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さて、国立劇場の『彦山権現誓助剣』ですが、35年ぶりの通しということだったのに時間の都合で最初と最後が切られていて、途中も妙な具合に端折って繋がりが悪く、せっかくの通しの意味があまりありませんでした。また、肝心のお園の中村雀右衛門が足許も危うくセリフも頼りなく、六助の富十郎が素晴らしかっただけにぶち壊しだなと想って帰ってきました。
帰ってから渡辺保の歌舞伎劇評を読むと、この雀右衛門を絶賛しておる。歌右衛門が死んで以来の陶酔感をあたえる舞台とまで云っていて、これはなかなか尋常ではない。たもっちゃんとあたしは観る視点が根本的に違っていて、これまでも感想が一致することはあまりなかったのですが、いくらなんでもこれはなんじゃ?あたしとは違うものを観ていたのだろうか?
まあ、観た日によって出来が違うということはあるから確認のために2ちゃんの伝統芸能板を覗くと、日によって違うということもないらしくこちらも賛否半々か。あの雀右衛門に対して半分も絶賛派がいることも信じがたいが、否定派もどうも歯切れが悪い。なにがなんだか判らず、あたしは???????????という感じでありました。
読み進めているうちにようよう雀右衛門がすでに82歳であることが知れた。そうか!なるほど!!82歳であれほど動き廻っていたのならこれは確かに大したもんだ。あたしが最後に歌右衛門の舞台を観たときは78歳でほとんど座りっぱなしで動かなかったのに涙を流さんばかりに感激したのに、82歳の雀右衛門が殺陣をこなしていたのを賞賛しないというのはどうかとも想う。普通に歩くのもよろよろしてるのに立ち廻りになるとぴしっと決まる雀右衛門の姿は、いまから考えると見事なものだ。だが、しかし・・・・。
今回の舞台はどうもいろいろ、物語にとってキャラとは何かを考えさせられることが多いな。
あたしは60代でもっとも充実していた時期の素晴らしい雀右衛門をずいぶん観ていて、それなりに一家言あるつもりだったのですが、歌舞伎から離れてしばらく観ていないうちにまったくついていけなくなってしまっておりました。歌舞伎を観るうえでの基本的情報が頭にも躯にも染みこんでいない。
そもそも、通しだから「ストーリー」を観に行こうなんていうあたしの魂胆が邪道でありまして、歌舞伎というのは役者を観るためにあるのです。全体の筋を通そうとする文楽と違って歌舞伎が出鱈目だというのは、役者をカッコ良く美しく観せるためにひとつのひとつの場面をどうとでも膨らまして変更していくということでして、話が繋がらなくなろうが破綻しようが、あるいはその登場人物がそんなことするはずないだろと云われようが、人気役者さえたっぷり活躍すればどうでもいいわけです。
そんななか、10年間も雀右衛門を観てないで年齡さえ判ってなかったあたしみたいなのはともかくとして、最近の雀右衛門を観続けている方にも否定派がいるというのはこれがお園であるからです。渋い年増の役なら多少動きが鈍くなっても円熟の芸として誰もが絶賛するでしょうが、お園は派手に戦闘シーンを見せてなんぼの役ですからさすがに疑問に想う方もいる。しかし、なんでわざわざ82歳でこんな役をやるかを考えればそれもどこまで正しいか。
軍隊から帰還して6年ぶりに舞台に復帰した雀右衛門は、それまで立役だったのに26歳にして初めての女形・お園で復帰を飾るという大ばくちに打って出て大成功し、女形としての地位を確立したのでした。その物語を背負って、雀右衛門というとお園ということになっております。兵隊に行ってた人がいま現在おんなじ役をやっていることもまた凄い話で、『彦山権現誓助剣』の本筋よりもそちらの物語のほうが歌舞伎では優先されるわけです。
もうひとり今回の舞台で目立ったキャラが73歳の富十郎が生ませた正真正銘の長男、3歳の大ちゃんでした。お園の甥で、富十郎の六助が引き取って可愛がっている弥三松をやってるのですが、とってもあどけなく愛くるしいので何かひとつやるたびに客席がどっと湧きます。
2ちゃんなんかでは今回の雀右衛門絶賛派もこの大ちゃんは不評ですな。せっかく雀右衛門なり富十郎なりが素晴らしい舞台を務めているのに、大ちゃんに喰われて台無しということです。
