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『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!

『戦前の少年犯罪』 目次
1.戦前は小学生が人を殺す時代
2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代



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Archive for カテゴリー'映画'

2002/10/18  青春を返せ

 チャンネルNECOで昭和38年の映画『青春を返せ』をやってたのでなんとなく観る。
 町工場で働く長門裕之が無実の罪で逮捕され自白を強要されて死刑判決を受ける。芦川いづみは人殺しの妹ということで世間の冷たい風に晒される。年老いた母親は悲観して自殺する。
 なんせこのタイトルで暗い白黒の画面なんで、てっきり冤罪事件を告発する社会派ものとばかり想っていました。長門裕之や芦川いづみなんてかつての青春スターも30近くなるとこんなのに出たがるんだよねえ、日本映画ってやっぱりやーねやーねとぼーっと観ていたら、二審でも死刑判決を受けて弁護士がサジを投げてから急に話が転がりはじめる。
 人まかせにするのはやめて自分で解決しようと妹が立ち上がり、いきなり<名探偵・芦川いづみ>の話となってしまうのです。それまで、たんなる不幸を増幅するための地味な妹役に過ぎないと想っていたからびっくり。

 この手の話はまずとにもかくにも有罪になるだけの証拠がそろっていて、それをあとからひっくり返すというふたつの関門がある。あたしはこの点で充分なる納得がいった作品をあんまり観たことがない。たいていは姑息なごまかしがある。
 たとえば『十二人の怒れる男』は無罪になるのももうひとつ釈然としないが、それ以前にいくら無能と云ってもなんで弁護士が矛盾点に気づかないのかがどうにも引っかかる。
 『青春を返せ』のモデルとなったであろう実在のいろんな冤罪事件もよくこんな証拠や取り調べで有罪に持って行けたもんだと逆に感心するものばかりで、映画化しても事実関係を正すとか巨大な国家権力と闘うというよりは、詰まらない役人の保身の哀しさみたいなせこい話か、同じことだがカフカ的不条理劇にしかならない場合が多い。
 それがこの映画ではいくつも有力な証拠が揃っていて誠実なだけの弁護士・大滝秀治の力では有罪になるのも納得がいくし、それを素人娘・芦川いづみが執念だけでひっくり返すのもまた充分納得できる。とにかくへんな推理(想像)だけではなく、じつに3年間も歩き廻ってひとつひとつ脚で証拠を潰していくのがいい。「自分の眼で観て自分で確かめる」が合い言葉。酒びたりの元刑事・芦田伸介が揺り椅子探偵よろしく知恵袋としてついてはいるけどちょっとしたヒントをあたえるだけで、じつは芦田伸介のほうが芦川いづみに救われているというのもいい。
 咲き誇る美しい薔薇の園によってすべてが解決し、あーこれでお兄さんも死刑を免れて助かるんだなと明るい気持ちで観ていたら、芦川いづみの身にあっと驚く不幸が襲ってまたびっくり。それもストーリーときちんと噛み合っている。うーん、タイトルの意味はそういうことで主役は芦川いづみだったのか。あたしはこの期におよんでまだ長門裕之が主役とばかり想っていたよ。
 暗い社会派ドラマも探偵物語も、この大時代な少女小説的お涙頂戴ものを現代に成立させるための仕掛けだったのか!非常によくできてるのでしきりに感心する。見事に無駄のないぴっちり90分。かっちり30分ごとに話は急転回し、テンポも画調も合わせて変わる。じつにきっちり計算し尽くされている。
 唯一の難点は役の上でも現実でも27歳の芦川いづみが7年間の過酷な裁判を闘い抜いても20歳くらいに見えてしまうことだけど、泥臭く苦労する社会派ではなく凛々しく可憐に不幸に立ち向かう少女小説としてはこれでいいんだろう。最後はほんとの少女の如くの無垢に還って、それから・・・・・ああっ!

