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絶望書店主人推薦本
●女の子向け

 
『炎の女 伊藤野枝伝』

岩崎呉夫 昭38年初版 七曜社 カバー痛み 2000円
伊藤野枝の28年間の無茶苦茶な人生も凄いけど、それ以上にこれは本として実に良くできている。とくにラストは胸締め附けられる!!女子読むべし!!


●男の子向け

 
『ニューヨーク武芸帳』

坂本正治 昭51年初版 中央公論社 並上、少カバー痛み、帯 2000円
坂本正治の痛快本!!前途渺茫たる学生さんには殊に強く推奨いたします。男子読むべし!!売切れました。


●言葉に戯れたい人向け

 
「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」
三島由紀夫『小説家の休暇』『裸体と衣裳』をも越える多彩なる思索日記。うねうねとたゆたう独特の文体もたまりませんです。



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Archive for カテゴリー'ヲタク'

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2002/4/2  君よ!そこに遺書は遺せたのか!?

 いつもの如くに前フリが長いので、特撮に興味のない諸氏は後半だけでも必ず読むように。

 最近になって特撮映画をまとめて観るようになって、どうも特撮ファンの中には土屋嘉男に格別の注視を注いでいる方が結構いることに初めて気付くようになった。
 もちろんいい役者さんではあるしやってる役も宇宙人の電波を脳内受信したりガス人間だったりとへんてこなのが多いのでまあ判らんわけではないのであるが、ただ例えば平田昭彦や中丸忠雄のようにへんてこオーラを発しているいい役者さんがいろいろいるなかで殊更へんてこ役者として土屋嘉男を挙げるのはもひとつあたくしにはピンとこないところがあった。
 それが阿佐ヶ谷ラピュタで円谷英二特集の第二弾がはじまって『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』を観るに至って、ようようあたくしの胸にも落ちたのである。

 この映画に出てくるフランケンシュタインは子供の頃観てもっとも怖かった怪獣で、ほんとに夜中にぬっと現れるのではないかと想える圧倒的な存在感(あの貌とともに団地との縮尺が効いてる)と、まったく反対に自分がああいう境遇に陥ってしまったらどうしようという強迫観念を幼いあたしに刻み附けたのでありました。立場の相反する二重の感情移入を同時に喚起せしめた怪獣は、いや怪獣以外でもあるはずもなく、『マタンゴ』や『サンダ対ガイラ』以上のトラウマをあたしに刻印し、いま実際にあんまりかわらない境遇に陥ってしまった遠因になったのではないかと考えている。
 何十年かぶりにその想い出の彼に再会できることを愉しみにしていたのだが、彼を差し置いてあたしの眸は土屋嘉男に釘付けになっていた。いやあ、こりゃ、ほんとにへんだ。あたしはこれまで数限りない物語を浴びてきたが、これほどへんてこな登場人物をほかに識らない。
 この人のほかの役がへんだと云っても、宇宙人に操られたり気狂い博士に改造されたりといったそれなりにやむを得ない理由というものがあった。この映画ではなんの理由もなくまったく関係のないふたつの重大事件に何故か偶然立ち会い、誰に操られるわけでもなく何故か自ら事件に深入りし、事件解決にはなんの役にも立たず、それどころか物語自体にもなんの役にも立たないまま意味ありげに途中で退場した切りぷいっと帰ってこない。いったいなんのために出てきた登場人物なのか一切の説明を峻厳として拒む宙ぶらりんの不安な存在としてただそこにある。
 そんな訳の判らない役をまた重厚に嬉しそうに演じていて、そもそもこの確かな演技があるからこそどうでもいい端役ではなく物語の無意味なる重しとして我が舊友のフランケンシュタインを脇に押しやるほどの不安を掻き立てているのであって、当時からへんてこ役者として認知されていてわざわざこんな役を用意してもらったのであろうか。とにかく「土屋嘉男なんだからしょうがない」とでも想って諦めるよりほかはない役ではある。
 普通の人なのに人智を越えた運命に見舞われ物語にさえ拒絶されるとは、立派な最期を飾らせてもらえたガス人間よりも疎外された悲しい存在と云える。

