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絶望書店主人推薦本
 
『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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Archive for カテゴリー'文楽・歌舞伎'

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2001/12/28  因果は巡る

 50年ぶりの全通しとかいうことで国立劇場の『三人吉三廓初買』を観る。
 ひさしぶりの歌舞伎なのにまた苦手の幸四郎。あたしが歌舞伎をほとんど観なくなってから幸四郎シンクロ率が70%を越えておる。それだけ珍しい演目をやってるということかな。同じく珍しい復活演目をよくやってる菊五郎はなんか観逃しておるというに。
 もっとも、七五調のせりふとガチガチの構成とで絡め取られた黙阿弥芝居では幸四郎は逆に生きる。悪くない。

 赤の他人のはずの三人がなぜか同じ吉三という名で義兄弟となり、じつは親子だったり、親のカタキなり、近親相姦なり、また同性愛なり、殺し殺され盜み盜まれ、登場人物たちがおよそ考えられる限りのあらゆる関係を互いに結んでゆく。その人々の間を名刀庚申丸と金百両が複雑に流れてゆき、最後にこのふたつのアイテムが揃ったときに張り巡らされた因果は緘じ、三人吉三は差し違えて死ぬ。
 主役は明らかに庚申丸と百両で、これは何かというと関係の視覚化で、つまり張り巡らされたリンクそのものが物語の主眼である。丸まっちいものとトンがったものの結合は、アムロがビームサーベルでララァのエルメスを貫いたのと同じリンクを象徴しているのでしょう。
 七五調の流麗華美なるせりふも登場人物の心情やテーマを語るものではなく、ただ調子よく美麗な形象を形造るためだけのものであって、前後の言葉との関係から紡ぎ出されて成り立つものである。また、八百屋お七と寺小姓吉三との恋物語を踏まえている。
 日本のヲタク文化が先行する作品を踏まえるのは、ネタに困窮したゆえのパクリではなく、パロディーでもたんなるリスペクト引用でもなく、何かと結びついていることそのものに意味があるのである。なにゆえか孤立が重要らしい歪んだ西洋文化とはまったく違う。ヲタク作品にオリジナリティーなど求めるのは、ウェブ上にサイトを構えながらリンク拒否しているようなもんで、根本的錯誤ではある。
 とくに黙阿弥は因果(リンク)にもっともこだわる作者で、そのなかでも『三人吉三』は極めつけ。ここまで縱横に絲が張り巡らされ雁字搦めだと登場人物はもはやたんなる人形で、幸四郎の如きリアリズム演技のはみ出し具合が却って面白味となる。どれほど歌舞伎らしくなくやっても簡単に跳ね返すほど強靱なる構築が事前に施されている。
 戦後ずっと上演されてきたダイジェスト版『三人吉三巴白浪』では三人のアウトローの物語で因果は背景に過ぎなかったが、今回の復活で因果が主役だとはっきりした。もっとも、あたしには観ててよく判らんところがあって原作に当たってみたらやっぱり肝心なとこが切られてる。ミッシングリンク回復のための復活上演のはずなのに、もうちょっとなんとかしてもらいたいもんだが。

 染五郎の女形は相変わらず評判著しくないようで。あたしはというと一年前の桜姫の時と比べて女形が板についてきていたのに感心する。
 もちろん、あやうい刹那は眼に余るほどあるものの、こういう危なっかしい時期こそ女形としてもっとも美味しい頃合いのような気もする。
 問題はあやうさの中身で、これまで芸の未熟な女形は幾人も観てきたけど、女に成り切れない女形というのはあたしは初めてだ。『加賀見山』の岩藤のようにゴツい立ち役がわざと扮する役処さえ男と女の境界が真にあやうくなることはまず無い。演出としてやることはあるものの、役者の存在の破綻としては観たことが無い。画期的なことで、これこそ女形の原点ではあるまいか。このあたりを突いた評がないのは解せんな。
 もっとも、お嬢吉三はじつは男なんであって、しかもじつは八百屋お七という役であるから女形として評価するのはなかなか簡単ではない。
 歌舞伎は先行する作品を踏まえるのだから、そのへんの町人がいきなり「じつは曽我五郎」とか「じつは八百屋お七」というのは珍しくはないが、ほんとに八百屋お七ならお坊吉三との関係が同性愛として成立せず、生まれ変わりとしても妙なもので、そもそもお七の相手であるはずの吉三の名を名乗ってるのだからややこしい。もともとふたりの役をミックスして三人に分割したのは、吉三に3が入ってることやたまたま主役級の役者が三人いたからなんだろけど、よく識られた物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという歌舞伎の第一テーゼであるところのその趣向の対象として<関係>そのものが扱われるようになったということでもある。
 リンクの先にあるものではなくリンクの張り方そのものが芸となる。黙阿弥の前にこんな多重のメタ次元のことをやったものがいるのかどうかすぐには想いつかんが、因果に拘った幕末の歌舞伎の完成者である黙阿弥ならではの趣向ではある。ヲタク文化を論ずる者はこのあたりはきちんと押さえておくように。