 ウェブ上でこの映画についてふれているのは芦川いづみのファンサイトだけだけど、あんたがたストーリーを間違えとるよ。明らかに社会派ものでもないし。あえて云うと、薄倖の天使・芦川いづみの寓話といった感じ。
 大時代な少女小説や少女まんがを現代に復活させるこころざしを抱く者がもしまだこの世にいるのならこれを観ろ。あたしはこれまでの3回の放映を全部観たけど、まだあと3回の再放送があるみたいで全部観るかも知れん。
 後に結婚する芦川いづみと藤竜也のたぶん初共演で、なかなかいい對峙をしている。ビデオ化もされておらず、映画ファンにもあんまり識られてないような気がするけど、これは名作。

 
 
   


2002/2/7  十二人の怒れる男の恐怖

 このあいだBSで『十二人の怒れる男』をやっておりまして、久しぶりに観ました。
 なんかこの話がおかしいという人々がいるみたいでして、あたくしも高校生の頃にテレビで観たときおかしいと想いましたけど、けどけどこの映画は陪審員制というか民主主義のおかしさ怖さを描いたもんなんでしょ?違うんスか?!!

 現に起こっている殺人事件に対する善良な市民の目撃証言を机上の空論だけで次々と否定していくヘンリー・フォンダは終始悪魔的な表情を浮かべておりますし、とくに最後まで頑張っていた男が意見を翻すのはなんの理窟もなくただほかの十一人の数の圧力に屈しただけなんですから。
 この最後の男に関してはいくらでももっともらしい理窟をくっつけることが可能なのに、あえてやってないのは、創り手側が「ひとりの煽動者によって民衆の意見なんていくらでも操作できるんですよ。有罪か無罪かなんてこんないい加減なもんなんです。民主主義なんてじつに怖いもんですね。数の力で正義なんてどうとでもなるんです」て訴えてるわけでしょ?違うんスか?!!
 いや、これはガス人間の文章みたいなひねった視点ではなく、正統的な観方だと想ってたんですが。
 あたしは映画や演劇の評論なんて一切読まないんですが、米国なんかではどんなような観られ方をしているのか、ご存じの方はご教示ください。なんか、ちと不安になってきた。

 恐るべきデマゴーグであるヘンリー・フォンダが正義の人で、『十二人の怒れる男』が民主主義の正しさを描いた映画だと受けとめられているとするなら、身震いするほど怖いです。今頃こんなことを云ってるのは、あたしがなんかずれておりますか。
 もちろんこれは裁判の話ですから通常の議論とは違ってちょっとでも疑いが差し挿めるのなら無罪でいいのですが、しかしそれにしたってあまりに無茶苦茶な論理で、証人の眼が悪い「可能性がある」(しかも、若く観られたいとか目立ちたいとかいう理由だけで偽証という重罪を犯している「可能性がある」!)ということで疑えるのなら証拠なんてすべてひっくり返すことができますし、「遠視かもしれない」「そんな創り話を信じろというのか」というじつにまっとうな反論は「サディストの偏見」としてヘンリー・フォンダにことごとく封殺されてしまう。
 この映画自体がヘンリー・フォンダで、観客は陪審員というメタの図式があるわけですが、恐るべきデマゴーグの人心操作のトリックは最後の男にあるとあたしは視ます。
 この男は自分の息子への憎しみのためから有罪(死刑)に固執するわけですが、無罪に転じるに当たって理窟がないだけではなくドラマもない。事件の読み解きや議論によって息子への憎悪が溶けるという展開があるわけではなく、ただ数の圧力によって自らの偏見を悔いるということになっている。
 ここで容疑者が殺人を犯したかどうかということと、この男の偏見というまったく関係のない事象が意図的に混淆される。劇中でヘンリー・フォンダも使っている手口だ!ヘンリー・フォンダのほうはもっと悪質で、自分と違う意見は「偏見」と決めつけているわけですが。いや、創り手はさらに上手で「自分」ではなく「ヘンリー・フォンダ」と違う意見は「偏見」と決めつけているわけですが。
 作劇としてもおかしな具合で、憎んでいるはずの息子の写真を大事に持っていて、赦したときにその写真を引き裂いて捨ててしまうというちぐはぐな話になっている。
 これはまあ、子離れできない親が代償行為としてほかの子供を死刑にしようするんであって、最後は逆に容疑者ではなく息子の写真を捨てることによって子離れすると読み解くこともできるのですが、そんな複雑に交叉した図式を当てはめるには肝心の逆転時にさえドラマがない掘り下げ不足の展開ではやはり無理があって、息子と容疑者に対する憎悪と赦しは単純に連動しているべきなんですが。実際、ほとんどの観客は連動させて観ているはずで、写真を破るという劇的な幕切れになんとなく誤魔化されているだけです。