結局は役者を観ている通の方も演技なり<芸>なりを視ているということです。<芸>なんてのは役者の一部ではありますが、しょせんは一部にしか過ぎません。あたしみたいにストーリーを観るよりはましですが、邪道という点ではあまり変わりがない。
青木清治という82歳の爺さんが舞台上で四代目中村雀右衛門というキャラになりお園を演じる。歌舞伎というのはその二層目にあたるキャラを観るものなのです。まるっきりお園になりきってしまってもいけないし、その点、動きが鈍くてどう見てもお園は無理だろうという82歳の雀右衛門は判りやすい裂け目を創ってキャラを視せてくれる。お園の物語は一種の劇中劇で、しかし、やっぱりお園の物語でもあって、その辺りの微妙な皮膜の往き来の塩梅は現代のキャラ萌えヲタク作品と通底するものがあります。
同じく3歳の大ちゃんも素のままのキャラを視せてくれる。これが5歳くらいになると子役なりの<芸>をするようになって面白味がなくなります。雀右衛門のお園は間違いなく今回が最後でヘタをすると舞台そのものが最後になる可能性もあるわけですが、大ちゃんだっていまのキャラを観ることができるのは何回も無いということです。富十郎との70歳離れた親子という物語も背負っていて、雀右衛門と同じくらいの視線を大ちゃんにも注がないと歌舞伎を観ているということにはなりません。大ちゃんに湧いていた通でない客はじつに正しいということです。
体力的な問題なんでしょうが雀右衛門のお園は毛谷村の段だけで、ほかの段は魁春がやっておりました。べつにこういう問題がなくとも、詰まらない場では若手にその役をやらしたりすることは珍しくありません。ひとりの人物を違う役者が演じるというのも歌舞伎のキャラを考えるに於いて面白いところでして。同じ役者が演じる場合でも幕によって性格や貌がまったく変わることもありますし。性格の統一なんてくだらないことにこだわる西洋演劇とは根本的に違うものです。
須磨浦の段でお園の妹のお菊が悪役の京極内匠になぶり殺しになる場面がいやにあっさりしていて物足りなかったのもまたキャラの問題を考えさせます。この場面は歌舞伎の影響を受けて文楽ではこちらの観劇記にあるように美女をいたぶる残虐非道な見せ物としてのみあるのですが、この手の趣向の本家のはずの今回の歌舞伎では話の流れや人物造形なんかを妙に意識して抑え気味になっている。全体の筋なんかとはまったく関係なく、女形の倒錯的な美しさを強調するためだけにある場面のはずが、本末顛倒とはこのことです。
あたしはもともとキャラ中心の見方が苦手なんですが、それ以上に西洋演劇的な妙に合理的な理屈を考えてこういうキャラ萌えに徹しない中途半端なやり方をするのがもっと嫌で近頃の歌舞伎から離れてしまったわけです。本来はキャラ萌えの歌舞伎と物語重視の文楽とがあってバランスがとれているものなんですが。
また、文楽のほうも役柄によって人形が決まっていて、手塚治虫みたいなスターシステムを取っていたり、段ごとに人形遣いやセリフを云う大夫が変わったりと、歌舞伎とはまた違った角度で物語にとってキャラとは何かを考えさせられます。
歌舞伎と文楽がきちんとそれぞれの特徴を守っていたであろう江戸時代はもとより、現代でもいい役者が出てくる歌舞伎と文楽とではヲタク文化の両輪としてじつにいいバランスが取れています。近頃のまんがやアニメのほうはここまでバランスが取れているかどうか。キャラ萌えばっかりでも、反対ばっかりでも辛いものです。
近頃の国立劇場は南北の『霊験亀山鉾』のきちんとした復活やら、鴈治郎が七役務める上方演出の『忠臣蔵』やら珍しいものをいろいろやっていて、ひさしぶりに続けて歌舞伎を観ております。今月は35年振りの通しとかいうことで『彦山権現誓助剣』を観る。
主役のお園は力士にも勝る怪力で剣の達人でもあって、男が幾人束になって掛かってきても簡単に薙ぎ倒してしまいます。
ヲタク文化の本道である文楽や歌舞伎にはこの手の男より強い闘う美少女はよく出てきて<女武道>と呼ばれるんですが、なかでもお園はくさり鎌を遣うところがポイント高し。美少女がくさり鎌をびゅんびゅん振り廻す姿に共振してしまう云い知れぬこの胸の高鳴りはいったい何だ?!あなたは銀のくさり鎌で、私の心をクルクル廻す。