 ここで俄然興味の湧いたあたしは初めて「土屋嘉男」で検索し好きで悪いか土屋嘉男に辿り着いたのであった。あー、長い前フリ。
 去年の末から特撮映画を立て続けに観るようになって、ここの特撮映画評も読んではいた。しかし、表紙を観ていなかったので、ここが世界で唯一の土屋嘉男サイトであって、作者である女性が若くして一年前に亡くなっていることにその時までまったく気付いていなかったのである。
 楽しんで読んでいた文章の書き手がすでに死んでいたという事実にあたしは意外なほどの衝撃を受けた。本ではこんなことはないのだが。もっともあたしは古い本しか読まずにこういうことがあんまりないせいなのかも知れんのだが、はたまた、ウェブは歴史が浅くこういうことがまだあんまりないせいなのかも知れんのだが、とにかくスタンドアロンで時間を超えている本と、一応繋がっていてリアルタイムのような気がするウェブサイトとの差異とはなんであろうかと改めて考えさせられたりしている。インターネット上では性別や年齡差を越えてしまうことがあるが、こういう生死の差を超えるようなことがこれから当たり前になるといろいろややこしくなるのであろうか。電話で愉しくおしゃべりした相手がじつは死んでいたという感覚。
 また、作者の死んだあとに残るウェブサイトとはいったい何者であるのだろうかということも時々話題になることがあるが、実感を持って考えさせられたりしている。
 文学少女の遺稿集が本になったりするのはよくあることで、ごく稀に『薔薇は生きてる』の如き奇蹟的な本が生まれたりするが、この沙魚川無腸という女性のサイトもそれに匹敵するくらいの珠玉の出来ではないかとあたくしは考える。
 この方の文章はこちらこちらにもあるが、特撮関係もそれ以外もレベルが極めて高くておもしろい。ヲタクの遺書としては理想的なんではあるまいか。
 おまけに、白血病になる前のものだと想われるがこのページの下の方には「遺言」と銘打たれた文章までがあり、こちらも見事だ。ウェブ上のあちこちにこの人は足跡を遺しているが、総体としてじつに見事だ。お嬢さま、お見事でございました。

 いろいろ観て廻った限りではこの方の友人たちはサイトの契約内容を把握しておらず(自分のサイトのことさえ判らなくなるのはよくあることでやむを得まい)、消滅するのは時間の問題だと想われる。もちろん、サイトは無くなってもデータは受け継がれ、友人がすぐに違う場所に同じものをアップするであろう。しかし、果たしてそれが厳密な意味で同じウェブサイトであると云えるかというとあたしにはいささか疑問がある。
 デジタルデータにとってオリジナルやコピーがどういう意味を持つのかということも考えさせられる。それは本とは何かということにも繋がるの問題であるのだが。彼女自身が遺して今現在も現としてあるあのサイトとは果たしてなんなのであろうか。ウェブ上でしか識らない者にとってはやはり彼女自身なのであろうか。
 この先、死者と生者のサイトが混在するようになってくると死んでいるとは想わずに、はたまた死んでいる相手と判っていて恋愛感情を抱いたりする輩が出てくるのやも知れぬ。少なくともあたしには、すでに死んだ本の作者や映画の役者より実感のある相手に想える。

 翻ってやはり一番考えさせられるのは、己は果たしてたったいますべての更新を断ち切られたとして、消去さえ適わなくなったとして、遺書として恥ずかしくないサイト構築をできているかということではある。
 もっとも、あたしの場合は死んでもウェブ上にその情報が流れることもなくただひっそりと消滅し、明確な死亡確認でもできない限りデータを受け継いで勝手にアップする者もないであろうからせいぜい一年分の心配をすればいいだけのことなのだが。
 勝手にひとのサイトを保存しているお節介なサービスもあるとは云え、あれは不思議と自分の書いた文章だという実感がない。曲がりなりにもこちらにオリジナルがあるせいで、こっちが消滅すればあっちが遺書になるのやも知れんが、やっぱりただの写しのような気が何故かする。

 まあ、なんにせよ、これだけのサイトをいままで識らなかったというのは特撮映画も眞面目に観ないといかんということだな。
 ところであなたのそのサイト、遺書として恥ずかしくはないですか?