 これだけ出鱈目な話が論理的な話であるという印象さえ抱かせながら観客の胸を打つのはヘンリー・フォンダの説得術と同じくテクニックとしては最上で映画としては大成功、あたくしとしても傑作として認むるに異論はないわけですが、人々がそのまま「正義」として受け取っているとするならば。
 自分たちと違った国の考え方を「サディストの偏見」であると、アメリカ人はディベート・テクニックではなく本気で信じ込んでいるようで、そんな米国の独善性を非難する人々もこの映画は「正義」として受け取っているとするならば。
 いや、人々がこんな簡単に操られるわけではなく、たんなるあたしの想い過ごしならそれでいいのですが。なんか、ちと不安。論理的な映画だと考えてる人はほんとにいるようで、そういう方に限って論理的思考の大切さを説いてたりして、あたしにはとても信じられんのですが。

 文明の衝突がどうしたとか、あるいは掲示板文化がどうとかいう以前に、こういう基本的なことをはっきりしておいてもらわんと、どうにも落ち着かんな。
 英語に弱いせいか、タイトルの意味がもひとつよく判らんということもあるし。こういう怖さを顕した題名と考えるのはさすがに深読みか。聖書か何かの言葉でしたっけ?イエスが逮捕されて理性を失った十二使徒のことだったような気がするけど、違ったかな?

 
 
  


2002/1/1  ガス人間第二号

 阿佐ヶ谷ラピュタで円谷英二特集をやっておりまして、あたしはゴジラ物以外の特撮映画は子供の頃テレビで観ただけでビデオでさえ観てないので、きちんと観るのはじつは今回が初めてだったりします。
 『マタンゴ』はやっぱり奧深くも怖かったし、『妖星ゴラス』はやっぱり莫迦莫迦しくも壮大だったし、『宇宙大戦争』のパラボラはやっぱり美しかった。子供の頃のイメージが壊されないどころかさらに大きく膨らませることができるとは、作品の力強さを再認識いたします。
 ちなみにあたしくは細身好みではなくデブ専ですので、ロケットやドリルではなく断然!丸まっちいパラボラであります。男ならパラボラ!それも『地球防衛軍』の<マーカライト・ファープ>のように細長い脚がついてるのは邪道でありまして、『宇宙大戦争』の如く大根脚でしっかと大地を踏んまえたパラボラであります。男なら絶対パラボラ!!
 昔は正月といえばこの手の映画をテレビで観るための日という感じでしたが、最近やらなくなったのはけしからんことであります。子供の頃に『マタンゴ』でトラウマを形成することは大事なことなのですが。

 まあ、そんなことで存分に堪能していたのですが、去年最後に観た『ガス人間第一号』の純愛には號泣いたしました。こんな美しくも素晴らしい作品だったのか!
 純愛物の最高傑作は三島由紀夫の小説『春の雪』だとあたしはこれまで想っていたのですが、これは完璧に越えておるではないか!!
 ウェブ上では「第二号がいないのになんで第一号なの」というツッコミが多いですが、あたしはヒロインの八千草薫がガス人間第二号、いやむしろ彼女こそが本物のガス人間であってガス人間と称する男は第二号に過ぎないよという意図のもとに構成された物語であると視ています。
 やっばり無理があるか?いや、そうではあるまい。
 以下の異端の解釋を読む前に、純愛好きなら『ガス人間第一号』を必ず観るように。