白鳥のジュンやスケ番刑事がなにゆえヨーヨーを遣うかなんて考察はあるのでしょうか。鎖には何かしら人を魅惑する力があるのでしょうか。妖しくも不定形で艶めかしくも曲線の軌跡を描くところでしょうか。なにものかとなにものかを強く結びつけるところでしょうか。しかし、ヨーヨーよりもくさり鎌のほうがヒロインの武器としては萌え度が高いな。くさり鎌を遣う美少女キャラなんてほかにいましたかな。
お園はまた、正統派萌えキャラとしてもきちんと造形されているところがほかの<女武道>とは少し違う。
父のかたきを探すために夜鷹になったり男姿になったりして諸国を旅しているのですが、毛谷村の六助を家来を殺した下手人と間違えて斬り掛かる。しかし、その六助が父の定めしまだ貌も見ぬ許婚と知れるや、いきなりしおらしくなって「コレイナア、お前の女房は私ぢゃぞえ。サアサア女房ぢゃ女房ぢゃ」と可愛らしく迫る。六助も宮本武蔵がモデルとかいう立派な剣豪なんですが、まったく識らない女、それもさっきまで斬り掛かってきた女が出し抜けに女房だのなんだの云い出すのでびびってたじたじとなる。そんなことにはお構いなしに、お園はいままでの男姿から一変して姉さんかぶりなんかして勝手に台所に上がり込んで甲斐甲斐しくご飯の支度をはじめる。火吹筒と尺八を間違えて吹いたり、鍋を焦がしたりとドジっ娘ぶりもお約束どおりに披露する。
ヲタク文化の本道である文楽や歌舞伎には萌え萌えの美少女キャラは当然いくらも出てくるのですが、戦闘美少女と萌え萌え美少女をここまで狙って一体にしたキャラはなかなかほかにはないような気がします。いまのヲタク作品でもここまで狙ってるものはあるのか?なんせ、家来のかたきと首を取ろうとしていたのに許嫁と判ると「家来の一人や二人、どうなとしたがよいわいな」とはにかみながら臼をひょいと持ち上げて男をぎょっとさせたり、文楽だと抱いていた幼い甥っ子を下に落っことしたり、あげくに鴨居を持ち上げたりもするんですぞ。
<女武道>は美少女なんて申しましたが、ほんとは年増(と云っても25歳くらい)の美女がほとんどで、母として子を想う気持ちが強さの源泉というのがお園以前の一般的な形象です。お園は生娘で、その処女力が強さの祕密となっているらしいのが画期的。夜鷹をやってるのに何故か生娘。むしろ反対に、生娘が売りのキャラだからこそわざわざ夜鷹コスプレをさせて趣向を凝らせているわけでしょうが。
これは<女武道>の変化というより、お姫様キャラの系譜と考えたほうが合っている。ヲタク文化の本道である文楽や歌舞伎では可愛らしいお姫様もいざとなると剣を抜いて闘うこともあるわけですが、いよいよ追いつめられると『本朝廿四孝』の八重垣姫が霊狐の狐火に導かれて湖水を渡ったりするように神秘の力を発揮したりします。神秘の源は生娘としての処女力と云うか、生娘として好いた男を一途に想い抜く乙女力です。
お園は神秘の力の代わりに戦闘能力がとんでもなくアップしているわけで、つまり魔女っ子から戦闘美少女に進化しているわけです。神秘の力より怪力や戦闘能力を備えているほうが萌え度が上がることに明確に気づいて、お姫様キャラと<女武道>を合体させているわけです。天明6年(1786)の『彦山権現誓助剣』によって、日本のヲタク文化は一段階ステップを上がったと云っていいでしょう。萌えを変えた女・お園。
お園も貌も識らない許嫁を一途に想って二十歳を過ぎるまで生娘を通していることが力の源らしく、「ひねた(古びた)生娘」とか云われてしまったりもしますが、いろいろ折衷的な過渡期だということです。妹のお菊は特に強くもなく病弱だったりするのですが、幼い我が子を守るためにラスボスの京極内匠と互角に戦い、しかし最後は無慘に殺されてしまいます。かなり意識してこういう対比をやって、従来の<女武道>やお姫様からの変化をもたらそうとしているのでしょう。
これ以降は南北が登場することもあって、平気で男を騙したり殺したりしてしかも美しく色っぽいという悪女が出てきます。これまでは悪役の女は見るからにごつい立役(男役)が扮することが普通だったのですが、美貌のトップ女形が悪女をやるようになるわけで、いろいろギャップがあったほうが却って可愛くなって萌え度が上がることに気づくようになったのですな。果ては桜姫のような何とも説明のしがたいへんてこりんでしかも萌え萌えの不思議キャラに行き着くわけです。
