなくなるとちょっと違ったものになるんではないかと満杯の客席で漠然と考える。
 さても、70年前の文楽を肌身で識ってる人間がいまも現役でいるというのは奇跡以外のなにものでもなく、もしも若い客が還ってくるようになる以前の20年前に玉男さんがいなくなっていたとしたら何かが一度途切れてしまって、ここまでの隆盛はなかったのではないかとも想う。

 1/5 三島由紀夫の到達点に於いて、歌舞伎をまったく識らない諸氏に説くにはあまりに話が入り組むのでわざと落としたのだが、三島の云う<伝統>とは明らかに神風連的なるもので、つまり「不可能だから尊い」という逆説的なものだ。すでに死んでいる崇徳院に対する「故忠への回帰」を目指しながらも盡く失敗する源為朝を描く必然がここにあるのだろう。
 三島にとって失敗はあらかじめ予定していたことで、扇をかざして電線の下をくぐり抜け、刀だけで新政府転覆を目指した神風連の如き雄壮なる失敗を披露することで、滅んだ時代の<伝統>を逆照射しようとしたのであろう。<伝統>は次代に伝わらないからこそ<伝統>なのだ。
 ところが、同志であるべき歌舞伎役者に嘲笑われ裏切られたことにより、その尊い<不可能性>を構築することさえ適わなかったわけだ。失敗を示すことさえ失敗した。この二重の不可能性によってあの三島の絶望は招来され、1年後にもっと世間に判りやすい「不可能だから尊い」あらかじめ失敗が予定された単純なひとり芝居を演じる羽目になる。
 吉田玉男の知盛を観ていてつくづく想うのは、ひとりの優れた人物が時代を超えて生き延びるということだけで<伝統>というのは繋がるのだなという単純な事実である。玉男さんより歳下の三島が今日まで生き延びていてこの舞台を観ていたらなんと云ったであろうか。女の子でありながら男として平清盛に天皇に仕立てられた云わば偽帝、しかもこれまた壇ノ浦で死んでるはずの幼き安徳帝の言葉によって源氏への復讐を諦め千尋の海底へと姿を消す知盛の壮絶なるその姿を。
 まったくもって、寿命も才能の裡ではある。

 この玉男さんの知盛を観たことは死ぬまで自慢できるな。
 これを観ていない者の芸術だのヲタク文化だのについての言説はすべて贋物であると絶望書店主人はここに認定しておく。

 てなことを書いてから調べてみると、来年の4月に大阪で文楽劇場二十周年記念に玉男さんはまた知盛をやる予定らしい。この歳で来年の予定が決まっているのも大したもんだが、さすがに東京では一世一代(つまり知盛はこれが最後)のつもりであったようだ。
 しかし、なんか90歳になってもまたあのしれっとした貌で演ってそうではあるのが恐ろしい。自慢するのはまだまだ早いか。

 
 
   



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