 
 
  


2001/12/28  因果は巡る

 50年ぶりの全通しとかいうことで国立劇場の『三人吉三廓初買』を観る。
 ひさしぶりの歌舞伎なのにまた苦手の幸四郎。あたしが歌舞伎をほとんど観なくなってから幸四郎シンクロ率が70%を越えておる。それだけ珍しい演目をやってるということかな。同じく珍しい復活演目をよくやってる菊五郎はなんか観逃しておるというに。
 もっとも、七五調のせりふとガチガチの構成とで絡め取られた黙阿弥芝居では幸四郎は逆に生きる。悪くない。

 赤の他人のはずの三人がなぜか同じ吉三という名で義兄弟となり、じつは親子だったり、親のカタキなり、近親相姦なり、また同性愛なり、殺し殺され盜み盜まれ、登場人物たちがおよそ考えられる限りのあらゆる関係を互いに結んでゆく。その人々の間を名刀庚申丸と金百両が複雑に流れてゆき、最後にこのふたつのアイテムが揃ったときに張り巡らされた因果は緘じ、三人吉三は差し違えて死ぬ。
 主役は明らかに庚申丸と百両で、これは何かというと関係の視覚化で、つまり張り巡らされたリンクそのものが物語の主眼である。丸まっちいものとトンがったものの結合は、アムロがビームサーベルでララァのエルメスを貫いたのと同じリンクを象徴しているのでしょう。
 七五調の流麗華美なるせりふも登場人物の心情やテーマを語るものではなく、ただ調子よく美麗な形象を形造るためだけのものであって、前後の言葉との関係から紡ぎ出されて成り立つものである。また、八百屋お七と寺小姓吉三との恋物語を踏まえている。
 日本のヲタク文化が先行する作品を踏まえるのは、ネタに困窮したゆえのパクリではなく、パロディーでもたんなるリスペクト引用でもなく、何かと結びついていることそのものに意味があるのである。なにゆえか孤立が重要らしい歪んだ西洋文化とはまったく違う。ヲタク作品にオリジナリティーなど求めるのは、ウェブ上にサイトを構えながらリンク拒否しているようなもんで、根本的錯誤ではある。
 とくに黙阿弥は因果(リンク)にもっともこだわる作者で、そのなかでも『三人吉三』は極めつけ。ここまで縱横に絲が張り巡らされ雁字搦めだと登場人物はもはやたんなる人形で、幸四郎の如きリアリズム演技のはみ出し具合が却って面白味となる。どれほど歌舞伎らしくなくやっても簡単に跳ね返すほど強靱なる構築が事前に施されている。
 戦後ずっと上演されてきたダイジェスト版『三人吉三巴白浪』では三人のアウトローの物語で因果は背景に過ぎなかったが、今回の復活で因果が主役だとはっきりした。もっとも、あたしには観ててよく判らんところがあって原作に当たってみたらやっぱり肝心なとこが切られてる。ミッシングリンク回復のための復活上演のはずなのに、もうちょっとなんとかしてもらいたいもんだが。

