三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
とりあえず、半端な想いを綴っておく。
八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという<やおい>的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の<形>をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。
あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』 だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。
昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。
ブラック・ジャックの素『ジキルとハイド』の最終回があまりにあまりなことになっていて、おくちあんぐりの絶望書店主人でございます。
これはやはりとてもテレビでやるようなしろもんではございません。アングラ映画館あたりでこっそりと上映するのにふさわしい。そんな怪しげな処で昔観た『フリークス』なんかよりは遥かに強い衝撃を受けました。
アイコン屋のこのページに画像が少しだけあるのですが、残念ながらあまりブラック・ジャックには似てない貌が載っています。ジキルとの左右合成シーンもずれたものが載っていて、ぴったり重なった部分はありません。まあ、ビデオキャプチャーを買うこともなく勝手にリンクを張る当方とは意図が違うのですから、致し方ございません。
ハイドは妙なスタイルのコートを着ているのですが、その全身を観れば誰もが頷くほどそっくりです。とくに大勢を相手に立ち回りをするシーンなんかはそのままだと感じられます。
最終回は「気狂い」なんて言葉が連発されてそのまま流されていたのですが、一カ所だけ松尾嘉代のセリフが消されておりました。いったいどんな凄いことを叫んでいたのか、どうにも気になりますのでお判りの方は教えてください。
ラストは「誰でもがハイドの部分を秘めているのかも知れない」といったこの手のお話にはありがちの問い掛けで締めていたのですが、さすがにこの丹波哲郎ほどデーモニッシュな狂気を持ち合わせている奴はいるかい!と想わずブラウン管に向かって突っ込んでしまいました。
いや、ひとりいるとすれば、それは手塚治虫その人でありましょうか。
ぼーぜんじしつになってしまった頭を整理しようと石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』を読んでいて、「ロボットは成長しない」というのが『鉄腕アトム』の中心テーマであることを想い出しました。生涯のテーマであったメタモルフォーゼに反するふたつの作品が手塚治虫の代表作となっているのはなんとも皮肉な話です。
石上三登志さんによると手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。
また、『火の鳥』の最後は『鉄腕アトム』になる予定だったというかなり確実な話がありまして、手塚さんは宇宙を支配する神秘の力の手を借りてまでもアトムを成長(メタモルフォーゼ)させたがっていたのでしょうか。あるいは、成長しないロボットと對峙させることによって、メタモルフォーゼする生命の神秘を逆照射させようと目論んでいたわけでしょうか。
こういう『鉄腕アトム』へのこだわりと比べて、『ブラック・ジャック』のあつかいはなんとも不思議な気もします。
ロボットとは違ってこちらにメタモルフォーゼを持ち込むのはなんの問題もない、いやむしろ手塚治虫お得意の二重人格(メタモルフォーゼの一種)を授けるのが自然なはずなのに、ブラック・ジャックもピノコもいかにもな設定でありながら絶対に変身しないのです。かなり意識的にメタモルフォーゼを避けている。両極の性格は二重人格の如く変身によって切り替わるのではなく、ドストエフスキー的にひとつに融合している。それでいて、アトムのように作者に嫌われることもなかった。
メタモルフォーゼの殿堂・虫プロ倒産から手塚的二重人格の典型『三つ目がとおる』開始までの一年間は、手塚治虫最大の危機で誰もが再起不能だと考えていた時期です。すでに過去の人だった手塚さんが少年誌でヒットを飛ばすなんて想像もできなかったし、借金は莫大な額でした。結局すぐに二大ヒットが出たわけですが、この期間さすがの手塚さんにも心境の変化があったのか、『ジキルとハイド』オープニングの左右合成された丹波哲郎の貌の衝撃がそこまで強かったのか。
手塚さんは時代ごとにいろんな作品から影響を受けていますが、ここまで根本的に変革を迫られるほどの力をおよぼしたのは丹波哲郎の貌だけだったような気がします。単なるテクニック上のことではなく、当時の絶望的な心境に共鳴したからでもありましょうか。あるいは生命に對峙する役だったからなのでしょうか。
