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いつもの如くに前フリが長いので、特撮に興味のない諸氏は後半だけでも必ず読むように。
最近になって特撮映画をまとめて観るようになって、どうも特撮ファンの中には土屋嘉男に格別の注視を注いでいる方が結構いることに初めて気付くようになった。
もちろんいい役者さんではあるしやってる役も宇宙人の電波を脳内受信したりガス人間だったりとへんてこなのが多いのでまあ判らんわけではないのであるが、ただ例えば平田昭彦や中丸忠雄のようにへんてこオーラを発しているいい役者さんがいろいろいるなかで殊更へんてこ役者として土屋嘉男を挙げるのはもひとつあたくしにはピンとこないところがあった。
それが阿佐ヶ谷ラピュタで円谷英二特集の第二弾がはじまって『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』を観るに至って、ようようあたくしの胸にも落ちたのである。
この映画に出てくるフランケンシュタインは子供の頃観てもっとも怖かった怪獣で、ほんとに夜中にぬっと現れるのではないかと想える圧倒的な存在感(あの貌とともに団地との縮尺が効いてる)と、まったく反対に自分がああいう境遇に陥ってしまったらどうしようという強迫観念を幼いあたしに刻み附けたのでありました。立場の相反する二重の感情移入を同時に喚起せしめた怪獣は、いや怪獣以外でもあるはずもなく、『マタンゴ』や『サンダ対ガイラ』以上のトラウマをあたしに刻印し、いま実際にあんまりかわらない境遇に陥ってしまった遠因になったのではないかと考えている。
何十年かぶりにその想い出の彼に再会できることを愉しみにしていたのだが、彼を差し置いてあたしの眸は土屋嘉男に釘付けになっていた。いやあ、こりゃ、ほんとにへんだ。あたしはこれまで数限りない物語を浴びてきたが、これほどへんてこな登場人物をほかに識らない。
この人のほかの役がへんだと云っても、宇宙人に操られたり気狂い博士に改造されたりといったそれなりにやむを得ない理由というものがあった。この映画ではなんの理由もなくまったく関係のないふたつの重大事件に何故か偶然立ち会い、誰に操られるわけでもなく何故か自ら事件に深入りし、事件解決にはなんの役にも立たず、それどころか物語自体にもなんの役にも立たないまま意味ありげに途中で退場した切りぷいっと帰ってこない。いったいなんのために出てきた登場人物なのか一切の説明を峻厳として拒む宙ぶらりんの不安な存在としてただそこにある。
そんな訳の判らない役をまた重厚に嬉しそうに演じていて、そもそもこの確かな演技があるからこそどうでもいい端役ではなく物語の無意味なる重しとして我が舊友のフランケンシュタインを脇に押しやるほどの不安を掻き立てているのであって、当時からへんてこ役者として認知されていてわざわざこんな役を用意してもらったのであろうか。とにかく「土屋嘉男なんだからしょうがない」とでも想って諦めるよりほかはない役ではある。
普通の人なのに人智を越えた運命に見舞われ物語にさえ拒絶されるとは、立派な最期を飾らせてもらえたガス人間よりも疎外された悲しい存在と云える。
ここで俄然興味の湧いたあたしは初めて「土屋嘉男」で検索し好きで悪いか土屋嘉男に辿り着いたのであった。あー、長い前フリ。
去年の末から特撮映画を立て続けに観るようになって、ここの特撮映画評も読んではいた。しかし、表紙を観ていなかったので、ここが世界で唯一の土屋嘉男サイトであって、作者である女性が若くして一年前に亡くなっていることにその時までまったく気付いていなかったのである。
楽しんで読んでいた文章の書き手がすでに死んでいたという事実にあたしは意外なほどの衝撃を受けた。本ではこんなことはないのだが。もっともあたしは古い本しか読まずにこういうことがあんまりないせいなのかも知れんのだが、はたまた、ウェブは歴史が浅くこういうことがまだあんまりないせいなのかも知れんのだが、とにかくスタンドアロンで時間を超えている本と、一応繋がっていてリアルタイムのような気がするウェブサイトとの差異とはなんであろうかと改めて考えさせられたりしている。インターネット上では性別や年齡差を越えてしまうことがあるが、こういう生死の差を超えるようなことがこれから当たり前になるといろいろややこしくなるのであろうか。電話で愉しくおしゃべりした相手がじつは死んでいたという感覚。