 染五郎の女形は相変わらず評判著しくないようで。あたしはというと一年前の桜姫の時と比べて女形が板についてきていたのに感心する。
 もちろん、あやうい刹那は眼に余るほどあるものの、こういう危なっかしい時期こそ女形としてもっとも美味しい頃合いのような気もする。
 問題はあやうさの中身で、これまで芸の未熟な女形は幾人も観てきたけど、女に成り切れない女形というのはあたしは初めてだ。『加賀見山』の岩藤のようにゴツい立ち役がわざと扮する役処さえ男と女の境界が真にあやうくなることはまず無い。演出としてやることはあるものの、役者の存在の破綻としては観たことが無い。画期的なことで、これこそ女形の原点ではあるまいか。このあたりを突いた評がないのは解せんな。
 もっとも、お嬢吉三はじつは男なんであって、しかもじつは八百屋お七という役であるから女形として評価するのはなかなか簡単ではない。
 歌舞伎は先行する作品を踏まえるのだから、そのへんの町人がいきなり「じつは曽我五郎」とか「じつは八百屋お七」というのは珍しくはないが、ほんとに八百屋お七ならお坊吉三との関係が同性愛として成立せず、生まれ変わりとしても妙なもので、そもそもお七の相手であるはずの吉三の名を名乗ってるのだからややこしい。もともとふたりの役をミックスして三人に分割したのは、吉三に3が入ってることやたまたま主役級の役者が三人いたからなんだろけど、よく識られた物語の<世界>をいかに変わった<趣向>で見せるかという歌舞伎の第一テーゼであるところのその趣向の対象として<関係>そのものが扱われるようになったということでもある。
 リンクの先にあるものではなくリンクの張り方そのものが芸となる。黙阿弥の前にこんな多重のメタ次元のことをやったものがいるのかどうかすぐには想いつかんが、因果に拘った幕末の歌舞伎の完成者である黙阿弥ならではの趣向ではある。ヲタク文化を論ずる者はこのあたりはきちんと押さえておくように。

 今回復活されたミッシングリンク・木屋文里の場で、和尚吉三の幸四郎が二役で文里をやっていた。しかし、恋仲の一重はさすがに地味な正統派女形は無理と判断したのか染五郎ではなかった。本来はお坊吉三と恋仲のお嬢吉三の役者が和尚吉三の恋仲も二役同士で勤めることで、三人吉三の歪な愛慾三角関係が緘じるはずなんだが。実際、初演時の配役はそうなっとる。
 これは物語としての円環が緘じるだけではなく、人気役者同士のやおい組み合わせを客にすべて見せることに重点があることに注意。歌舞伎は最初からこういうメタ構造を持つ。
 評論家の劇評を読むと「現代にも通ずるリアルな世界観」とか「登場人物の心理描写の掘り下げ」がとか相変わらず見当はずれの文言が並んでて、やおい作品にこんな評を大真面目にやってると考えればいかに莫迦かが判ろうと云うもんだが、この二役問題に触れているものがなくもう致命的だ。染五郎の出番が少なくて悲しいと嘆いているお姉さま方のほうが的確に芝居を観てる。黙阿弥はファンにこんなことを云わせる作劇を決してしなかった。
 染五郎は出突っ張りで何層にも関係を構築すべきであった。恋人同士にならなければせっかく親子というリンクをしょって競演した甲斐がない。
 もっとも、文里と一重の悲劇的な最後が今回は切られていて、親子でこれをやってくれたら、男女の境界に破綻というリンクを張ってくれたら、黙阿弥の目論見以上に完璧なんだが。

 まあ、なんのかんのと云いつつ、脇までなかなか揃っていて大いに満足する。
 あたしは文楽を観るようになってから文楽を原作とする義太夫歌舞伎は莫迦莫迦しくて観る気が失せてしまったし、南北物は役者の当たり外れが大きいと云うかほとんど外れしか観たことがない。それが、黙阿弥の通しは全部当たりだった。やっぱりぎちぎちの構成だと少々役者に難ありでも安心して観ていられる。
 あたしはこれからはもう歌舞伎は黙阿弥だけでいいな。ほんとは南北を揃った顔ぶれで観たいのだけど。
 なお、これは減点法でしか観れなくなってしまった字義通りの半可通の見解で、初心者は細かいことは気にせず南北のぶっ飛んだ芝居なんかから観ることをお獎めする。
 ただし、誰の作にせよ最初から最後までやる<通し>で観ること。リンクが切れてしまっては歌舞伎など観る意味はまったくありませぬ。
 いや、いくつかの幕だけやる<みどり>てやつがやたらと多いのです。リンクが切れたウェブみたいなもんで嫌い嫌い大嫌い。