折口信夫は<女武道>から変化して<悪婆>(年寄りじゃなくて若い悪女のことをこう云うのです)になったと論じておりますが、間にお園という画期的な段階を経ていて、しかも<女武道>というよりはお姫様や娘役の進化と捉えることがキャラ史を解明する上で重要であるとあたしくは想っています。
『彦山権現誓助剣』は近松半二が死んでから3年後の文楽作品で、もう文楽が崩壊して歌舞伎の影響をそのまま受けたバロック調でパロディくさい趣向狙いだらけの作劇となっております。
あらすじはこちらのページが詳しいので読んでいただきたいのですが、物語の背景もじつに大風呂敷でヲタク作品の王道ですな。週刊連載まんがみたいなもんで、全体の整合性なんか無視してその場その場がいかに盛り上がるかとキャラ萌えだけに徹しております。
文楽というのは出鱈目やり放題の歌舞伎とは違って全体の筋を通そうとするものなんですが、もうかなり支離滅裂になっている。しかし、それでも文楽の血がそうさせるのか、完全に破綻することはなく最後は綺麗にまとまっておりますな。
まんがやアニメなんかもネタ切れで行き詰まっているのなら、こんな浄瑠璃をそのまま作品化したらいかがなもんでしょうか。正月に大阪の文楽劇場で雪責めをやる『中将姫』とか、いい浄瑠璃はいくらもあります。歌舞伎はあまりに出鱈目すぎてそのままでは苦しいでしょうが、文楽なら現代のヲタク作品としてなんの加工もなしに通用しますよ。
とにかく、ヲタク文化を語る者が、とくに萌えキャラとは何かなんて説く者が『彦山権現誓助剣』のお園さえ識らぬというのはあまりにも情けなさ過ぎる。26日までやってるしチケットはまだ手に入るだろうから観ておきなさいよ。ほんとは文楽で観るほうがよいのだが、今月の歌舞伎の舞台はいろんな意味で観ておいてのちのち損はないだろう。
IT革命とは何かに於いて、江戸時代は歌舞伎に付随して役者評判記、辻番付、役割番付、絵本番付、絵入狂言本、絵尽、役者絵、役者本なんかが大量に流布してたなんてことを申しました。
役者本というのは文字通り特定の役者のことを採り上げた本で、ミーハーなタレント本から芸道を賞賛する堅めのものからゴシップまでいろいろ幅広い種類があったのは現代と同じです。そんな役者本の一種として<贔屓本>というものがございました。役者の贔屓(ファン)が自ら出版した本です。
あたしは漠然と現代の同人誌やファンクラブ会報みたいなもんだと考えていたのですが、おそらく初めて贔屓本をきちんと論じた本であろう神楽岡幼子の『歌舞伎文化の享受と展開−観客と劇場の内外−』を読んで、少し違うような気がしてきました。
<贔屓本>を識るには、まず前段階として<摺物>について識っておく必要があります。
<摺物>とはこちらの外人さんのページが判りやすいですが、冊子などではない一枚物の版画のことでして、浮世絵などのような商品ではなく個人が知り合いに配るために制作する物を云います。俳諧や狂歌なんかをやってる人が自分の作品に挿絵を入れて仲間なんかと交換するわけです。なんせ儲けなんか考えてませんから採算度外視で、また浮世絵なんかはカラフル嫌いの幕府の弾圧を受けることがありましたが私的な<摺物>は規制を受けなかったようで贅沢の限りが尽くされたみたいです。絵はプロの絵師に指定して描かせることが普通でした。
この<摺物>を役者の贔屓連中も制作するようになるわけです。当然、役者の芸を讃えたり、芝居や役者の私生活の情報を報告した内容になります。
とくに文化文政の大坂で絶大なる人気を誇った三世中村歌右衛門の贔屓が量質ともに他を圧倒しておりまして、この本でもその周辺のことが論じられてます。
歌右衛門の贔屓たちは大量の<摺物>を競って制作してお互いに配り合っていただけではなく、貼込帖に貼り附けて蒐集していたわけですが、これは個人のコレクションとしてではなく貼込帖自体をかなり広範囲の人々に回覧して愉しんでいたようです。ファンクラブの仲間内以外にも広く<摺物>を流布させていたようで、現代のウェブページ制作や、ほかの面白いページを紹介するリンク集づくりとあんまり変わりません。