また、作者の死んだあとに残るウェブサイトとはいったい何者であるのだろうかということも時々話題になることがあるが、実感を持って考えさせられたりしている。
文学少女の遺稿集が本になったりするのはよくあることで、ごく稀に『薔薇は生きてる』の如き奇蹟的な本が生まれたりするが、この沙魚川無腸という女性のサイトもそれに匹敵するくらいの珠玉の出来ではないかとあたくしは考える。
この方の文章はこちらやこちらにもあるが、特撮関係もそれ以外もレベルが極めて高くておもしろい。ヲタクの遺書としては理想的なんではあるまいか。
おまけに、白血病になる前のものだと想われるがこのページの下の方には「遺言」と銘打たれた文章までがあり、こちらも見事だ。ウェブ上のあちこちにこの人は足跡を遺しているが、総体としてじつに見事だ。お嬢さま、お見事でございました。
いろいろ観て廻った限りではこの方の友人たちはサイトの契約内容を把握しておらず(自分のサイトのことさえ判らなくなるのはよくあることでやむを得まい)、消滅するのは時間の問題だと想われる。もちろん、サイトは無くなってもデータは受け継がれ、友人がすぐに違う場所に同じものをアップするであろう。しかし、果たしてそれが厳密な意味で同じウェブサイトであると云えるかというとあたしにはいささか疑問がある。
デジタルデータにとってオリジナルやコピーがどういう意味を持つのかということも考えさせられる。それは本とは何かということにも繋がるの問題であるのだが。彼女自身が遺して今現在も現としてあるあのサイトとは果たしてなんなのであろうか。ウェブ上でしか識らない者にとってはやはり彼女自身なのであろうか。
この先、死者と生者のサイトが混在するようになってくると死んでいるとは想わずに、はたまた死んでいる相手と判っていて恋愛感情を抱いたりする輩が出てくるのやも知れぬ。少なくともあたしには、すでに死んだ本の作者や映画の役者より実感のある相手に想える。
翻ってやはり一番考えさせられるのは、己は果たしてたったいますべての更新を断ち切られたとして、消去さえ適わなくなったとして、遺書として恥ずかしくないサイト構築をできているかということではある。
もっとも、あたしの場合は死んでもウェブ上にその情報が流れることもなくただひっそりと消滅し、明確な死亡確認でもできない限りデータを受け継いで勝手にアップする者もないであろうからせいぜい一年分の心配をすればいいだけのことなのだが。
勝手にひとのサイトを保存しているお節介なサービスもあるとは云え、あれは不思議と自分の書いた文章だという実感がない。曲がりなりにもこちらにオリジナルがあるせいで、こっちが消滅すればあっちが遺書になるのやも知れんが、やっぱりただの写しのような気が何故かする。
まあ、なんにせよ、これだけのサイトをいままで識らなかったというのは特撮映画も眞面目に観ないといかんということだな。
ところであなたのそのサイト、遺書として恥ずかしくはないですか?
このあいだBSで『十二人の怒れる男』をやっておりまして、久しぶりに観ました。
なんかこの話がおかしいという人々がいるみたいでして、あたくしも高校生の頃にテレビで観たときおかしいと想いましたけど、けどけどこの映画は陪審員制というか民主主義のおかしさ怖さを描いたもんなんでしょ?違うんスか?!!
現に起こっている殺人事件に対する善良な市民の目撃証言を机上の空論だけで次々と否定していくヘンリー・フォンダは終始悪魔的な表情を浮かべておりますし、とくに最後まで頑張っていた男が意見を翻すのはなんの理窟もなくただほかの十一人の数の圧力に屈しただけなんですから。
この最後の男に関してはいくらでももっともらしい理窟をくっつけることが可能なのに、あえてやってないのは、創り手側が「ひとりの煽動者によって民衆の意見なんていくらでも操作できるんですよ。有罪か無罪かなんてこんないい加減なもんなんです。民主主義なんてじつに怖いもんですね。数の力で正義なんてどうとでもなるんです」て訴えてるわけでしょ?違うんスか?!!