 
 
  


2001/10/28  新しい戦争の古い挿絵

 絶望書店は一冊の本で記しました今回の戦争の挿絵を入荷いたしましたので、こちらから辿ってぜひともご覧ください。
 あらためて観るとこれはもうほんとうに凄過ぎる!今回のチューリングテスト戦争を完璧に描き切っております。
 いや、戦争だけではなく現在の世界全体の見事なる絵解きであります。
 オーウェルは共産主義国家も古い従来の戦争も終わったいまこそ、もう一度読み返してみるべきでありましょう。とにかく、これだけの絵をいまこそ掲げずしてなんとするかっっっ!!!!メディアに関わっている人間はどこに眼をつけておるのか?!!!!!!

 アブナー・ディーンに関しましては、日本のまんがに与えた影響を研究する必要があるかと存じます。
 文芸春秋新社版の『一九八四年』は表紙のモブシーンのほかにライオン像を背にした女性の絵が口絵に配された洒落た造りで、トキワ荘メンバーが眸にしているのはまず間違いありません。とくに藤子不二雄への影響は歴然でありましょう。
 とにかく黙って観ろ!!!!!


2001/5/8  チャーリー・コーセイ&ボビー

 休みを取って何をやっていたかと申しますと、大阪は天王寺の某処まで5/6のチャーリー・コーセイ ライブに行って来たわけです。
 小さな店の極めて少人数のなか、30年間よもや生で接する日が訪れようとは想ってもみなかったルパン三世のテーマを眼の前で聴くことができ、涙ちょちょ切れました。メンバーのベースとサックス、チャーリーさんのギターも一流で、クラプトンなんかのスタンダードナンバーも痺れまくりで、それだけで大阪まで行って来た甲斐がありました。
 しかも、さらに『カリオストロの城』主題歌のボビーさんが急遽飛び入り参加され、『炎のたからもの』を歌ってくれたのでありました。
 チャーリーさんとボビーさんが逢われたのは、なんとこの日がまったくの初めてだったそうです。そもそも、ボビーさんがカリオストロを歌うのはプライベートを含めて三回目くらいなんだそうで。
 この歴史的ライブを敢行した店のマスターがボビーさんを評して曰く「まるで、クラリスがそのまんま22年の歳を重ねたようだ」と!!あんたそれはいくら何でも云い過ぎやとツッコんではみたものの、その気持ちだけはじつによく判るぞ!というくらいとっても可愛らしい女性でした。喋る声もとっても可愛らしいのですが、歌になると別人に一変、当時そのままの渋い声を聴かせてくれました。
 おそらくほとんどの方は『炎のたからもの』と云ってもピンとこないでしょうから、もう一度『カリオストロの城』を観てみてください。あの最初と最後に流れる歌声が、いまでもそのまんまなんですぞ!※『ルパン三世クロニクル スペシャル LUPIN THE THIRD THE ORIGINAL-NEW MIX 2005-REMIXED BY YUJI OHNO』に収録されています。
 あたしは正直云って『カリ城』の作品そのものはともかくとして主題歌に想い入れなぞなかったつもりだったんですが、眼の前でこれだけ素晴らしい歌を聴かされると胸にこみあげてくるものがありました。今回のライブとほとんど変わらない人数のガラガラの封切館で観たあの日から、22年もの歳月が流れ去ってしまったのですな・・・・・。
 女性なのになんでボビーなのかと想っていたらジャニス・ジョプリンの『ME AND BOBBY McGEE』が好きだからだということです。現在は大阪ドーム近くの南堀江で &lt; big cake &gt; というソウル、ロック、ジャズが中心のバーをやっているそうです。
 チャーリーさんの幼稚園児なみのギャグにボビーさんひとりで大受けで、お互い何者なのかは最後まであんまり判っていない風でしたが、新たなコンビ誕生の予感を感じさせるものがありました。オヤジギャグもここまで低レベルだと嫌味が無くていいですな。チャーリーさんのお人柄もありますが。
 最初、帽子と眼鏡を外していたチャーリーさんの迫力は半端なものではなく、世界の果てを観てきたあたしもビビりまくりましたが、喋りだすと気のいい関西のオヤジさんでありました。もっとも、まだお若いのですが。なんせ、ルパン三世のテーマのチャーリー・コーセイ弱冠21歳!(虫プロのアニメラマ『千夜一夜物語』のテーマは20歳!!)という驚愕の事実があるわけでして。
 2万プラス印税と5万の買い取りとで迷わず5万を選んだのもむべなるかな。印税のほうを選んでいたらこの日この場所にはいないと云っておりましたから、感謝です。
 チャーリーさん自身のレーベルで出されている『BACK IN KOBE』(ルパン三世エンディングテーマ・26年ぶりのリメイクテイク収録)にサインをしてもらってほんとに嬉しかったです。一生の宝物にいたします。このCDは神戸にあるチャーリーさんのお店Charlie’sだけで買えるそうです。ウェブ上にはルパン三世の音楽リストみたいなページが数多くあるのですが、このCDはほとんど取り上げられておりません。まことに怪しからんことです。
 なお、今回はライブをやった店のマスターの意向で、絶望書店では事前の情報を流しませんでしたことをなにとぞご容赦ください。リクエストが集まれば、またこの顔合わせが実現することもあるでしょう。
 ボビーさんはご自分のお店で5/11,12にライブをやるそうです。この日はルパンは歌わないと云っておりましたが、まあ問い合わせてみてください。なんか、音源が無いという単純な理由もあるようで、誰か何とかしちゃれ!!あのお人柄に触れるだけでも行く価値はありますぞ。クラリス云々はあまり過度の期待は抱かないように。まあ、あのクラリスだって22年経ちゃどうなっとるかは判ったもんではございませんが。