 この作品は大胆な省略法を採用することによって成功しており、住む世界のまったく違うふたりがどうやって恋人となったのか、名門で踊りも名手であるはずなのにこの流派がなにゆえ没落したのかよく判らんようになっている。なにより、八千草薫がなにを考えいるのかまったく判らない。
 己のすべてどころか世界のすべてを捧げようとしているガス人間の純愛に対して、同じく愛情を持ってるのか単なる道具と想っているのか、自分のために爲される兇惡犯罪についてどう想っているのか、舞踊に執拗にこだわるのは芸術上のことなのか名門の意地に過ぎないのか一切合切なんにも判らない。
 名門の日本舞踊の女の家元なのに長唄で能を舞う松葉目物、それも新作をわざわざやるという話なのは、美女と般若のふたつの能面を交互につけさせるためなんだろうけど、八千草薫はそんなよくある女の二面性の怖さを遙かに凌ぐ複雑な造形をされている。むしろ感情のまったくない気体と云っていいほどの透明な存在ゆえにあらゆる情念を内包しているように感じられる。
 何事にも無関心に見える彼女が唯一執念を燃やす舞『情鬼』は「蒸気」と掛けているのだろうし、貌を白塗りにしているのも「蒸気」と化してしまったことを象徴しているのだろう。
 そして、最後に劇場に充滿したガスに点火することによって自らほんとに気化し、ガス人間と一体化する。ここで彼女の芸術と愛情は完結する!三島由紀夫にも通ずる見事なる物語構成だ!
 婦人記者が「女として」舞踊を取りやめるように説得するが、無反応のまま八千草薫は強行する。その上に点火装置を切ったのはおそらくガス人間ではなく彼女で、最後まで舞い終わったあとに自ら点火することによって、芸術家としても女としてもすべてを、絶対の美を手に入れるのだ!
 客のまったくいないがらんとした劇場でただひとり満足気に理想の女の舞を見詰めるガス人間と、屈辱的な状況でも凛として舞い続ける美しすぎる八千草薫!なんと素晴らしい完璧なる構図!
 この物語で眞の絶望者であるのは肉体を欠損してしまった土屋嘉男ではなく八千草薫のほうである。最後、彼女の衣装の切れ端を握り締めながら劇場の外に這い出す土屋嘉男はじつは燃えカスの個体なのであって、眞のガス人間は見事に気化して姿を消してしまった八千草薫のほうなのである。いや、彼女は最初から一貫して気体であったのだ!

 東宝特撮にお馴染みの顔ぶれが並ぶなかでひとり異様な感じさえする配役の八千草薫は、宝塚出身で日舞の心得があるから連れてこられたんだろけど、あれだけの柔らかい美貌なのに底知れぬ冷たさと怖さを同時に併せ持っていてもうこの役に填りまくり。『生きている小平次』でも女の怖さを見せてたけど、最後まで正体を隠したこっちのほうが怖い。こういう役ではよくある細身の冷たい美女ではなく丸まっちいのでパラボラ好きにもたまらん。
 省略の多いこの物語、とくに眞のガス人間・八千草薫を読み解くには劇中舞『情鬼』を読み解かねばならぬであろう。あたしはドラマに引き込まれてしまいこの長唄の歌詞を一言も聴き取れなかった。もうすぐ販売されるDVDを観ても冷静に聞き取れるかどうか自信がない。
 『情鬼』の歌詞が載っている文献があればご教示いただきたい。パンフには解説があるのでしょうか。探偵小説には『情鬼』という作品がいくつかあるけど、なんか関連性はあるのでしょうか。作詞の片山貞一という名は聞いたことないけど、どういう人なんでしょうか。

 もう一度念を押すが、純愛好きの諸氏は必ず『ガス人間第一号』を観なさい。できればスクリーンのほうがよい。
 絶望者であるなら号泣できます。

   4/2 君よ!そこに遺書は遺せたのか!?も参照のこと。

 
   



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