いや、これはガス人間の文章みたいなひねった視点ではなく、正統的な観方だと想ってたんですが。
あたしは映画や演劇の評論なんて一切読まないんですが、米国なんかではどんなような観られ方をしているのか、ご存じの方はご教示ください。なんか、ちと不安になってきた。
恐るべきデマゴーグであるヘンリー・フォンダが正義の人で、『十二人の怒れる男』が民主主義の正しさを描いた映画だと受けとめられているとするなら、身震いするほど怖いです。今頃こんなことを云ってるのは、あたしがなんかずれておりますか。
もちろんこれは裁判の話ですから通常の議論とは違ってちょっとでも疑いが差し挿めるのなら無罪でいいのですが、しかしそれにしたってあまりに無茶苦茶な論理で、証人の眼が悪い「可能性がある」(しかも、若く観られたいとか目立ちたいとかいう理由だけで偽証という重罪を犯している「可能性がある」!)ということで疑えるのなら証拠なんてすべてひっくり返すことができますし、「遠視かもしれない」「そんな創り話を信じろというのか」というじつにまっとうな反論は「サディストの偏見」としてヘンリー・フォンダにことごとく封殺されてしまう。
この映画自体がヘンリー・フォンダで、観客は陪審員というメタの図式があるわけですが、恐るべきデマゴーグの人心操作のトリックは最後の男にあるとあたしは視ます。
この男は自分の息子への憎しみのためから有罪(死刑)に固執するわけですが、無罪に転じるに当たって理窟がないだけではなくドラマもない。事件の読み解きや議論によって息子への憎悪が溶けるという展開があるわけではなく、ただ数の圧力によって自らの偏見を悔いるということになっている。
ここで容疑者が殺人を犯したかどうかということと、この男の偏見というまったく関係のない事象が意図的に混淆される。劇中でヘンリー・フォンダも使っている手口だ!ヘンリー・フォンダのほうはもっと悪質で、自分と違う意見は「偏見」と決めつけているわけですが。いや、創り手はさらに上手で「自分」ではなく「ヘンリー・フォンダ」と違う意見は「偏見」と決めつけているわけですが。
作劇としてもおかしな具合で、憎んでいるはずの息子の写真を大事に持っていて、赦したときにその写真を引き裂いて捨ててしまうというちぐはぐな話になっている。
これはまあ、子離れできない親が代償行為としてほかの子供を死刑にしようするんであって、最後は逆に容疑者ではなく息子の写真を捨てることによって子離れすると読み解くこともできるのですが、そんな複雑に交叉した図式を当てはめるには肝心の逆転時にさえドラマがない掘り下げ不足の展開ではやはり無理があって、息子と容疑者に対する憎悪と赦しは単純に連動しているべきなんですが。実際、ほとんどの観客は連動させて観ているはずで、写真を破るという劇的な幕切れになんとなく誤魔化されているだけです。
これだけ出鱈目な話が論理的な話であるという印象さえ抱かせながら観客の胸を打つのはヘンリー・フォンダの説得術と同じくテクニックとしては最上で映画としては大成功、あたくしとしても傑作として認むるに異論はないわけですが、人々がそのまま「正義」として受け取っているとするならば。
自分たちと違った国の考え方を「サディストの偏見」であると、アメリカ人はディベート・テクニックではなく本気で信じ込んでいるようで、そんな米国の独善性を非難する人々もこの映画は「正義」として受け取っているとするならば。
いや、人々がこんな簡単に操られるわけではなく、たんなるあたしの想い過ごしならそれでいいのですが。なんか、ちと不安。論理的な映画だと考えてる人はほんとにいるようで、そういう方に限って論理的思考の大切さを説いてたりして、あたしにはとても信じられんのですが。
文明の衝突がどうしたとか、あるいは掲示板文化がどうとかいう以前に、こういう基本的なことをはっきりしておいてもらわんと、どうにも落ち着かんな。
英語に弱いせいか、タイトルの意味がもひとつよく判らんということもあるし。こういう怖さを顕した題名と考えるのはさすがに深読みか。聖書か何かの言葉でしたっけ?イエスが逮捕されて理性を失った十二使徒のことだったような気がするけど、違ったかな?
阿佐ヶ谷ラピュタで円谷英二特集をやっておりまして、あたしはゴジラ物以外の特撮映画は子供の頃テレビで観ただけでビデオでさえ観てないので、きちんと観るのはじつは今回が初めてだったりします。
『マタンゴ』はやっぱり奧深くも怖かったし、『妖星ゴラス』はやっぱり莫迦莫迦しくも壮大だったし、『宇宙大戦争』のパラボラはやっぱり美しかった。子供の頃のイメージが壊されないどころかさらに大きく膨らませることができるとは、作品の力強さを再認識いたします。
ちなみにあたしくは細身好みではなくデブ専ですので、ロケットやドリルではなく断然!丸まっちいパラボラであります。男ならパラボラ!それも『地球防衛軍』の<マーカライト・ファープ>のように細長い脚がついてるのは邪道でありまして、『宇宙大戦争』の如く大根脚でしっかと大地を踏んまえたパラボラであります。男なら絶対パラボラ!!