    
           ボビーさんのお店のフライヤー サイン入り


2001/5/4  中村歌右衛門とヲタク魂

 三年前に石森章太郎の追悼文を掲げたとき、次の、そして絶望書店最後の追悼文となるのは中村歌右衛門に向けてであろうと想っていた。
 それからずっと考えを巡らせてきて、それなりにまとまった気でいたのだが。しかし、実際に3/31に訃報を聞くや、その考えがぐらついてきた。それからの一箇月、関係書を読んだり追悼番組を観たりしながら考えてきたのだが、どうにもまとまらぬ。
 とりあえず、半端な想いを綴っておく。

 八年前に病に倒れてからの歌右衛門丈はほとんど動けなく声もまったく通らなくなり、無殘としか形容のしようのない別人の如き姿を晒すようになってしまった。それ以前の素晴らしい舞台に僅かながらも接することができたのは、まさしく歴史上の僥倖としか云いようがない。歌右衛門丈はただ単なる歌舞伎の名優のひとりというだけではなかったからだ。
 戦後の歌舞伎は内と外に重大な事態を迎えていた。歌舞伎は古くさいものとして客が離れ、役者も映画などの新しい世界に進出するようになり、存亡の危機に立たされたのだ。上方歌舞伎はこの荒波を越えられずに事実上消滅した。
 そんな中、歌右衛門丈は歌舞伎を守り抜いた。ほかの女形のように男役として映画や現代劇に出るにはあまりにも女形であり過ぎるという資質もあったし、自らが守らねばならぬという使命感もあったようだ。
 結果、それまでは後ろに控えていなければならなかった女形の歌右衛門丈が戦後歌舞伎の中心となったことは、歌舞伎にとって決定的な意味を持った。もうひとつの内なる危機があったからだ。
 戦前戦中の歌舞伎を支配した六代目菊五郎は、新劇から影響を受けた妙なリアリズムや心理描写を歌舞伎に持ち込むようになった。もともと歌舞伎というのは誰でも識ってる物語の&lt;世界&gt;をいかに変わった&lt;趣向&gt;で見せるかという&lt;やおい&gt;的な面白さが肝で、ストーリーさえ大した意味を持っていないのに、心理描写やリアリズムが相容れるはずはないはずであったのだが。しかし、六代目菊五郎の次世代への影響は絶大で、歌舞伎は内から崩壊する可能性が大いにあった。
 歌右衛門丈も六代目菊五郎の影響下、心理描写を極める方向を目指した。しかし、決してリアリズムには墮さなかった。ひとつには、欧米にはない女形などという珍妙なものは排して女優にしてしまえという論議が、戦後巻き起こったことによる。女優に対抗するにはリアルな女の真似をしていてはいけない。また、そのために伝統の&lt;形&gt;をなによりも大切にした。自然ではない、人工的に彫琢された形象の美だ。
