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『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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2005/11/5  思考の塊を投げつけろ!

 いま出ている『ユリイカ 2005年11月号 特集・文化系女子カタログ』に、未映子のなんとも摩訶不思議な文章が掲載されている。
 「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」って、そりゃまたあんたえらいこっちゃな。すっごいなこっれ、なんじゃいな。

 ユリイカなんちゅうのは、あたしのなかで無いことになってる雑誌なんだが、この破天荒な狂い咲き文章を載せてしまったことだけですべてを赦そう。
 「音楽系?」なんてくくりにいれてるのは明らかになにも想い付かなかった編集の苦し紛れで、ほんとはこれこそ「詩と批評」と銘打ってユリイカ巻頭に据えるべきはずの代物なんだが、まあいい。さらに云うと、全編これ未映子の文章だけでもいいはずなんだが、文化系女子なんて範疇にはおさまるもんでもないし、ユリイカにはもったいなすぎるから、まあいい。
 さても、この特集全体はいやに古くさいな。どんなけ古いって、おやじ雑誌としても10年くらい古いのではないか。ヲタク系も学問系も表紙も、一昔前のおやじ雑誌のパロディーを読まされているような気がしてくるし、虐げられたワタシみたいなのばかりで10年どころか百年一日であいかわらずもこういうことになってんのか。

 なんだか、ひからびたカタログの解説文ばかりのなかで、唯一、賞味対象の天然モノがまぎれこんで、かろうじてカタログの面目を保っている。状況がいかに疲弊しようが、ひとつの才能が顕れればただそれだけでどんより重い海原が忽然と割れて地平が開闢するという歴史の円環を見事に示しておる。
 ウェブ上を見て廻っても、ほかの枯れた判りやすい文章にはいろいろ云ってる人がいるけど、この未映子のやつだけはみなさん見事にスルーしてるな。これほどの言葉と思考のうねりを噛み砕き消化するほどの牙を持った読み手はいまだ地上にはおるまい。
 つまりこれは先行するものへの注釈雑誌、常に数歩遅れることが使命のはずのユリイカが、図らずも時代の最先端に立ってしまったということですよ。ひょっとすると創刊以来初、かどうかはよく識らんが。
 想うに、雑誌なんてものがなにゆえか時間を均等に区切って定期的に刊行され、はたまたなにゆえかいろんな人に空間を均等に割り振って数多くの記事を載せるのは、まさしくこういう時代の転換点を断面として一冊に封じ込めて提示するためにあるのだった。ひさびさに雑誌の存在理由を見せつけられてしまった。あれだけ旧時代の遺物をこれでもかと並べたなかに先端を脈絡なく配置するとはなかなか心憎い。
 ユリイカは未映子の産み落とすものに注釈を付けていくだけで、これから10年はやっていけるだろう。まったく、そらええわ。ええネタを見つけはったわ。大いに誉めそやしておくわ。
 諸氏も立ち読みでもしてみて、歴史の大いなる結節点に立ち会ってみられるように。

 未映子自身はこの文章を「絶叫詩」「散文詩」と呼んでいるのだけど、これを「詩」と云い切ってしまってはおもしろくないな。なんちゅうか、思考がそのまま形象を爲して投げつけた塊と云おうか。カタログ注釈雑誌のユリイカではなく、ポーのほうの『ユリイカ』と同じ範疇の「詩と批評」ではある。
 人の脳内に入り込むような空想物語では、超能力か未来的先端技術が必要とされるけど、じつは言葉というものがなによりもすごい超能力であって、電子機械などおよびもつかない最先端のハイテクであって、言葉のみで脳内宇宙をそのままぶつけることが出来るということを証明してしまっている。それも、意識の流れと云った線状のものではなく、立体的な塊として思考が切り頒けられることなしに一気にぶつけられる。さらにそれがそんじょそこらのあたりまえの脳味噌ではないから、ほとんど異星人接触テーマさえ内在されておる。詩などというレベルのもんではない。
 吾妻ひでおで、訳の判らん脳内妄想を塊にして投げつけるようなのがあった気がするけど、それを現実にやってしまっている。
 もっとも、詩というものはもともとそういうもんなんではあるが。現代に於いて言葉がいかに本来の姿を見失われて、すでに出来上がってひからびた意味だけを伝える道具に堕してしまっているかということか。

 そう云えば、7日に未映子ライブがあるけど、未映子のライブも歌というより思考と感覚の塊を形象爲して投げつけられたような妙に具体的な物質感がある。未映子の頭の中をジオラマにして直接その空間に放り込まれるような。
 『頭の中と世界の結婚』とはよくぞ云ったもんだ。
 未映子サイトにアップされているライブ映像を観て、そのごくごく一端を感じてみられては。まあ、映像では限界がありすぎるけど。
 あらためて言葉ってゆうのはすんごいな。往くとして可ならざるは無しの魔法だな。