昔は正月といえばこの手の映画をテレビで観るための日という感じでしたが、最近やらなくなったのはけしからんことであります。子供の頃に『マタンゴ』でトラウマを形成することは大事なことなのですが。
まあ、そんなことで存分に堪能していたのですが、去年最後に観た『ガス人間第一号』の純愛には號泣いたしました。こんな美しくも素晴らしい作品だったのか!
純愛物の最高傑作は三島由紀夫の小説『春の雪』だとあたしはこれまで想っていたのですが、これは完璧に越えておるではないか!!
ウェブ上では「第二号がいないのになんで第一号なの」というツッコミが多いですが、あたしはヒロインの八千草薫がガス人間第二号、いやむしろ彼女こそが本物のガス人間であってガス人間と称する男は第二号に過ぎないよという意図のもとに構成された物語であると視ています。
やっばり無理があるか?いや、そうではあるまい。
以下の異端の解釋を読む前に、純愛好きなら『ガス人間第一号』を必ず観るように。
この作品は大胆な省略法を採用することによって成功しており、住む世界のまったく違うふたりがどうやって恋人となったのか、名門で踊りも名手であるはずなのにこの流派がなにゆえ没落したのかよく判らんようになっている。なにより、八千草薫がなにを考えいるのかまったく判らない。
己のすべてどころか世界のすべてを捧げようとしているガス人間の純愛に対して、同じく愛情を持ってるのか単なる道具と想っているのか、自分のために爲される兇惡犯罪についてどう想っているのか、舞踊に執拗にこだわるのは芸術上のことなのか名門の意地に過ぎないのか一切合切なんにも判らない。
名門の日本舞踊の女の家元なのに長唄で能を舞う松葉目物、それも新作をわざわざやるという話なのは、美女と般若のふたつの能面を交互につけさせるためなんだろうけど、八千草薫はそんなよくある女の二面性の怖さを遙かに凌ぐ複雑な造形をされている。むしろ感情のまったくない気体と云っていいほどの透明な存在ゆえにあらゆる情念を内包しているように感じられる。
何事にも無関心に見える彼女が唯一執念を燃やす舞『情鬼』は「蒸気」と掛けているのだろうし、貌を白塗りにしているのも「蒸気」と化してしまったことを象徴しているのだろう。
そして、最後に劇場に充滿したガスに点火することによって自らほんとに気化し、ガス人間と一体化する。ここで彼女の芸術と愛情は完結する!三島由紀夫にも通ずる見事なる物語構成だ!
婦人記者が「女として」舞踊を取りやめるように説得するが、無反応のまま八千草薫は強行する。その上に点火装置を切ったのはおそらくガス人間ではなく彼女で、最後まで舞い終わったあとに自ら点火することによって、芸術家としても女としてもすべてを、絶対の美を手に入れるのだ!
客のまったくいないがらんとした劇場でただひとり満足気に理想の女の舞を見詰めるガス人間と、屈辱的な状況でも凛として舞い続ける美しすぎる八千草薫!なんと素晴らしい完璧なる構図!
この物語で眞の絶望者であるのは肉体を欠損してしまった土屋嘉男ではなく八千草薫のほうである。最後、彼女の衣装の切れ端を握り締めながら劇場の外に這い出す土屋嘉男はじつは燃えカスの個体なのであって、眞のガス人間は見事に気化して姿を消してしまった八千草薫のほうなのである。いや、彼女は最初から一貫して気体であったのだ!