 しかし、こんな理屈より前に歌右衛門丈の役者としての資質はリアリズムを跳ね返す素晴らしい強靱さをどうしようなく裡に秘めていたのだ!どれほど心理描写を重ねようとことごとく象徴に昇華され、時空を歪め、舞台を異空間へと變容させる。三島由紀夫がこの女形をもっとも愛でた由縁である。
 歌右衛門丈がいなかったら、歌舞伎はたんなる平板な時代劇の如くに解体され、宇宙に何ほどの罅も走らせない、観る者の心を力ずくで捻らせ変容させることもなき、空疎なる形骸だけになっていたことだろう。また、女形も解体され、日本古来からの戦闘美少女の系譜も途絶えていたに違いないのだ。

 あたしが最後に見た舞台は六年前の『建礼門院』 だった。ほとんど動くこともない座ったままの舞台であったが、声の通りが幾分戻り、全盛期を彷彿とさせるものがあった。
 幕切れ、虚空を見やり完爾と微笑む歌右衛門丈に歌舞伎座の客は湧きに湧いた。歌舞伎座というのは味気ない国立劇場だけではなくどこの劇場よりも素直に客が湧く不思議な力を秘めた小屋なのだが、それでもこれほどの昂奮に昂る客をあたしは初めて観た。あたしも手もなくその怒濤のなかに呑み込まれていた。
 もちろんこんな舞台に脚を運ぶのはファンばかりで、ただ座って微笑んでいるだけの小っぽけな老人を透かして、己の記憶にある往年の歌右衛門丈の幻を観ただけなのやも知れぬ。しかし、まさしくそれこそが歌右衛門丈の芸の本質なのであった。目の前にあるものとは違うものを観せることができるその力。美貌を謳われた肉体を失った歌右衛門丈に、客は夾雜物のない純粹に本物の歌右衛門丈の力を観せつけられることになったのだ。
 ウェブ上を検索してみると、ほとんどのファンにとっても最後となったこの舞台について「奇蹟」「この世のものでない」「肉体を超えた」という言葉が乱舞している。動かず、まともな台詞もなく、ただただ静かに笑っているだけの20分ほどの舞台から受信された衝撃がこれほどのものであるのだ!!
 あたしは日本伝統のヲタク魂はここにあると信ずる。明治以降の妙な西洋近代不合理主義に抗して歌右衛門丈はその魂を現代にまで継承してくれたのだ。

 昨今ではアニメやまんがやSFを語るのにリアリティやストーリーの整合性や遠近法やデッサン力などのくだらない問題を持ち出す者がいて困ったものである。ヲタク魂とは、いかに時空を歪め、目の前にあるものとは違うものを視ることができるかに掛かっている。
 女形の存在そのものを「愚劣」とまで云われて否定されても世の中すべてを敵に廻してその力を守り抜いた歌右衛門丈の気高き魂を、正しきヲタク諸氏は受け継いでもらいたいもんである。
 ヲタクの世界が戦後の歌舞伎とまったく同じ存亡の危機に瀕していると感ずるのは、あたしの杞憂なのであろうか。



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