 今回復活されたミッシングリンク・木屋文里の場で、和尚吉三の幸四郎が二役で文里をやっていた。しかし、恋仲の一重はさすがに地味な正統派女形は無理と判断したのか染五郎ではなかった。本来はお坊吉三と恋仲のお嬢吉三の役者が和尚吉三の恋仲も二役同士で勤めることで、三人吉三の歪な愛慾三角関係が緘じるはずなんだが。実際、初演時の配役はそうなっとる。
 これは物語としての円環が緘じるだけではなく、人気役者同士のやおい組み合わせを客にすべて見せることに重点があることに注意。歌舞伎は最初からこういうメタ構造を持つ。
 評論家の劇評を読むと「現代にも通ずるリアルな世界観」とか「登場人物の心理描写の掘り下げ」がとか相変わらず見当はずれの文言が並んでて、やおい作品にこんな評を大真面目にやってると考えればいかに莫迦かが判ろうと云うもんだが、この二役問題に触れているものがなくもう致命的だ。染五郎の出番が少なくて悲しいと嘆いているお姉さま方のほうが的確に芝居を観てる。黙阿弥はファンにこんなことを云わせる作劇を決してしなかった。
 染五郎は出突っ張りで何層にも関係を構築すべきであった。恋人同士にならなければせっかく親子というリンクをしょって競演した甲斐がない。
 もっとも、文里と一重の悲劇的な最後が今回は切られていて、親子でこれをやってくれたら、男女の境界に破綻というリンクを張ってくれたら、黙阿弥の目論見以上に完璧なんだが。

 まあ、なんのかんのと云いつつ、脇までなかなか揃っていて大いに満足する。
 あたしは文楽を観るようになってから文楽を原作とする義太夫歌舞伎は莫迦莫迦しくて観る気が失せてしまったし、南北物は役者の当たり外れが大きいと云うかほとんど外れしか観たことがない。それが、黙阿弥の通しは全部当たりだった。やっぱりぎちぎちの構成だと少々役者に難ありでも安心して観ていられる。
 あたしはこれからはもう歌舞伎は黙阿弥だけでいいな。ほんとは南北を揃った顔ぶれで観たいのだけど。
 なお、これは減点法でしか観れなくなってしまった字義通りの半可通の見解で、初心者は細かいことは気にせず南北のぶっ飛んだ芝居なんかから観ることをお獎めする。
 ただし、誰の作にせよ最初から最後までやる<通し>で観ること。リンクが切れてしまっては歌舞伎など観る意味はまったくありませぬ。
 いや、いくつかの幕だけやる<みどり>てやつがやたらと多いのです。リンクが切れたウェブみたいなもんで嫌い嫌い大嫌い。

 
 
  


2001/5/4  中村歌右衛門とヲタク魂

 三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
 それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
 とりあえず、半端な想いを綴っておく。

 八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
 戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
 そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
 結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
 戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという<やおい>的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
 歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の<形>をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
 しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
 歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。

 あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』 だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
 幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
 もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
 ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
 あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。

 昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
 女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
 ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。


2001/1/4  新春に桜姫

 新春らしく桜姫のお話などを。去年の11月に7年ぶりの『桜姫東文章』上演を観たのに、これまで書きそびれてただけなんですが。
 幻想文学やSFなんかが好きで、歌舞伎や文楽を観たことのない人は世界の半分も識らないことになります。ヲタク文化も判ってないことになります。とくに戦闘美少女を語る方が観ていないのは、無知蒙昧にもほどがあるというもんです。
 えーと、ネタバレばりばりです。これぐらい書いておかないと、観てない人は永劫に観ないでしょうから。
 なんか、木原敏江の『花の名の姫君』は『桜姫東文章』を原作にしているそうなんですが、舞台を観る前には読まない方がいいんではないかと存じます。まんがの出来がいいほどそうだと存じます。あたしは読んでないのでよく判らないの。ごめん。
 ストーリーが占める重要度は低く、以下の文章はまんがほどの妨げにはならないのではないかと存じます。あたしが16年前にはじめて観たときは何の予備知識もなく、じつに幸いでありましたが。あまりの衝撃に、冗談ではなくほんとに一ヶ月ほど口が利けなくなってしまったのでありました。それほどのもんであります。
 いきなり舞台を観るに越したことはございません。次がいつの上演になるかは判りませんが。読んでしまってから文句を云わないように願います。