東宝特撮にお馴染みの顔ぶれが並ぶなかでひとり異様な感じさえする配役の八千草薫は、宝塚出身で日舞の心得があるから連れてこられたんだろけど、あれだけの柔らかい美貌なのに底知れぬ冷たさと怖さを同時に併せ持っていてもうこの役に填りまくり。『生きている小平次』でも女の怖さを見せてたけど、最後まで正体を隠したこっちのほうが怖い。こういう役ではよくある細身の冷たい美女ではなく丸まっちいのでパラボラ好きにもたまらん。
省略の多いこの物語、とくに眞のガス人間・八千草薫を読み解くには劇中舞『情鬼』を読み解かねばならぬであろう。あたしはドラマに引き込まれてしまいこの長唄の歌詞を一言も聴き取れなかった。もうすぐ販売されるDVDを観ても冷静に聞き取れるかどうか自信がない。
『情鬼』の歌詞が載っている文献があればご教示いただきたい。パンフには解説があるのでしょうか。探偵小説には『情鬼』という作品がいくつかあるけど、なんか関連性はあるのでしょうか。作詞の片山貞一という名は聞いたことないけど、どういう人なんでしょうか。
もう一度念を押すが、純愛好きの諸氏は必ず『ガス人間第一号』を観なさい。できればスクリーンのほうがよい。
絶望者であるなら号泣できます。
4/2 君よ!そこに遺書は遺せたのか!?も参照のこと。
ブラック・ジャックの素『ジキルとハイド』の最終回があまりにあまりなことになっていて、おくちあんぐりの絶望書店主人でございます。
これはやはりとてもテレビでやるようなしろもんではございません。アングラ映画館あたりでこっそりと上映するのにふさわしい。そんな怪しげな処で昔観た『フリークス』なんかよりは遥かに強い衝撃を受けました。
アイコン屋のこのページに画像が少しだけあるのですが、残念ながらあまりブラック・ジャックには似てない貌が載っています。ジキルとの左右合成シーンもずれたものが載っていて、ぴったり重なった部分はありません。まあ、ビデオキャプチャーを買うこともなく勝手にリンクを張る当方とは意図が違うのですから、致し方ございません。
ハイドは妙なスタイルのコートを着ているのですが、その全身を観れば誰もが頷くほどそっくりです。とくに大勢を相手に立ち回りをするシーンなんかはそのままだと感じられます。
最終回は「気狂い」なんて言葉が連発されてそのまま流されていたのですが、一カ所だけ松尾嘉代のセリフが消されておりました。いったいどんな凄いことを叫んでいたのか、どうにも気になりますのでお判りの方は教えてください。
ラストは「誰でもがハイドの部分を秘めているのかも知れない」といったこの手のお話にはありがちの問い掛けで締めていたのですが、さすがにこの丹波哲郎ほどデーモニッシュな狂気を持ち合わせている奴はいるかい!と想わずブラウン管に向かって突っ込んでしまいました。
いや、ひとりいるとすれば、それは手塚治虫その人でありましょうか。
ぼーぜんじしつになってしまった頭を整理しようと石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』を読んでいて、「ロボットは成長しない」というのが『鉄腕アトム』の中心テーマであることを想い出しました。生涯のテーマであったメタモルフォーゼに反するふたつの作品が手塚治虫の代表作となっているのはなんとも皮肉な話です。
石上三登志さんによると手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。
また、『火の鳥』の最後は『鉄腕アトム』になる予定だったというかなり確実な話がありまして、手塚さんは宇宙を支配する神秘の力の手を借りてまでもアトムを成長(メタモルフォーゼ)させたがっていたのでしょうか。あるいは、成長しないロボットと對峙させることによって、メタモルフォーゼする生命の神秘を逆照射させようと目論んでいたわけでしょうか。
こういう『鉄腕アトム』へのこだわりと比べて、『ブラック・ジャック』のあつかいはなんとも不思議な気もします。
ロボットとは違ってこちらにメタモルフォーゼを持ち込むのはなんの問題もない、いやむしろ手塚治虫お得意の二重人格(メタモルフォーゼの一種)を授けるのが自然なはずなのに、ブラック・ジャックもピノコもいかにもな設定でありながら絶対に変身しないのです。かなり意識的にメタモルフォーゼを避けている。両極の性格は二重人格の如く変身によって切り替わるのではなく、ドストエフスキー的にひとつに融合している。それでいて、アトムのように作者に嫌われることもなかった。