ちょっと違うのは一流の絵師や職人に金を払ってとことんイメージ通りに仕上げることでして、現代のウェブページ制作で知り合いにちょっと絵を描いてもらうことはあっても何度も駄目出しをして想い通りにするなんて方は個人ではいないと想います。同人誌なんかもあくまで自分の作品を発表するためのもので、能力のある人を集めて細かく指図して想い通りの作品にするなんてのはあんまりない。
さて、<贔屓本>はそんな背景のもとに出版されたわけですが、<摺物>を集めてそのまま一冊の本にしたものや、出版社が贔屓から狂歌を募集して一冊にしたもの、あるいは贔屓そのものを役者評判記風に何百人も紹介したものなどいろんな内容の本がいろんな関わり合いのもとで紡ぎ上げられていきました。歌右衛門の芝居の作者が編集に加わったりして、こうなると現代の芸能事務所や出版社がファンを利用してビジネスをしているのと同じだと感じるやも知れませんが、贔屓のほうには<摺物>以上に広範囲に歌右衛門の素晴らしさを伝えたいという戦略があり、芝居にさえ介入するくらいですから当然想い通りの本造りを貫くはずで、また出版社社長や芝居の作者も歌右衛門ファンクラブの仲間だったりで、なかなか簡単には説明できません。
神楽岡幼子も贔屓と出版社のどちらが主導権を握っていたかは判らないと書いてるし(若い世代の女性で歌舞伎好きとなると同人誌を識らぬはずもなく、含みのある表現はしているけど)、あたしの貧弱な知識で歯が立つような問題ではないので以下で述べることは妄想としか云いようがありませんが、あたしがひつこく説いてるコミケなんかの自分が描きたい本の出版ではなく、自分が読みたい本の出版活動として理想的なものがすでにここにあるんではないかと想っています。
少なくとも贔屓の制作する<摺物>は、俳諧や狂歌連中なんかのそれとも違ってずいぶんあたしの考えてることに近い。また、歌右衛門の<贔屓本>を一手に引き受けていた出版社・河内屋太助の「印刷、版下、文章までご希望しだいの内容で引き受けます」という同人誌制作広告が載ってるんですがなかなか面白い。あたしの云う自分が読みたい本の出版活動というのは出版社を排除することではなく、出版社なんかは道具として読者が使いこなしてやればいいという意味であるのですから。
なんにせよ、こんなことを仰々しくぶち上げるにはあたしの江戸文化に関する知識はおそまつ過ぎるな。そもそも<贔屓本>や贔屓連中の制作するたぐいの<摺物>を実際に見たことがないんではお話にならないとウェブ上を探していて、早稲田大学がいつの間にかエライことになっているのに初めて気が付いた。
演劇博物館所藏の4万7千枚に及ぶ浮世絵のすべてが、去年の末からウェブ上で実物大で公開されていたのか!全然識らんかったよ。たとえば三代目歌右衛門だけでこんな具合に687枚も出てくる。また、文学部には俳諧摺物データベース(何にも入力しないで「Search」を押すと順番に出てくる)なんてのもある。
なんかウェブもやっと理想的な姿になってきたようですな。大学なんてのはくだらない感想文みたいなのばかり大量生産する前にこういうことをやってくれんとな。あとは個人の活動が江戸時代の連中に負けないくらいになればいいんですが。
ところで神楽岡幼子のこの本は1万2000円もするんですな。堅くて内容のよく判らんタイトルを附けねばならぬ事情とともに、江戸時代から後退しているような2002年のわけの判らん出版状況を顕す事例として後世に残るでしょうか。せめて『贔屓本の世界』くらいにするか、想い切って副題に「江戸時代の同人誌」とか「江戸時代のウェブ」とかハッタリをかましておけば多少は話題にもなったのでしょうが。
玄人スジの書評さえもウェブ上にはひとつもないのはどういうことか。あたしの知識が足りないだけでなにか問題含みの本でもあるのか。いろいろいっぱい傷ついて、現代の本には無闇と疑心を抱く哀しきあたくし。
あたしはできだけこの手のものを避けるようにしているのだが、ついうかうかと東浩紀『動物化するポストモダン』なんてものを読んでしまった。これはしかし、いくらなんでも酷すぎるな。
この本にあるようなことは江戸時代の歌舞伎や文楽に於いて遥かに洗練された形で完成している。それを論じたものも遥かに洗練された形でいくつもある。そんなことも識らない無教養にも驚くが、本を一冊読めば判るようなことを調べもしないで、この手のことが最近はじまっただのポストモダンだのと云ってる怠惰はいったいなんなんであろうか。