 お話は清玄というお坊さんと白菊丸というお稚児さんの、男同士の心中シーンからはじまります。ここで清玄だけが死にそこなって、偉い高僧になった17年後に、白菊丸の生まれ変わりである桜姫に出逢ってしまうんですな。
 吉田の少将の桜姫というのは17歳の可愛らしい高貴なお姫様なんですが、じつは屋敷に忍び込んだ釣鐘権助という盗賊に手籠めにされて子供まで産んでいるんですな。それどころか、一度だけ契った顔も見てない権助のことが忘れられずに、権助と同じ釣鐘の刺青を腕に入れていたりもします。じつは吉田の少将は殺されお家の宝の都鳥の一巻も盗まれて、お家の一大事のときのはずなんですが。
 吉田家への悪巧みのためにまたやってきた権助の腕にあの刺青を認めるや、桜姫は閨に引き込みます。それが見つかってしまうのですが、たまたま居合わせた清玄が不義の相手と讒言されて、寺を追われてしまいます。惚れあっていたのにひとりで死なしてしまった白菊丸の因果が巡ってゆくのでありました。
 なお、この演目ではだいたい二役ということになっておりまして、今回は幸四郎が清玄と権助、染五郎が白菊丸と桜姫を演じておりました。父と息子の濡れ場ですな。
 清玄はもう完全な破戒坊主と成り果てて、これまた赤子を抱いたまま追放された桜姫を追っかけてゆきます。しかし、前世のことなど覚えていない桜姫は権助のもとへと走ります。なおもしつこく迫る清玄は殺されてしまいます。
 権助はまさしく悪党で、桜姫を小塚っ原の女郎屋へと売ってしまいます。吉原のような上等な廓じゃなく、ほんとの場末の安女郎というのがミソですな。腕の釣鐘の刺青が可愛くて「風鈴お姫」として人気が出ます。お姫様と遊女がチャンポンになるセリフや演技が、桜姫の最大の見せ場となっております。
 しかし、このお姫には幽霊が出ると噂が立ち、権助のもとへと帰されてしまいます。ここで清玄の幽霊があらわれ、権助はじつは弟の信夫の惣太で、桜姫の父少将を殺して都鳥の一巻盗んだ張本人であると告げます。
 それを聞いた桜姫は権助とその血を引いている己が産んだ赤子を刺し殺します。みんごと仇を討ち、都鳥の一巻も取り戻し、お家再興を果たすのです。めでたし、めでたし。じつに新春にふさわしいお話でありました。

 清玄がさらに尼さんになってしまう『隅田川花御所染(女清玄)』と並ぶ鶴屋南北の、いや歌舞伎の最高傑作です。実際の話は遥かに複雑に入り込んでおります。ヲタク文化の伝統として先行する『一心二河白道』と『隅田川』の&lt;世界&gt;がないまぜになっており、コラージュの妙はエヴァみたいなもんをイメージしてもいいんではないかと存じます。もっとも、歌舞伎や文楽はすべてそうなんですが。
 テレビなんかとは違って歌舞伎のお姫様は本物です。それが安物の遊女になって、最後にはまた完璧に高貴なお姫様に戻ってしまう。それはこんな粗筋ではとうてい想像のつかない衝撃があります。一幕ごとに最大限に振幅する怒濤の命運が、脳髄を鷲掴みにしてぶんぶん振り廻される感覚を呼ぶのです。とくにあたしは孝夫と玉三郎という最高のコンビで観てしまったため、ほんとにショックで寝込んでしまいました。

 ウェブを観て廻るかぎりでは染五郎の慣れない女形の評判が悪いですな。確かにこの話はきちんとしたお姫様が崩れていくところが眼目でそれも判らんではないのですが、あたしは真女形ではないけど姿は美しい染五郎は却ってよかったのでないかと想いました。
 7年前の雀右衛門は女形としては申し分がありませんが、いくらなんでも歳でした。70の爺さんが17のお姫様に見えてしまうのが歌舞伎の魔法というもんなんですが、桜姫はさらにそこをもうひとつ越えた美しさや存在感が要求される特異な作品です。雀右衛門はいかにも型どおりの女形といった感じでしたし、今回と同じ役をやった幸四郎とも噛み合わない気がしました。
 幸四郎は猿之助と並ぶもっとも新劇臭い妙なリアリズムのようなものを持ち込みたがる歌舞伎役者なのですが、今回は親子で濡れ場をやるといったこともあり、わりと遊び感覚があって歌舞伎らしくてよかったような気がします。また、染五郎なんかの若手は上の世代よりかえって歌舞伎らしさがあるんですな。まんがやアニメなんかのヲタク文化から正しい日本の伝統を自然に受け継いでいるのではないかと、あたしは睨んでおります。
 もっとも、玉三郎とはとても比べものなりませんし、また権助は幸四郎のようないかにもの悪党ではなく、孝夫のようなしゅとした二枚目のほうがやはりよろしいのですが。
 それよりも前回からかなりのダイジェスト版となり、今回さらに切られてほとんど違う話となっております。劇場の都合による時間の短縮ということや、ほかにも難しい問題があるようです。16年前には非人が出てくる場面がまだあったのですが。5時間ほどたっぶりやった昔を知る者には、じつに味気なくスカスカした感じでした。孝夫・玉三郎コンビでやったとしても、あそこまでの衝撃をもう一度味わえるのか心許ない気がします。何故か7年に一度しかやらないのもどうかと想いますが。あたしが完全に文楽に興味が移ってしまった由縁でもあります。

 ところでウェブを廻っておりますと、たまたま松たか子の隣りに座って観てしまったという方がおりました。こんなのも親子兄妹ドンブリと申しますか、なんと申しますか、なかなかオツなものでございましょう。
 そういえば、あたくしもかなり前に近藤サトの隣りで八十助の舞台を観たことがございました。付き合っているという噂もまったくないころでしたが。時代は巡る絲車であります。
 じつに新春にふさわしいお話でした。



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