『手塚治虫の奇妙な世界』を読んで「ロボットは悪いことができないので不完全」というのが『鉄腕アトム』のもうひとつのテーマであることを想い出しました。アトラスという悪い心<オメガ因子>を持った完全なロボットがいたことも。
手塚治虫のテーマに反することによって、『鉄腕アトム』はきっちりとテーマを逆照射するようになっているのですな。また、いろんな意味で作者の思惑を超えてしまった『鉄腕アトム』を制御したいという欲求を手塚さんは持っていたような気もします。<愛人>であるアニメに通ずるところもあるし、案外メタモルフォーゼ的と云えなくもない。
その点で観ても『ブラック・ジャック』というのはどうにも特異な位置を占める作品と云えましょう。
『手塚治虫の奇妙な世界』は成長しないアトムについて一章割きながら、成長とメタモルフォーゼとを結びつけておりません。また、手塚治虫の重要なるモチーフとして二重人格についても一章割きながら、アトラスともブラック・ジャックとも結びつけておりません。
その点、掘り下げが浅いとも云えますが、持ち出す視点がおもしろく、こねくり廻していないぶん好感が持て、これが手塚研究書として最初のものらしいですけど一番優れているように想います。それに引き替え、あたしのやっていることはどうにもよろしくはございませんな。
米沢嘉博さんなんかは「手塚治虫は解釈を誘うようなトリックを作品中に意識的に埋め込んでいる」といったようななかなか穿ったことを云っておりまして、あたしもその罠に掛かっていろいろ云っているだけかも知れませんが、まあ想いついたものはしょうがありません。
『ジキルとハイド』みたいに観たあとただ唖然と言葉を失っているばかりでも面白くはありませんからな。
いまファミリー劇場で丹波哲郎・主演の『ジキルとハイド』という何とも形容のし難い凄まじいドラマをやっているんです。
医者の慈木留(ジキル)が薬で変身して殺すは犯すは極悪非道の限りをつくすわけですが、このハイドの暗い姿格好がブラック・ジャックそのものでして、いつも白衣を着ている白髪の慈木留と左右半々に合成されるオープニングはもうそのまんまでして。少なくとも、加山雄三よりも宍戸錠よりも本木雅弘よりも出崎統アニメのブラック・ジャックなんかよりも遥かにぴったり重なります。
ああ、手塚さんは確実にこれを観てるな、ブラック・ジャックの素が丹波哲郎とはこりゃまた驚いたもんだなと調べてみたれば『ジキルとハイド』の放映終了が1973年の4/24で、、『ブラック・ジャック』の連載開始がその半年後の11/19号なんですな。
『ジキルとハイド』は1969年製作なんですが、あまりに殘虐かつシュールな内容でお蔵入りになり、やっと三年以上経ってから23:15−00:15という当時としては異例な深夜かつ半端な時間帯に一度だけ放映し、地上波ではその後まったく流されなかったといういわくつきのドラマであります。
、『人造人間キカイダー』の長坂秀佳がシリーズ構成をやっているんですが、さもありなんといった出来でして、なんせ時代が時代ですからさらに輪を掛けてサイケな絵づくりとなっております。いま観ても、お蔵入りは充分うなずけます。
露口茂が血の気の多い刑事役で出てきたり、もういい歳の松尾嘉代のセーラー服姿が拝めたり、池田昌子が乱暴されながらも悦んでしまう人妻だったり、もちろん丹波哲郎のイッてしまった怪演とたまらん観処満載で、これだけでファミリー劇場と契約する価値はありますな。
そんな丹波哲郎の導きで、ジキル博士とハイド氏のふたりの分身をさらにもう一度ひとりに合体させたのがブラック・ジャックだということに、たったいま初めて気付いてしまいました。だからこそ、髪や顔が白黒半々の姿をしていて、名前が間(はざま)だったんですな。だからこそ、恐怖コミックスだったのですな。
こんな簡単なことに、あたくしはいままでなんで気付かなかったのですかな。皆様には衆智のことだったのでしょうか。近所の図書館で読むことのできる20冊ほどの手塚治虫研究書に眼を通してみましたが、どうも見当たらないのですが。手塚治虫自身のハイドだというような捉え方はありますが、これは明らかに誤りですな。両極端な性格を併せ持っていた手塚治虫の投影だというのなら、まだしも判りますが。
手塚さんはブラック・ジャックは海賊のことだとかなんとか云ってますが、どう考えてみても両性具有ならぬ両性格具有の<黒いジキル>から来ているのでしょうな。第一回目の扉絵はふたつの貌を持つトランプのジャックですし。
ほかの人のブラック・ジャックよりも丹波哲郎のほうが近いと感じるのは、きちんとこの主題を踏まえているからなんでしょう。
而して、こんなことに気付いてもただ虚しいだけです。
あたくしはドストエフスキー云うところの「両方の岸がひとつに出逢ってすべての矛盾がひとつに棲む」「聖母とソドムを併せ持つ」という完璧な人間描写を史上初めて爲し遂げたのは古今東西あまたの物語のなかで『ブラック・ジャック』、それもこの主人公ひとりだけであると常々考え感歎していたのですが。種明かしをしてみれば簡単なことで、なあんだという感じがあります。