高校生の作文ならともかく、この人はもういい歳のはずなんだろうが。無防備なままに適当なことを云って、あとで間違いが判れば謝って済む問題なのかね。うーん、そのうち歌舞伎のことを識って、自分が発見したみたいに大騒ぎするであろう様子が目に浮かぶ。
唐沢俊一がきちんと批判するだろうと想っていたのだが、この人は最近の歌舞伎は詳しいみたいだけど江戸時代の歌舞伎や文楽にはあまり智識がないらしく少々頼りないな。大学には江戸文化に詳しい人もいるんだろうから、こういう無智蒙昧のうえに怠慢なる精神の輩には制裁を加えておいてもらわないと困るよ。本人のためにもこの本は回収したほうがいいんではないのかね。
この本のネタ元になったとおぼしい大塚英志の『物語消費論』では歌舞伎の<世界>のことを「大きな物語」と形容している。この人も歌舞伎を識らないままに書いてるようだが、「大きな物語」というのは誤解を与える表現ではある。
<世界>というのは絶対的な存在ではない。通常の演目でも二つか三つの<世界>が組み合わされる。南北になってくると七つも八つもの<世界>が「ないまぜ」となる。しかもこれは物語の幹となる部分の話であって、細かいシチュエーションやキャラやアイテムなどを入れると膨大な数になってくる。そもそも、元となる<世界>のほうも先行するいくつもの物語を踏まえているのであって、それらを踏まえて創られた作品はざっと百程度の<世界>を組み合わせたものと考えられる。現在のまんがやアニメが先行する作品からいろいろいただいてくると云ってもケタが違う。
これはできるだけ多くのものを踏まえるほうが教養があって偉いということもあるが、なにより役者にいろんな役やいろんなコスプレをさせたいという観客の欲求に応えるためにあるのだ。
だいたいまったく違う物語の<世界>をいくつも組み合わせるのだからストーリーは最初から破綻している。何百年前の武家の話と現代の町人の話が平行して絡み合い、しかもひとりの役者が町娘とお姫樣、ときには悪役を同時に演じる。一幕ごとに話は飛び、そもそも一幕ごとに作者も違う。
これは人気役者にいろんな有名萌えキャラをさせてお馴染みの萌え萌え名セリフをいくつも云わせて、しかもいろんな相手役との受けX攻めやおい関係を一度に全部観たいという、ヲタク慾望まるだしの観客がお腹いっぱいになって小屋をあとにするためのもので、現代のヲタク作品もまだまだここまで割り切って創られてはいない。
グッズ類の販売に関してもそうだが、すべてが消費文化としてすでに完成されていた。さらに重要なのは歌舞伎も文楽も当時の日本人にとって擬似的な日本だったことだ。飛鳥時代の話なのにみんなチョンマゲを結って現代の着物を着ている。現代の話であってもじつに奇妙な格好をしている。当時の日本人にエキゾチズムとセンスオブワンダーを感じさせるために歌舞伎も文楽もあったからだ。ヲタク文化の神髓だ!
この手の話を識るには須永朝彦の 『歌舞伎ワンダーランド』を最初に読むのがよろしかろうが、この本はヲタク論としても東浩紀なんかより格段に優れているとあたしは考える。この本を読んだ先は『郡司正勝刪定集』なんかが面白いが、それよりなにより歌舞伎を観ろ!ほんとはヲタク文化を深く論じるには文楽のほうが遥かに適しているだが、歌舞伎さえ観たことのない者には説明のしようがない。少なくとも歌舞伎を識らない者がヲタク文化を論じていたらそれはすべて出鱈目だと考えたほうがよい。その前にすべて默らせてもらいたいもんだ。
あたしが歌舞伎や文楽を観はじめた20年前は劇場はがらがらで若い者などほとんどいなかったが、いまでは若い者であふれている。これは日本人が明治以来しばらく失ってしまっていたヲタク魂の復活以外のなにものでもない。この復活というのが判ってない輩はヲタク文化をなにも理解していない。