メタモルフォーゼの殿堂・虫プロ倒産から手塚的二重人格の典型『三つ目がとおる』開始までの一年間は、手塚治虫最大の危機で誰もが再起不能だと考えていた時期です。すでに過去の人だった手塚さんが少年誌でヒットを飛ばすなんて想像もできなかったし、借金は莫大な額でした。結局すぐに二大ヒットが出たわけですが、この期間さすがの手塚さんにも心境の変化があったのか、『ジキルとハイド』オープニングの左右合成された丹波哲郎の貌の衝撃がそこまで強かったのか。
手塚さんは時代ごとにいろんな作品から影響を受けていますが、ここまで根本的に変革を迫られるほどの力をおよぼしたのは丹波哲郎の貌だけだったような気がします。単なるテクニック上のことではなく、当時の絶望的な心境に共鳴したからでもありましょうか。あるいは生命に對峙する役だったからなのでしょうか。
『手塚治虫の奇妙な世界』を読んで「ロボットは悪いことができないので不完全」というのが『鉄腕アトム』のもうひとつのテーマであることを想い出しました。アトラスという悪い心<オメガ因子>を持った完全なロボットがいたことも。
手塚治虫のテーマに反することによって、『鉄腕アトム』はきっちりとテーマを逆照射するようになっているのですな。また、いろんな意味で作者の思惑を超えてしまった『鉄腕アトム』を制御したいという欲求を手塚さんは持っていたような気もします。<愛人>であるアニメに通ずるところもあるし、案外メタモルフォーゼ的と云えなくもない。
その点で観ても『ブラック・ジャック』というのはどうにも特異な位置を占める作品と云えましょう。
『手塚治虫の奇妙な世界』は成長しないアトムについて一章割きながら、成長とメタモルフォーゼとを結びつけておりません。また、手塚治虫の重要なるモチーフとして二重人格についても一章割きながら、アトラスともブラック・ジャックとも結びつけておりません。
その点、掘り下げが浅いとも云えますが、持ち出す視点がおもしろく、こねくり廻していないぶん好感が持て、これが手塚研究書として最初のものらしいですけど一番優れているように想います。それに引き替え、あたしのやっていることはどうにもよろしくはございませんな。
米沢嘉博さんなんかは「手塚治虫は解釈を誘うようなトリックを作品中に意識的に埋め込んでいる」といったようななかなか穿ったことを云っておりまして、あたしもその罠に掛かっていろいろ云っているだけかも知れませんが、まあ想いついたものはしょうがありません。
『ジキルとハイド』みたいに観たあとただ唖然と言葉を失っているばかりでも面白くはありませんからな。
いまファミリー劇場で丹波哲郎・主演の『ジキルとハイド』という何とも形容のし難い凄まじいドラマをやっているんです。
医者の慈木留(ジキル)が薬で変身して殺すは犯すは極悪非道の限りをつくすわけですが、このハイドの暗い姿格好がブラック・ジャックそのものでして、いつも白衣を着ている白髪の慈木留と左右半々に合成されるオープニングはもうそのまんまでして。少なくとも、加山雄三よりも宍戸錠よりも本木雅弘よりも出崎統アニメのブラック・ジャックなんかよりも遥かにぴったり重なります。
ああ、手塚さんは確実にこれを観てるな、ブラック・ジャックの素が丹波哲郎とはこりゃまた驚いたもんだなと調べてみたれば『ジキルとハイド』の放映終了が1973年の4/24で、『ブラック・ジャック』の連載開始がその半年後の11/19号なんですな。
『ジキルとハイド』は1969年製作なんですが、あまりに殘虐かつシュールな内容でお蔵入りになり、やっと三年以上経ってから23:15−00:15という当時としては異例な深夜かつ半端な時間帯に一度だけ放映し、地上波ではその後まったく流されなかったといういわくつきのドラマであります。
『人造人間キカイダー』の長坂秀佳がシリーズ構成をやっているんですが、さもありなんといった出来でして、なんせ時代が時代ですからさらに輪を掛けてサイケな絵づくりとなっております。いま観ても、お蔵入りは充分うなずけます。
露口茂が血の気の多い刑事役で出てきたり、もういい歳の松尾嘉代のセーラー服姿が拝めたり、池田昌子が乱暴されながらも悦んでしまう人妻だったり、もちろん丹波哲郎のイッてしまった怪演とたまらん観処満載で、これだけでファミリー劇場と契約する価値はありますな。