まったく困ったことでして、完成した作品をこんなふうに部品に分解して分析してみても、理解したということにはなりません。まさしく寿司屋のアナゴの一種に過ぎません。美女の骸骨をわざわざ視て、永年抱いていた大切な想いまで永遠に失ってしまったようで、情けないことであります。
さはさりながら、『ジキル博士とハイド氏』の主題は変身なんかしないで一個の人格に結晶させたほうがより複雑に深遠になるというのはコロンブスの卵で、ほかにありそうでなかなか見当たりません。悪人が善人を装ったり、また善人が悪に染まったりといった話はありますが、それらはすべて変身の一種で、同時にふたつの性格をドストエフスキー的に内在するのはブラック・ジャックしかあたしには想いつきません。ドストエフスキーの登場人物さえこれほど完璧なる造型ではありません。
デビュー以来飽くことなくメタモルフォーゼを描き続けた手塚治虫が、虫プロが潰れて究極のメタモルフォーゼたるアニメに挫折したまさしくその年、引退記念とも囁かれた『ブラック・ジャック』に於いて、変身とは反対のベクトルである<逆ドッペルゲンガー>を描いたのは必然なのでしょう。
それがおそらく想ってもみなかったコロンブスの卵、ヒョウタンツギからコマを生み落としてしまった。手塚治虫生涯のテーマに逆叛(あるいは濃縮)するこの主人公が、皮肉なことに矛盾した両極端な性格を併せ持つ手塚治虫自身の投影ともなってしまった。おまけに、大人と子供を併せ持ちながらも決して変身しない<ふしぎな逆メルモちゃん>であるピノコまで生み出してしまい、こちらのほうは矛盾ではなく理想の完全体として女性からは憧憬されているらしい。
丹波哲郎の靈氣や恐るべし!三年間のお蔵入りがなかったら、これらすべてが地上に存しなかったのやも知れぬのですからな。
まあ、こんな詰まらん分析をしているうちに、ヒューマニズム云々だけではなく世間一般のキリコとブラック・ジャックとの対比の仕方にこれまでどうも違和感を感じていたのは何故なのかが判ってすっきりといたしました。<寿司屋のアナゴ>談義も多少は役に立ちます。
ところで、ウェブ上では『ブラック・ジャック』の連載開始を1/19号と間違えて記しているページがあまりにも多いですな(間違えているとこのが多い!明らかにウイルス状に増殖しておる!)。週刊誌の実際の販売日は一週間前ですから、これでは『ジキルとハイド』の放映開始日1/9とぴったり重なってしまいます。
「すわっ!シンクロニシティーかあ!?」とあたしが仰天しますので、これ以上拡がる前に皆で手分けして訂正させなさい。あーびっくりした。
4/24 ブラック・ジャックの素2も参照のこと。
※2006年12月27日(水)の深夜0時から、ファミリー劇場で『ジキルとハイド』全13話一挙放映が決まったようです。
女房を売り飛ばしてでも観るべし!!!!
すんごいよ。とくにブラック・ジャックのアニメやドラマを制作するスタッフは刮目して観るように!!!出崎さんなんかにもちゃんと観てほしい。
『タイムトラベラー』が来年三月、DVDで発売されることが決まったそうです。詳細は少年ドラマ伝説をご覧いただきたい。
『タイムトラベラー』が2001年にDVDというのは、まったくSFの世界であります。当時の自分に聞かせてやりたいもんです。
しかし、子供の頃の自分に湧いたであろうほどの昂奮があるわけではございませんな。いや、30年ぶりに『タイムトラベラー』が再び観れるのは大いに結構なことで、そのことではございません。器の話です。
女子供の棚に並べております『これからのせかい』に出てくる武部本一郎の未来画は電子レンジだったり有線テレビでお買い物だったりと、現在実現されているものが多いのですが、それでもこの本のほうが現実よりもわくわくします。とても比べものになりません。
現実の技術のほうはヲタク心が欠けているからなんでしょう。DVDなどは、存在そのものがもっと昂奮をもたらすことができるはずなのですが。
結局、時間というものは人の心の中にあるもので、物理的世界がどう変化しようと心のほうを刺激してくれないと未来にやって来たことにはなりません。タイムトラベルとは意識の変容のことであります。
昨今持て囃されているロボットなどもこの一番肝心な機能が欠けていて、あたしはあまり感心しません。ああいうものに喜んでいる方は、あたしの考えるような正しいヲタクの心を持っていないと愚考いたします。ヲタク文化がこういう方面にきちんとした影響を与えていないのは大問題として認識されるべきだと想います。
その点、パーソナル・コンピューターなどというものはじつに結構なものでございます。これはジョブスというおかしな人物のパーソナリティが反映されているからなんでしょう。
パーソナル・コンピューターの個人とはジョブスのことであるという基本的なことがあまり理解されていないのは残念なことです。こんな矛盾だらけで史上初めて人間以上に不合理な道具が生まれたのは、それ故なのでありますから。
絶望書店もその部品のひとつ、とくに意識を変容させる方面の機能を受け持つ部品のひとつとして、ますます性能を発揮させていきたいものでございます。