ちょっと話は変わるけど、歌舞伎が門閥主義であるのは武士の影響が強い江戸だけの話で、歌舞伎の本場である上方では江戸時代から完全実力主義だったのですよ。どんな名門の息子でも最初は子供芝居からはじまって、中芝居で人気を得たら大歌舞伎の舞台に立つことができるというのが普通で、逆に生まれは何でも人気さえあれば頂点に立つことができたのです。江戸では考えられないことです。文楽はいまでも家に関係のない実力主義ですが、関西人のホンネ志向の顕れです。唐沢俊一さんも歌舞伎について発言するなら江戸時代の歌舞伎についてもうちっと勉強していただかないと。『役者論語』なんかは最初期の元祿の話だから現在の歌舞伎と同じく厳密には歌舞伎とは呼べませんので。
さて、こんな形式に囚われない自由主義のために戦後は市川雷蔵を初めとしてみんな映画に進出し、おもろければ何でも受け入れる関西の客もこれを容認し、上方歌舞伎は崩壊してしまったわけです。門閥だのにこだわる江戸歌舞伎は役者と観客の流出に歯止めが掛かって存続することができた。いまでもくだらない権威主義があるからこそ役者が留まっているので、そうでなければ全員松たか子になっていると想います。
2ちゃんねるの伝統芸能板を観れば判るように歌舞伎ファンというのはほとんどが役者のミーハーファンで、小難しいことは云わずに江戸時代そのままのじつに正しい態度で愉しんでいる。こういうところにヲタク的教養は確かに受け継がれている。ヲタク文化を論ずる者はきちんとこの<世界>を踏まえるように。
判りましたネ。
歌舞伎でのやおいやヲタク要素の具体的ありかたは2001/12/28 因果は巡るも参照のこと。
2002/5/9 ヲタク的教養とは何か2も参照のこと。
50年ぶりの全通しとかいうことで国立劇場の『三人吉三廓初買』を観る。
ひさしぶりの歌舞伎なのにまた苦手の幸四郎。あたしが歌舞伎をほとんど観なくなってから幸四郎シンクロ率が70%を越えておる。それだけ珍しい演目をやってるということかな。同じく珍しい復活演目をよくやってる菊五郎はなんか観逃しておるというに。
もっとも、七五調のせりふとガチガチの構成とで絡め取られた黙阿弥芝居では幸四郎は逆に生きる。悪くない。
赤の他人のはずの三人がなぜか同じ吉三という名で義兄弟となり、じつは親子だったり、親のカタキなり、近親相姦なり、また同性愛なり、殺し殺され盜み盜まれ、登場人物たちがおよそ考えられる限りのあらゆる関係を互いに結んでゆく。その人々の間を名刀庚申丸と金百両が複雑に流れてゆき、最後にこのふたつのアイテムが揃ったときに張り巡らされた因果は緘じ、三人吉三は差し違えて死ぬ。
主役は明らかに庚申丸と百両で、これは何かというと関係の視覚化で、つまり張り巡らされたリンクそのものが物語の主眼である。丸まっちいものとトンがったものの結合は、アムロがビームサーベルでララァのエルメスを貫いたのと同じリンクを象徴しているのでしょう。
七五調の流麗華美なるせりふも登場人物の心情やテーマを語るものではなく、ただ調子よく美麗な形象を形造るためだけのものであって、前後の言葉との関係から紡ぎ出されて成り立つものである。また、八百屋お七と寺小姓吉三との恋物語を踏まえている。
日本のヲタク文化が先行する作品を踏まえるのは、ネタに困窮したゆえのパクリではなく、パロディーでもたんなるリスペクト引用でもなく、何かと結びついていることそのものに意味があるのである。なにゆえか孤立が重要らしい歪んだ西洋文化とはまったく違う。ヲタク作品にオリジナリティーなど求めるのは、ウェブ上にサイトを構えながらリンク拒否しているようなもんで、根本的錯誤ではある。
とくに黙阿弥は因果(リンク)にもっともこだわる作者で、そのなかでも『三人吉三』は極めつけ。ここまで縱横に絲が張り巡らされ雁字搦めだと登場人物はもはやたんなる人形で、幸四郎の如きリアリズム演技のはみ出し具合が却って面白味となる。どれほど歌舞伎らしくなくやっても簡単に跳ね返すほど強靱なる構築が事前に施されている。
戦後ずっと上演されてきたダイジェスト版『三人吉三巴白浪』では三人のアウトローの物語で因果は背景に過ぎなかったが、今回の復活で因果が主役だとはっきりした。もっとも、あたしには観ててよく判らんところがあって原作に当たってみたらやっぱり肝心なとこが切られてる。ミッシングリンク回復のための復活上演のはずなのに、もうちょっとなんとかしてもらいたいもんだが。
染五郎の女形は相変わらず評判著しくないようで。あたしはというと一年前の桜姫の時と比べて女形が板についてきていたのに感心する。