そんな丹波哲郎の導きで、ジキル博士とハイド氏のふたりの分身をさらにもう一度ひとりに合体させたのがブラック・ジャックだということに、たったいま初めて気付いてしまいました。だからこそ、髪や顔が白黒半々の姿をしていて、名前が間(はざま)だったんですな。だからこそ、恐怖コミックスだったのですな。
こんな簡単なことに、あたくしはいままでなんで気付かなかったのですかな。皆様には衆智のことだったのでしょうか。近所の図書館で読むことのできる20冊ほどの手塚治虫研究書に眼を通してみましたが、どうも見当たらないのですが。手塚治虫自身のハイドだというような捉え方はありますが、これは明らかに誤りですな。両極端な性格を併せ持っていた手塚治虫の投影だというのなら、まだしも判りますが。
手塚さんはブラック・ジャックは海賊のことだとかなんとか云ってますが、どう考えてみても両性具有ならぬ両性格具有の<黒いジキル>から来ているのでしょうな。第一回目の扉絵はふたつの貌を持つトランプのジャックですし。
ほかの人のブラック・ジャックよりも丹波哲郎のほうが近いと感じるのは、きちんとこの主題を踏まえているからなんでしょう。
而して、こんなことに気付いてもただ虚しいだけです。
あたくしはドストエフスキー云うところの「両方の岸がひとつに出逢ってすべての矛盾がひとつに棲む」「聖母とソドムを併せ持つ」という完璧な人間描写を史上初めて爲し遂げたのは古今東西あまたの物語のなかで『ブラック・ジャック』、それもこの主人公ひとりだけであると常々考え感歎していたのですが。種明かしをしてみれば簡単なことで、なあんだという感じがあります。
まったく困ったことでして、完成した作品をこんなふうに部品に分解して分析してみても、理解したということにはなりません。まさしく寿司屋のアナゴの一種に過ぎません。美女の骸骨をわざわざ視て、永年抱いていた大切な想いまで永遠に失ってしまったようで、情けないことであります。
さはさりながら、『ジキル博士とハイド氏』の主題は変身なんかしないで一個の人格に結晶させたほうがより複雑に深遠になるというのはコロンブスの卵で、ほかにありそうでなかなか見当たりません。悪人が善人を装ったり、また善人が悪に染まったりといった話はありますが、それらはすべて変身の一種で、同時にふたつの性格をドストエフスキー的に内在するのはブラック・ジャックしかあたしには想いつきません。ドストエフスキーの登場人物さえこれほど完璧なる造型ではありません。
デビュー以来飽くことなくメタモルフォーゼを描き続けた手塚治虫が、虫プロが潰れて究極のメタモルフォーゼたるアニメに挫折したまさしくその年、引退記念とも囁かれた『ブラック・ジャック』に於いて、変身とは反対のベクトルである<逆ドッペルゲンガー>を描いたのは必然なのでしょう。
それがおそらく想ってもみなかったコロンブスの卵、ヒョウタンツギからコマを生み落としてしまった。手塚治虫生涯のテーマに逆叛(あるいは濃縮)するこの主人公が、皮肉なことに矛盾した両極端な性格を併せ持つ手塚治虫自身の投影ともなってしまった。おまけに、大人と子供を併せ持ちながらも決して変身しない<ふしぎな逆メルモちゃん>であるピノコまで生み出してしまい、こちらのほうは矛盾ではなく理想の完全体として女性からは憧憬されているらしい。
丹波哲郎の靈氣や恐るべし!三年間のお蔵入りがなかったら、これらすべてが地上に存しなかったのやも知れぬのですからな。
まあ、こんな詰まらん分析をしているうちに、ヒューマニズム云々だけではなく世間一般のキリコとブラック・ジャックとの対比の仕方にこれまでどうも違和感を感じていたのは何故なのかが判ってすっきりといたしました。<寿司屋のアナゴ>談義も多少は役に立ちます。
ところで、ウェブ上では『ブラック・ジャック』の連載開始を1/19号と間違えて記しているページがあまりにも多いですな(間違えているとこのが多い!明らかにウイルス状に増殖しておる!)。週刊誌の実際の販売日は一週間前ですから、これでは『ジキルとハイド』の放映開始日1/9とぴったり重なってしまいます。
「すわっ!シンクロニシティーかあ!?」とあたしが仰天しますので、これ以上拡がる前に皆で手分けして訂正させなさい。あーびっくりした。
4/24 ブラック・ジャックの素2も参照のこと。
※2006年12月27日(水)の深夜0時から、ファミリー劇場で『ジキルとハイド』全13話一挙放映が決まったようです。
女房を売り飛ばしてでも観るべし!!!!
すんごいよ。とくにブラック・ジャックのアニメやドラマを制作するスタッフは刮目して観るように!!!出崎さんなんかにもちゃんと観てほしい。