もちろん、あやうい刹那は眼に余るほどあるものの、こういう危なっかしい時期こそ女形としてもっとも美味しい頃合いのような気もする。
問題はあやうさの中身で、これまで芸の未熟な女形は幾人も観てきたけど、女に成り切れない女形というのはあたしは初めてだ。『加賀見山』の岩藤のようにゴツい立ち役がわざと扮する役処さえ男と女の境界が真にあやうくなることはまず無い。演出としてやることはあるものの、役者の存在の破綻としては観たことが無い。画期的なことで、これこそ女形の原点ではあるまいか。このあたりを突いた評がないのは解せんな。
もっとも、お嬢吉三はじつは男なんであって、しかもじつは八百屋お七という役であるから女形として評価するのはなかなか簡単ではない。
歌舞伎は先行する作品を踏まえるのだから、そのへんの町人がいきなり「じつは曽我五郎」とか「じつは八百屋お七」というのは珍しくはないが、ほんとに八百屋お七ならお坊吉三との関係が同性愛として成立せず、生まれ変わりとしても妙なもので、そもそもお七の相手であるはずの吉三の名を名乗ってるのだからややこしい。もともとふたりの役をミックスして三人に分割したのは、吉三に3が入ってることやたまたま主役級の役者が三人いたからなんだろけど、よく識られた物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという歌舞伎の第一テーゼであるところのその趣向の対象として<関係>そのものが扱われるようになったということでもある。
リンクの先にあるものではなくリンクの張り方そのものが芸となる。黙阿弥の前にこんな多重のメタ次元のことをやったものがいるのかどうかすぐには想いつかんが、因果に拘った幕末の歌舞伎の完成者である黙阿弥ならではの趣向ではある。ヲタク文化を論ずる者はこのあたりはきちんと押さえておくように。
今回復活されたミッシングリンク・木屋文里の場で、和尚吉三の幸四郎が二役で文里をやっていた。しかし、恋仲の一重はさすがに地味な正統派女形は無理と判断したのか染五郎ではなかった。本来はお坊吉三と恋仲のお嬢吉三の役者が和尚吉三の恋仲も二役同士で勤めることで、三人吉三の歪な愛慾三角関係が緘じるはずなんだが。実際、初演時の配役はそうなっとる。
これは物語としての円環が緘じるだけではなく、人気役者同士のやおい組み合わせを客にすべて見せることに重点があることに注意。歌舞伎は最初からこういうメタ構造を持つ。
評論家の劇評を読むと「現代にも通ずるリアルな世界観」とか「登場人物の心理描写の掘り下げ」がとか相変わらず見当はずれの文言が並んでて、やおい作品にこんな評を大真面目にやってると考えればいかに莫迦かが判ろうと云うもんだが、この二役問題に触れているものがなくもう致命的だ。染五郎の出番が少なくて悲しいと嘆いているお姉さま方のほうが的確に芝居を観てる。黙阿弥はファンにこんなことを云わせる作劇を決してしなかった。
染五郎は出突っ張りで何層にも関係を構築すべきであった。恋人同士にならなければせっかく親子というリンクをしょって競演した甲斐がない。
もっとも、文里と一重の悲劇的な最後が今回は切られていて、親子でこれをやってくれたら、男女の境界に破綻というリンクを張ってくれたら、黙阿弥の目論見以上に完璧なんだが。
まあ、なんのかんのと云いつつ、脇までなかなか揃っていて大いに満足する。
あたしは文楽を観るようになってから文楽を原作とする義太夫歌舞伎は莫迦莫迦しくて観る気が失せてしまったし、南北物は役者の当たり外れが大きいと云うかほとんど外れしか観たことがない。それが、黙阿弥の通しは全部当たりだった。やっぱりぎちぎちの構成だと少々役者に難ありでも安心して観ていられる。
あたしはこれからはもう歌舞伎は黙阿弥だけでいいな。ほんとは南北を揃った顔ぶれで観たいのだけど。
なお、これは減点法でしか観れなくなってしまった字義通りの半可通の見解で、初心者は細かいことは気にせず南北のぶっ飛んだ芝居なんかから観ることをお獎めする。
ただし、誰の作にせよ最初から最後までやる<通し>で観ること。リンクが切れてしまっては歌舞伎など観る意味はまったくありませぬ。
いや、いくつかの幕だけやる<みどり>てやつがやたらと多いのです。リンクが切れたウェブみたいなもんで嫌い嫌い大嫌い。